再掲「アメリカの反知性主義」リチャード・ホーフスタッター著 はこんな本だった
【ザックリとしたまとめ】反知性主義は、バカといった意味合いではなく、民主主義の礎ともなる積極的な価値観である。この価値観の出発点は、エリートという知を独占し、独善的になっていた存在からの独立である。しかし、この価値観も堕落し、独善的な性質のものになってしまう。これを克服するには、真理を求め続ける謙虚な人にならなければならない。
再掲「アメリカの反知性主義」リチャード・ホーフスタッター著 田村哲夫訳 みすず書房 2003年12月19日初版はじめに
本書、実は以前(7年くらい前)にもまとめたことがある。
そして、本書のまとめ記事としては、山形浩生氏のまとめ記事の右に出るものはないと思う。
氏の記事は、大変わかりやすく、かつ的確&コンパクトな逸品なのだ。
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ちなみに、山形浩生氏は、一昔前にベストセラーとなったトマ・ピケティ「21世紀の資本」の翻訳者としてもお馴染みの人物である。最近では『「社会正義」はいつも正しい』という書を翻訳されている。
だから、本書「アメリカの反知性主義」のまとめとしては、山形氏の記事でもうすでに十分なのだ。
だが、今回はブログ主が暇だったので、「アメリカの反知性主義」のまとめというか、「反知性主義ってこんなもの」的な記事を書いてみた次第である。
「反知性主義」=「バカ」か
以前まとめ記事を書いた2015−16年当時、この「反知性主義」という言葉は、大統領選に出馬したドナルド・トランプになぞられながら、当時の安倍政権を批判するものとして使われていたかと思う(そんな出版物が多かった)。
要するに、アベを支持している奴らは「反知性主義」の「バカ」どもなのであり、こうした考えなしで直情的な雰囲気はヤバイのだ、日本はダメになってしまうのだ、といった文脈で。
けれども、ホーフスタッターの言う「反知性主義」とは、「バカ」とかいったものを意味していない。
そんな単純なものではなく、「反知性主義」というものは、我々の「民主主義」の礎ともなる大変貴重な価値観なのだ。
権威への反抗としての「反知性主義」
そして、この「反知性主義」の潮流は、アメリカ文化においては「昔からあったもの」なんだ、ってなことをホーフスタッターは述べている。
そもそも、本書の舞台となるアメリカは「プロテスタント」の国家として爆誕した。
それはつまり、「ローマ」に代表されるような「既成の権威(エリート)」に対する反発が、彼らのアイデンティティの根底にある、ということだ。
「反知性主義」ってのは、「知」を牛耳っている「既成の権威(エリート)」に対する反発から出たものなのだ。
この辺のことを、山形浩生氏は次ように的確な言葉でまとめている。
ヨーロッパでは伝統的に、知性や知識・教養は行政的、宗教的な権威と不可分だった。でもアメリカはまさに、そうしたヨーロッパ的な権威への反抗から生まれた、それが嫌な人たちが逃れてきた国だ。むずかしいお勉強しなくても、ご立派な学校にいかなくても、高尚な文化がわからなくても、人生や世界の真理は十分にわかるはずだ、いやむしろそういう余計な知恵を身につけないほうが、本質的な知恵を獲得できるはずだ、という発想がそこには根強くある。役にたたない空理空論より、実践を通じた実学、ビジネス、技術が重要なんだという発想がある。それが反知性主義の基盤だ。
『山形浩生の「経済のトリセツ」 反知性主義1: ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著 より一部抜粋』
上記のように、「反知性主義」というものは、既成の「知」(既成の権威、ヨーロッパ的な権威)には反抗するものの、だからと言って「真理」とかいったものにまで逆らっているのではない。
つまり、「反知性主義」ってものは、「知」を軽視する「バカ」を意味する用語ではなく、どちらかというと「脱・依存」、つまり「独立」とか「自立」とかいった意味合いの方が近いものだと思う。
個々人の「経験」に根ざす「反知性主義」
この辺のことを、もうちょっと詳しく書いてみよう。
この段では、「真理」の獲得を目指すことを「山登り」に例えてみたいと思う。
むか〜しのヨーロッパ文化においては、「真理」への登山道は、「知」を管理する権威(ローマ)が敷設するものであった…と言えよう(少なくともそうした雰囲気はあったのだろう)。
