ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「宣教のヨーロッパ」佐藤彰一著

 今回、「ナナメ読み」するのは、佐藤彰一著の『宣教のヨーロッパ』(中公新書である。
 本書には大航海時代イエズス会托鉢修道会という副題が付けられており、ローマ・カトリック教会が、ヨーロッパにおける「宗教改革」を受けて、《新大陸アメリカ》と《アジア》に新たなる活路を見出そうとする過程が語られている。

 最初に断っておくが、本書は「ナナメ読み」には向いていない。というのも、出てくる《地名》や《登場人物》が「多すぎる」ので、ナナメ読みのような「浮き足だった読み方」では、頭がついていかないからである。
 著者の佐藤彰一氏も、そのあとがきで次のように述べている。

索引を付すという新書としてはやや異例な本造りに同意していただくなど、むやみに固有名詞の多い書物を何とか読みやすくしようと努力されている皆さんの姿勢を、著者としてまた一読書人としてありがたく思い、また深く敬意を表す次第である。(p.236)

 「そりゃ、同意するだろ!」と強く感じるくらい固有名詞が本当に多い。読んでいると泣きたくなってくる。編集部の方々には私の方からも敬意を表したい気分である。
 しかし、この「索引」のおかげもあって、本書は、ローマ・カトリック教会が、大航海時代にどのような働きをしたのかを知る上で、これからも役に立つコンパクトで安価な「手引き書」となったのではなかろうかっ! バン(机を叩く音)。


『宣教のヨーロッパ』佐藤彰一著 中公新書2516 2018年11月25日初版


 第1章で、ルターに始まる宗教改革」について、結構細かく(固有名詞が多い!)語られている(私はのっけから心が折られた...)。

 第2章で、宗教改革を受けたカトリック教会独自の立て直しの動きが語られている。

 第3章で、イエズス会爆誕の経緯が語られている。この中で、創設者のイグナティウス・デ・ロヨラは「後学の人」であることが触れられており、彼はなんと44歳の時に修士号の学位を修得したのだという。気力のあるオヤジだなぁと思った。

 第4章で、フランシスコ会ドミニコ会、二つの托鉢修道会の宣教の動き(モンゴル中心)が語られている。

 第5章で、ポルトガル王国を後ろ盾とした、イエズス会のアジア宣教の動き(インド中心)が語られている。

 第6章で、新大陸アメリカの発見、および先住民への宣教について語られている。この章で描かれているのは、さながら昔の映画、『ミッション』の世界である。

清潔で、穏和で、社交的でありながら勇敢で、人身御供を知らず、神官階級ももっていなかった。こうしたグアラニ人をヨーロッパ人奴隷商人から保護するために、イエズス会総長のアクアビバ神父は、一六〇九年にスペイン国王フェリペ三世からパラナ地方を、自治領として割譲してもらうことに成功した。(中略)
 しかし植民者の奴隷狩りの蛮行がこの地を襲った。一六二八年にポルトガル人とスペイン人の一団が、この平穏な世界を襲撃し、抵抗する者を殺し、捕虜にしたインディオは奴隷として攫われた。(p.154)

 かなしい...。

 第7章で、イエズス会の日本宣教譚が語られいる。
 ここでは、「順応政策」について語られている。これは簡単にいうとキリスト教の現地化」である。

ザビエルは山口に滞在した折に、改宗とは、以前は他者を発見し、他者を敬う心構えであると考えたが、今や改宗とは自らが別の文化に回心し、それに見ならい、順応することだと実感していた。(p.178)

 今でこそ、この「順応政策」は、「インカルチュレーション(文化受容)」として肯定的に捉えられているが、その当時のヨーロッパの人々の眼には、イエズス会のこの政策は、奇異なものとして、そしてキリスト教を曲げるものとして映っていたらしい。当時の人々はまだ、《キリスト教》と《西洋文化》をはっきりと分けて考えることができなかったのね。

 第8章で、日本宣教時のイエズス会のカツカツのフトコロ事情が語られている。

その理由は一五九七年から、教皇庁の支援が止まってしまい、総額五万クルサドの収入が不足し、加えてマカオからの船が何隻か難破して、送金が届かなかったという事情もあった。(略)財政的苦境を見かねた家康が、キリスト教に対する真意はともかく、イエズス会士に金子を与えたほどであった。(p.194)

 そしてイエズス会士らは、この財政問題を解決するために、なんと中国との《貿易事業》にまで手を出すのである。で、案の定ひと悶着がおきる。
 また、フランチェスコ会ドミニコ会などの托鉢修道会による日本宣教についても語られている。

 第9章は、「キリスト教の世界化」というタイトルが付けられており、その多くは、ラテン・アメリカのキリスト教について語られている。
 この章でとりわけ興味深かったのは、長崎での「二十六聖人」の遺骸の話である。

「二十六聖人」の遺骸は、一年後の1598年一二月にヌエバエスパーニャの首都に到着した。二十六聖人殉教の図は、はじめマカオの礼拝堂に描かれたとされるが、その後これをもとにした大フレスコ画が、メキシコ・シティの南にあるクエルナバカフランチェスコ会修道院に、この時期に描かれた。(p.218)

 彼らの遺骸がメキシコにあるだなんて知らなんだ。

 興味を持たれた方は、是非購入して、ご一読のほどを。豊富な《固有名詞》と詳細な《索引》が堪能いただけます!。


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