ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

再掲「ニューエイジについてのキリスト教的考察」

教皇庁 文化評議会/教皇庁 諸宗教対話評議会
ニューエイジについてのキリスト教的考察」
JESUS CHRIST THE BEARER OF THE WATER OF LIFE:
A Christian reflection on the "New Age"

ニューエイジについてのキリスト教的考察

ニューエイジについてのキリスト教的考察


 この『ニューエイジについてのキリスト教的考察』という本。実は、以前にも(「ニューエイジについてのキリスト教的考察」その1 - ハキダメ記)取り上げていたのだが、その時、主眼においていたのは本の「要約」であったので、その「要約」を著作権法の観点から削除した際、拙ブログ記事にはその残骸のみが残る結果となり、購読の参考にならないようなテイをさらすことになってしまった。
 なので、今回は、少しでも購読の参考になるような感想を述べていこうと思うのである。


 この書で取り上げているニューエイジ」というムーブメント。最近では、すっかり下火になり、もはや廃れてしまったものと思っている人も多いと思う。
 しかし、この種の現象の根底にあるのは「グノーシス主義というものであるらしい。

ニューエイジが実際に意味するのは、西洋のエゾテリスム(秘教主義)の現代版です。エゾテリスムは、キリスト教初期の時代に生まれたグノーシス主義の諸グループにまでさかのぼります。(p.16)

 そして、それは決して廃れることのない現象なのだという。

グノーシス主義は一度もキリスト教の領域から離れ去ったことはありません。それどころか、つねにキリスト教とともに生き続けており、時にはそれぞれの時代の哲学的思潮の形をとり、より多くの場合は、公然とではなくても、実質的にキリスト教の本質と対立する、宗教的、または疑似宗教的形態をとりながら存続しているのです。(p.19)

 ここで一言。「グノーシス(gnosis)」とは、ギリシア語で「知識・認識」という意味である。
 グノーシス主義の代表格といえば、聖アウグスチヌスでおなじみの「マニ教」である。
 そして、グノーシス主義の特徴といえば、善と悪、光と闇といったような「二元論」。それともうひとつの特徴といえば、「神秘的な知識」の獲得によって「覚醒」を目指すという、エリート主義的な傾向である。


 では、「ニューエイジ(新しい時代)」とは、具体的に何を指しているのだろうか。
 それは、占星術でいうところの水瓶座アクエリアス)」の時代のことを指しているという。それは、キリスト教の時代とされた「魚座」の時代の次にやってくる新たな時代のことだというのである。
 ニューエイジャーたちは、「ニューエイジ」の到来を強く待ち望んでいるという。それは、「理想の未来像」を待ち望むことであり、同時にキリスト教に代表される既存宗教の終焉を待ち望むことも意味しているという。

 我々現代人は、その多くが、日常に忙殺されながらも、心の奥底に「渇き」をおぼえ、その癒しを求めて生きている。
 そして、多くの人が、キリスト教に代表されるような「既存宗教」にも、我々を取り巻く「政治体制」にも、また科学・合理的な「現代医療」にも、その癒しを見出し得ていないという。そこに出現してきたのが、この「ニューエイジ」というムーブメントなのだと本書は指摘しているのである。

いったいニューエイジとの関連において「スピリチュアリティ霊性)」とは何を意味するのでしょうか。この問いに対する答えが、キリスト教的伝統と、ニューエイジと呼ぶことのできる多くのものとの間のさまざまな違いのいくつかを解く鍵となります。ある種の形態のニューエイジは、自然の諸力を利用して異界と交信しようとします。それは、人の運命を見いだしたり、人が自分自身と自分の周りにあるものの力を引き出すために、自分を正しい波長と合わせるのを助けるためです。多くの場合、ニューエイジは完全に運命論的です。一方、キリスト教は、自分の外、また自分の上を仰ぎ見るように招きます。それはわたしたちに愛の対話を生きるように呼びかける神の「新しい到来」への招きです。(p.14-15)

