ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

『苦しみのキリスト教的意味 サルヴィフィチ・ドローリス』ヨハネ・パウロ二世著

 今回は、「苦しみのキリスト教的意味」という副題を付けられた、ヨハネ・パウロ二世による教皇書簡、『サルヴィフィチ・ドローリス』の内容を解説していきたいと思います。

『サルヴィフィチ・ドローリス --苦しみのキリスト教的意味--』ヨハネ・パウロ二世 サンパウロ発行 1988年3月25日初版

サルヴィフィチ・ドローリス

サルヴィフィチ・ドローリス


 この本は、以前にも取り上げていたのですが、わけあって「要約」部分を削除してしまったので、ブログ主の「感想」部分だけが残る結果となっておりました。
 なので、今回は、軽めに本書の内容に触れ、購読の参考になるような記事に仕上げていきたいと思っております。
 本書は、新書サイズの本で、ページ数も少ない(全136ページ)ので、読み終えるまでの時間もかからず、かつ興味本位で読み進めてもおもしろい本だと思います。
 ただ、売られているところが「カトリック教会前の売店」とかに限られていて、一般書店では入手できないというのが難点ですが......。

苦しみの意味。「罰」か「試練」か。

 「苦しみ」にどんな意味があるのか、そうした問いに本書は答えようとしています。
 その「苦しみの意味」を考察するに当たって、本書ではまず、旧約聖書にある『ヨブ記』を取り上げています。
 それは、超絶いい人「ヨブ」が、耐え切れぬほどの「苦しみ」を受ける、という内容のものです。

どのような過失もなかった義人が、数えきれない苦しみを受けて試される物語はたいへん有名です。ヨブは自分の財産、息子、娘たちを失い、最後に自分自身が重い病気に見舞われます。この恐るべき状況の中で、三人の友人がヨブの家に来ます。一人ひとりがそれぞれヨブの家に行って、ヨブは恐るべきさまざまの苦難に襲われたのだから、《重大な悪を何か犯しているにちがいない》ということをヨブに認めさせようとします。なぜなら、苦難はいつも罪に対する罰として下される--と彼らは言うのですが--絶対の正義の神によって送られ、正義の秩序に従って、その理由が見つけ出されるというのです。ヨブの友人たちは、悪の道徳的正義を《彼に確信させる》だけでなく、ある意味で、彼らは苦しみの道徳的意味を自分たちに向けて《正当化》しようとしました。彼らの目には、苦しみは罪に対する罰としてのみ意味を持ちました。善には善を、悪には悪を報いられる神の正義の面だけで見たわけです。


 「苦しみの意味」についての比較的一般的な捉え方は、ヨブの友達のように、何らかの「罰」としての「苦しみ」、という捉え方でしょう。子供の時、悪いことをしたら叱られたように、何かしらの「罰」としての「苦しみ」です。

 で、ヨブの友達たちは、悪いことをしたから苦しんでいるのだと、ヨブを説き伏せようとします。

しかしヨブは苦しみを罪に対する罰として見るやりかたと戦います。(p.33)

 事実、超絶いい人「ヨブ」は、なにひとつ悪いことはしていないのです。そしてそれは『ヨブ記』の最後の方で、神自身も認めていることなのです。ヨブの苦しみは、「罰」という意味を持っていないのです。

 ......ちなみに、『ヨブ記』の冒頭では、神とサタンの会話シーンがあります。
 そこで、サタンが「ヨブは恵まれているから、あなた(神)を讃えているのだ。彼を悲惨な目に遭わせてご覧なさい。きっと、あなたを呪うでしょうよ♪」と神を《煽る》のである。
 で、神はサタンのこの煽りを受け、ヨブに苦しみを与える許可を出してしまうのです。ヨブ記の神は、ずいぶんと《煽り耐性》がないように思われてしまいます。

《試練》としての苦しみ(今日的次元としての苦しみ)

 こうした、ヨブが受けたような、理不尽で不条理な「苦しみ」について、本書は次のように述べています。

 もしも主がヨブを苦しみで試すのに同意されるなら、主は《ヨブの義を示すために》それを行われるのです。苦しみとは試練の性格を持っています。(p.35)

 本書は、苦しみには「試練」という意味がある、と主張しています。

事実、苦しみはいつも《試練》です。--ときには非常につらいこともありますが--人類に課せられた《試練》です。(p.84)


 そして本書では、神がある人に「試練としての苦しみ」を与えるのは、彼を《回心》に導くため、つまり彼を神に向かわせるためなのだ、と説明しています。

こうして、選ばれた人々の上に下された苦しみの中に、神はご自分のあわれみに人々を招かれてもおられます。そのあわれみこそ、人々を回心に導くものでした。(p.37)

 
 「神よ。あわれむのであれば、苦難にたたき落とさず、守ってくださいよぉ...」と嘆き、神を信じられなくなってしまう貴兄も多いことでしょう。

 しかしながら、(これが重要なことだが)新約聖書によれば、ヨブのような「義人」の次に、今度は「神自身」が「苦しみ」を受けるのである。

《贖い》としての苦しみ(贖いの次元としての苦しみ)

 それはつまり、「キリストの受難」です。もし、苦しみを「罰」として捉えていると、「神が罰せされた」ということになります。しかし、この苦しみは、まず「試練」としての苦しみなのです。

 そして、キリストのこの「試練」によって人間の罪は「贖われた」のだ、と本書は述べています。

わたしたちは今、苦しみのテーマのまったく新しい次元に直面しているということを、はっきり意識していなければなりません。この次元とは、苦しみの意味の探求を、正義の領域内だけで決定し、結論づけることとは異なる次元です。これは《贖いの次元》です。(略)
神が独り子を世に与えたのは、人間が「滅びない」ためであり、「滅びない」という意味は、「永遠のいのちを得る」ということばによって明確になっています。(p.42-43)