一般民衆は、その整えられた山道を歩いてゆくだけで良かった。
けれども、そのような雰囲気にプロテスタントたちは反抗する。
彼らは、「知」によって整えられた(押し付けられた?)山道を歩くことを拒否し、自分たちの「経験」を頼りに、この「真理」への道を切り拓こうとしたのである。
このように、「反知性主義」とは、「権威」に依存した状態から脱して、民衆一人ひとりが「独立」し、そして己が「経験」を頼りに「真理」の獲得を目指すものなのだと言えよう。
こうした面においては、山形氏の言うとおりに、「反知性主義」というものは「積極的な価値観」なのである。
そして、こうした価値観、権威に依存しない価値観、皆平等であるはずだという価値観こそが、「民主主義」を育んできたのだ。
「反知性主義」の堕落
そう、元々は、「反知性主義」とはこういう野心的な性質のものであった。
けれども、彼らもまた「堕落」する。
かつて、ヨーロッパ的な権威は「真理」の所有者を気取り、「知」の殿堂でふんぞりかえるようになり、「真理」へ至る山登りをやめて、そうして堕落するようになった。
それと同じように、「反知性主義者」たちもまた「堕落」するのである。
権威に対する依存をやめ、「独立」し、そして成功をおさめた彼らもまた、その成功のゆえに、「真理」の所有者を気取り、「経験」の豪邸にふんぞりかえるようになり、「真理」への山登りをやめ、堕落したのである。
それによって、初めのころは「独立」であったはずのものが、単なる「独善」に成り下がってしまった。
この「堕落」した「反知性主義」の代表例が、本書でも取り上げられている「マッカーシズム」のような動きである。
山形氏のまとめ記事の中にも次のような記述がある。
それなのに、そのよい衝動から始まった反知性主義は、アメリカの歴史上で常に粗野で偏狭で下品で抑圧的な動きにつながる。マッカーシズムがその典型だ。かれは、清教徒の到来からその歴史をずっと描き出す。エリートが強くなると、反知性の動きが盛り上がり、 それが知識人排斥の嵐となって、最低の衆愚がやってくる。
『山形浩生の「経済のトリセツ」 反知性主義1: ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著 より一部抜粋』
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知的生活の意味は真理を所有することにはない、ということについて
どうやらわたしたちは、「真理」の所有者を気取り、「真理」を私物化した時に、「真理」から離れ、「真理」を見失って、そして「堕落」してしまうようだ。
それはつまり、どんなに「真理」のそばに近づこうとも、その所有者を気取ってはいけないし、それを私物化してはいけない、ということだ。
だとしてみると、これはかつて「プロテスタント」の人々がそうしたように、堕落した既成の「権威」に反抗したからといって、それが堕落に対する十分な処方箋とはならない、ということだろう。
「真理」という頂を目指す登山は、永遠の登山であると思う。それは「知」の登山道を通ろうと、「経験」の登山道を通ろうとかわることのないものだ。
登山を進めるその途上で、どんなに成功しても、どんなに繁栄しても、それで「真理」という頂を極めたということにはならないのである。
この点について、本書には次のような印象的な記述がある。
知的生活の意味は真理を所有することではなく、不確実なことを新たに問いかけることにある。ハロルド・ローゼンバーグは知的生活のこの一面を要約して、知識人とは解答を問いへと変える人のことだといった。至言である。
「アメリカの反知性主義」(p.27)
この引用では、知識人のことを語っているのだが、上記の「知的生活」を、「真理の獲得を目指す生活」と言い換えれば、「反知性主義」にも当てはまると思う。
我々はいつだって未完成な存在である。
けれども、そのことを忘れてしまったら、押し付けがましい独善的な人間に成り下がってしまうのだ。
「知」の道を歩むエリートは、空理空論を振りかざす嫌味ったらしい人になってしまうし、「経験」の道を歩む民衆は、偏狭で下品な衆愚になってしまう。
であるから、「堕落」への唯一の処方箋となりうるのは、常に「謙虚」であり続けることであり、そして「真理」を問い続け、求め続けることなのであろう。
決して「真理」を所有することではないのだ。
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