 このように、キリスト信者における霊的生活(スピリチュアリティ)とは「神との関係」を意味している。一方、ニューエイジにおけるそれは「全体との調和と融合の感覚」を意味しているという。
 ここに、キリスト教神秘主義ニューエイジ神秘主義との根本的違いがあるのだと本書は述べている。
 たとえば、ニューエイジャーが、不快感や疎外感を感じたとき、彼らは「全体の中へ溶け込むこと」によって問題を解消しようとするという。そうしたときに必要となるのが、「融合した意識状態」に自分を持っていく為の様々な「技術」や「セラピー」である。
 これに対して、キリスト信者が神に向かうためには「技術」を必要としない。なぜなら、神は我々の側に自ら降りてきて寄り添う存在とされているからである。

キリスト教の祈りは、自己を省察し、静寂を求め、自分を無にする実践ではありません。むしろそれは、愛の対話であり、「『われ』から神である『汝』への脱出すなわち回心の態度を含んでいるのです。(p.76-77)

 簡単に言えば、ニューエイジが、霊的なものへ「上昇」し、それと「融合」することに努めているとすれば、キリスト信者は、「降下」してくる神と「対話」することに努めていると表現できるであろうか。

 ニューエイジの特徴の一つが、「覚醒」に主眼を置くグノーシス性だとすれば、もう一つは「ホリズム(全体論主義)」であるという。
 これは、先に述べた「全体との調和と融合の感覚」を目指すものであり、それはあらゆる「差異」や「区別」をなくそうとする試みであるとも言えるのである。そして、これはグノーシス主義の特徴である「二元論」を克服する試みでもある。
 このように、ニューエイジは、「光と闇」のような「分裂」を和解させ、「融合による一致」をもくろむのである。

ニューエイジは、霊魂と身体、女性と男性、精神と物質、人間と神、地球と宇宙、超越と内在、宗教と科学、諸宗教の違い、陰と陽を和解させることができると主張します。ですから、そこには他性は存在しません。人間についていえば、残るのはトランスパーソナルなものだけです。(p.58)

 他性というのは「他者性」のことだろうと思う。それがなくなるということは、つまり、「わたし」と「あなた」の区別がなくなるということを意味しているのだと思う。
 しかし、「わたし」と「あなた」というものが「別個の存在」であることは、「分裂」した状態と言えるのだろうか、と私は疑問に思う。
 このあたりに私は、前回取り上げた『ソレルのドレフュス事件』におけるブルジョワによる「平等」に似た傾向を見てしまう。
 『ソレルのドレフュス事件』において、ブルジョワは、すべての人をブルジョワに「均一化」することによって「平等」を実現しようとしていた。
 これと同じように、ニューエイジは、「トランスパーソナル」のもとに人類の「融合」を実現しようというのだろうか。
 こうした傾向に対して、本書は次のように警鐘を鳴らしている。

宇宙的自己への個人の融合、宇宙的調和における差異や対立の相対化ないし消滅は、キリスト教が受け入れることのできないものです。

 真の愛が存在するためには、自分と異なる他者がいなければなりません。真のキリスト信者は、愛が与えられることを受け入れることも拒むこともできる他者の能力と自由の内に一致を求めます。キリスト教において、合一とは交わりであり、一致とは共同性です。(p.93)

 このように、キリスト教は、「自分と異なる他者」の存在を必要としているという。なぜなら、それは「真の愛」を存在させる為だからだというのである。
 そして、キリスト教にとって「合一」とは、「融合(差異をあいまいにすること)」ではなく、「交わり(差異を認め合うこと)」のことなのだ、と本書は述べているのである。

 また本書は、覚醒による「内的変容」が「外的世界」に与える影響を、ニューエイジャーたちが過大視している点をも問題視している。

次のような言明を含む場合に、この理論がどの程度科学的かを問わずにはいられません。「自立した人間の社会では、戦争が起こることは考えられません。自立した人間は、すべての人類が結びついていることを見いだしており、異なる思想、異なる文化を恐れず、また、あらゆる革命は内面から始まり、自分の覚醒のしるしをだれに押しつけることもできないことを知っているからです」。あることを考えることができないという事実から、あることが起こりえないと結論づけるのは、非論理的です。このような推論は真の意味でグノーシス主義的といえます。それは知識と意識を過大視するからです。(p.55)