 要理教育の過程でブログ主が教わったことで、うろ覚えなのだが、人間のすべての「罪」を贖えるのは人間ではないという。つまり、人間が雄牛や子羊をどんなにささげても、それは「不完全なささげもの」なのだという。
 おそらく、創造主(神)と被造物(人間)とのあいだには、「質的な差異」があるからであろう。
 それ故、「神自身」を「神の子羊」としてささげたときにのみ、それは人間のすべての「罪」を贖う「完全なささげもの」になるのだという。そして、これが《贖いの次元》なのである。
 ちなみに、『カトリック教会のカテキズム』という分厚い本には次のような記述がある。

 キリストの死は比類のない決定的いけにえである
613 キリストの死は、世の罪を取り除く神の子羊による人間の決定的あがないを成就した過越のいけにえであると同時に、新しい契約のいけにえであって、これにより、人間は、多くの人の罪がゆるされるために流された血によって神と和解し、神との交わりを回復しました。


614 キリストのいけにえは比類のないもので、あらゆるいけにえを完成させ、それらを超越するものです。このいけにえはまず、父である神ご自身のたまものです。御父こそ、わたしたちをご自分と和解させるために、御子を死に渡されました。それは同時に、人となられた神の御子の奉献であり、御子はわたしたちの不従順を償うため、自由に、愛をもって、ご自分のいのちを、聖霊によって御父にささげられました。
カトリック教会のカテキズム』(p.185)

 ちなみに、「わたしたちの不従順」とは、アダムがリンゴをパクついたことに由来する。それによって、神と仲たがい状態になってしまって、和解が必要となったのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ニコデモとの会話の中で話されたこのキリストのことばは、《神の救済のわざ》の中心に、わたしたちを連れて行きます。それはまた、救済の神学であるキリスト教的救済論の本質を表しています。救済は悪からの解放を意味します。(p.41)

 「救済は悪からの解放を意味する」とある。しかしながら、この世に「苦しみ」があるかぎり、「悪からの解放」という救済など、ありえないではないか、という疑問が生じてきます。
 そうした問いに対し、本書は次のように答えています。

キリスト者の苦しみに対する反応は、苦しみの存在が悪であり、人間はそこから解放されることが必要であると考える文化や宗教の反応とは異なっています。キリスト教は、存在と存在するものの本質的善を、力強く証しします。また、創造者の全き善を知っており、被造物の善を証し続けます。人は悪のゆえに苦しみます。悪とは善の欠如、限定、歪みです。(略)このように、キリスト教的な観点から、苦しみの現実性は、いつも善と引き合いにされる悪を通して説明されます。(p.19-20)

 本書は、悪とは「善の欠如」した状態である、と説明している。であるから、「善の欠如」である苦しみの中に、「キリストという善」が置かれ、かつキリストの奉献によって「人々の罪が贖われた」ので、人間は「悪である苦しみ」から救われることになったのだ、ということを本書は言いたいのだと思う。

苦しみそのものは、悪の体験です。しかしキリストは、苦しみを決定的な善、すなわち、永遠の救いという善の最も堅固な基礎とされました。キリストは、十字架の苦しみによって、悪と罪と死の最も深い根元にまで到達されました。キリストは、悪の創始者サタンと、サタンによる創造者に対する永遠の反逆を征服されました。(p.107)


 ヨブが体験したような苦しみは、「悪の体験」としての苦しみであった。しかし、キリストの受難によって、その苦しみから悪は取り払われ、そこに「聖化の恵み」を見いだせるようになった。
 そして、人は自分の苦しみを通して、キリストの苦しみにあずかれるようになったのだ、と本書は述べている。

贖い主は、この世で人間の代わりに苦しまれました。すべての人は、《贖いに関与して》います。一人ひとりの人はまた、贖いを成就された《あの苦しみにあずかるように呼ばれて》います。人類のすべては自分たちが贖われた苦しみにあずかるように呼ばれています。(略)こうしてすべての人は、また、自分の苦しみによって、キリストの贖いの苦しみの参与者になるのです。(p.73)


 また、苦しみは、次のようにも表現されています。

この理由で、苦しみは、教会の目で見るとき、特別な価値があるのです。この苦しみは、善いものです。(p.93-94)

 親からの「虐待」など、すべての苦しみが「善いもの」であり、それにあずかるように招かれているなどとは到底思えないが、それでも私たちの被る多くの「苦しみ」は、私たちを内的に成熟させるものなのであろう。

人間を内的に《成熟》させる苦しみ

苦しみはまた、人間の精神的偉大さ、その《霊的成熟》を表すことへの招きでもあります。(p.83)

 このように、私たちは苦しみを通して《内的成熟》を果たしていくのだろう(それでも苦しむのは嫌だけど)。
 そして、多くの聖人たちもまた、多くの苦しみを通して、精神的な偉大を証明してきたのだと述べられています。

この体が重い病にとりつかれ、まったく無能状態に置かれるほど、生活や行動がほとんど不可能であればあるほど、内的な《成熟や霊的偉大さ》があらわになり、健康で正常な人に心を動かす教訓を与えています。(p.106)

 苦しんだ人ほど、精神的に《大人》になる、ということなのでしょう。


 以上が、本書のざっくりとした私なりのまとめです。参考までに。

 前回、ブログ主が書いた「感想」部分もよかったら覗いていってください。自分が信仰生活初期において深刻に悩んだことについて、我ながらけっこう書けているんじゃないかと思うので♪(長いですけれど)
uselessasusual.hatenablog.com


カトリック教会のカテキズム

カトリック教会のカテキズム