 人類が、みな「覚醒」さえすれば戦争は消えてなくなるのだというニューエイジのこのビジョンは、いささか物事を単純視しているように思える。
 ニューエイジにとって「覚醒」は「完成」を意味するのかもしれないが、キリスト教にとっての内的変容である「回心」は「完成」を意味しない。それは「立ち直り」を意味するのであり、それは「はじまり」を意味するのである
 例えば「回心」とは、それまで気が付かなかった「光」を知ること。そして、信仰生活とは、草花のようにその光に向かって伸びていくことである。だから、回心をしても、我々は「完成体」にはならず、相変わらず未熟な草花であり続けるのである。

 ニューエイジャーたちは、既存の宗教ばかりでなく、既存の科学技術に対しても批判の眼を向けているという。科学による変革は期待はずれに終わったからである。
 そこで彼らは「霊的な領域」に眼を向けた。しかし、それは既存宗教に回帰することを意味していないのである。

ニューエイジは「宗教への回帰」を表すしるしの一つとも考えられますが、はっきりしているのは、それが正統なキリスト教教理と信条への回帰ではないということです。ニューエイジ「運動」が西洋文化に出現したしるしは、ニューヨーク州ウッドストックで一九六九年に行われた有名な音楽祭と、ミュージカル「ヘアー」です。「ヘアー」は、「アクエリアス」という象徴的な意味をもつ曲によってニューエイジの中心テーマを表現しました。(p.30-31)

 このミュージカル「ヘアー」の「アクエリアス」の箇所には以下のような注がついている。

この歌の歌詞を思い起こすのは意味がある。この歌は速やかに北米と西ヨーロッパのすべての世代の人々の心に焼きつくことになった。「月が第七の家にあり、木星が火星に並ぶとき、平和が惑星たちを導き、愛が星たちを指導する。これが水瓶座の始まり。・・・・・・調和と理解、共感と信頼が満ちあふれる。もはや嘘もあざけりもない。黄金の生活、幻の夢、神秘的なクリスタルの啓示、そして心の真の解放。アクエリアス・・・・・・」。(p.147)

 以上のような兆候が見受けられ、かつ反キリスト的な運動であるとはいえ、ニューエイジ」というムーブメントは、冷たく渇ききった現代に、「ぬくもり」と「癒し」をもたらそうとする誠実な運動なのだろうと私には感じられる。そして、私たちを取り巻く世界を、堅苦しく、息苦しいものにしてきたのは、カトリック教会にもその一因があるのかもしれない。
 ニューエイジャーは、カトリック教会のような「父権的権威」を忌み嫌っているが、それは彼らが、権威から価値観を押しつけられることによって、自分が自分でなくなってしまうことを危惧しているからではないだろうか。もしそうなのだとしたら、その危惧やその気持ちはよくわかるのである。

 このように、ニューエイジは既存宗教のキリスト教を拒絶する。しかし、キリスト教徒の課題は、このようなニューエイジャーを拒絶することではなく、誠実な彼らとどのように付き合っていくのかということにあるのだろう。
 ニューエイジというムーブメントは落ち着いたように見えるが、その価値観は、我々を取り巻く現代社会に深く浸透し、極めてありふれたものになっている。それ故に、私たちはそうした潮流に「融合」されないためにも、ニューエイジとの「差異」を明確に意識し、その上でニューエイジと向き合っていく必要があると思う。


 本書の後ろに付録として掲載されている「ニューエイジ用語集」も一読の価値はあると思います。グノーシスやエゾテリスムなど様々な用語がわかりやすくまとめられているのです。興味を持たれた方は、是非買って読んでみることをお勧めします。

 と、ここまで書いて、この本のアマゾンのページを確認したら、この本が絶版になっていることが判明した。実際に、四谷にあるキリスト教専門店「サンパウロ」に行き、チェックしてみたが在庫はなかった。・・・・・・ざんねん。