「四つの愛」C・S・ルイス著 はこんな本だった
C・S・ルイスの言う「四つの愛」とは、「愛情」、「友情」、「恋愛」、「聖愛」のことである。
さらにルイスは、「愛の要素」として、「与える愛」、「求める愛」、「鑑賞的愛」の三つを挙げている。
そして、「人間の愛」は、大切なものであるに違いないが、それを「神聖視」してしまってはいけない、ということを述べている。
どんなに強い想いであっても「神聖視」してしまえば、それは私たちを破滅させる「悪鬼」に変わるというのである。
- 作者: C.S.ルイス,C.S. Lewis,佐柳文男
- 出版社/メーカー: 新教出版社
- 発売日: 2011/05/25
- メディア: 単行本
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【注意】今回、ブログ主が読んだのは「旧版(蛭沼寿雄訳)」であり、上のリンク先にある「新版(佐柳文男訳)」ではない。紛らわしくて申し訳ありません(´;ω;`)
四つの愛と愛の三要素、そして「甘え」
C・S・ルイスは、「愛」を次にように四つに分類している。
・「愛情」affection
・「友情」friendship
・「恋愛」Eros
・「聖愛」charity
さらに、ルイスは愛の中にある「要素」を三つ設定している。
・「与える愛」Gift-love
・「求める愛」Need-love
・「鑑賞的愛」Appreciative-love
本書(旧版の方だよ)の蛭沼寿雄氏による解説では、この愛の三要素が次のように簡潔にまとめられている。
「与える愛」とは、例えば、人がその家族の未来の幸福のために働く原動力となっている愛のごときものであって、その結果については本人は与ることもできないし、また見ることもできないものである。
「求める愛」は、子供が母親を慕うがごとき愛である。
「鑑賞的愛」は、人がその対象から何かを得るとか、対象に何かを与えるとかということには関係なく、対象自体がよいことを認めるものである。
「解説」(p.219)
そして、この三要素は、現実生活においては、独立して存在しているものではなく、混じりあいながら存在しているものだという。
ちなみに、三要素の一つである「求める愛」は、以前取り上げた土居健郎氏の言う「甘え」と同義なのである。
土居氏は著書のなかで次のように述べている。
この彼が一般向きに書いた本の一つ『四つの愛』(新教出版社)の冒頭部分において、愛を「与える愛」(Gift-love)と「求める愛」(Need-love)の二つに分けていて説明されているが、この後者が「甘え」に相当するのである。
『「続」甘えの構造』土居健郎著(p.75)
なので、この「求める愛」という愛の要素は、以前土居健郎氏の著書を紹介した時に述べたように「信仰」にとって重要な要素となるのである。
愛が「悪」へと変わるとき
「人間の愛」は「神の愛」にソックリだとC・S・ルイスはいう。
しかし、ソックリだというのでウッカリ「人間の愛」を神聖視してしまえば、そのとき愛は我々を破滅させる「悪鬼」に変わるのだという。
であるから、われわれの「想い」や「愛」がどんなに強いものであっても、それを「絶対視」したり「神聖視」したりしないように気を付けなければならないのである。
われわれの「自然的な愛」は、大切なものであり、軽視してはいけないものであるが、唯一のもの、絶対的なものではないのである。
つまりこれは、「神聖」であるのは「神のみ」ということだろう。
「悪鬼」に変わりやすい愛の代表例として、C・S・ルイスは「愛国心」を挙げている。
そして、「愛国心」を危険なものにするのは、祖国に向けられる愛着のような「感情」ではなく、『自国の民族は優れているのだ』という強い「信念」なのだという(こうした強い想いを「神聖視」してしまうのだろう)。
しかしながら、このような愛国者は、自分の祖国が「偉大」であるが故に愛しているにすぎない。
そのことについてルイスは次のように述べている。
それはあたかも、子供をただ「善良であれば」愛する、妻をただ美しさを保っている間だけ愛する、夫をただ有名で成功しているかぎり愛するというのと同様である。
「第二章 人間以下のものにたいする好みと愛」(p.40)
自分の子供がちっともよい子でなくともしっかり愛するのが「本当の愛」であるのと同様、自分の祖国がちっとも偉大でなくともしっかり愛するのが「本当の愛国心」なのである。
四つの愛「愛情」
「愛情」は、母と子の関係に見い出せるたぐいの愛だという。
この「愛情」は、最も広く行われている愛であり、そして動物のうちにも見受けられる愛であるという。
四つの愛「友情」
「友情」は、四つの愛のなかで最も自然性の少ないもの、最も必然性のないものだという。
そして「友情」とは、洞察や趣味などといった共通のビジョンを持つことだという。
友情の始まる典型的表現は、「何ですって。あなたもですか。私だけだと思っていましたのに」のようなものであろう。
「第四章 友情」(p.88)
であるから、友人を持つために必要なものは、「友人以上のものへの関心」であるという。
四つの愛「恋愛」
「恋愛」は、われわれの性欲をも変容させていくものだという。
「恋愛」によって、性欲は「快楽」ではなく「恋人」を求めるように変わっていくのだという。
また、「恋愛」は「偶像崇拝」に陥りやすいのだという。
よく見受けられる「恋の偶像崇拝」は、恋人同士がお互いを「偶像化」し合ってイチャイチャチュッチュッすること(「君のひとみは10000ボルト」の世界)である。
しかしながら、ルイスによれば、そうしたことは滑稽ではあるが、「真の危険」ではないという。
真の危険は私には、愛人たちがお互いに偶像化することではなくて、彼らが恋愛自体を偶像化することであると思われる。
「第五章 恋愛」(p.146)
先に述べたが、やはりどんなに強い「想い」であっても、それを「神聖視」してはいけない、ということである。
四つの愛「聖愛」
神は、「愛情」、「友情」、「恋愛」という三つの「自然的な愛」とは別の愛、「聖愛」をわれわれのなかに植え込まれたという。
この「聖愛」は「無償の愛」だといえるだろう。
そして、私たちは時折「無償の愛」を求めるが、この「無償の愛」は、われわれの「欲する」愛ではないという。
というのも、われわれは、愛されるのに「理由」を求めてしまうからである。
われわれはわれわれの聡明、美、寛大、公明、有用のゆえに愛されることを欲する。
「第六章 聖愛」(p.173)
私たちは、何かしらの「理由」があって愛されることを望んでいるので、自分に向けられた愛が罪人や敵にさえ向けられるような「無償の愛」だと知るとショックを受けてしまうものだという。
そして、ルイスは次のような「たとえ話」でもって、「無償の愛」を受けること(そして受け続けること)がどんなに難しいことかを表現している。
たとえば、あなた自身が、結婚直後に、不治ではあるが、そのために長年死ぬことはない病気に襲われたとしてみなさい。
あなたは、役に立たず、無力で、いまわしく、嫌気がさす。
妻の収入に頼り、富もうとしたのに貧困に陥り、知性までも損なわれ、癇癪が抑え切れずほとばしり出るのに困りはて、避け難い要求がいっぱいになる。
しかも、あなたの妻の世話と同情は尽きることを知らない、としてみなさい。
「第六章 聖愛」(p.174)
このように、他人から「無償の愛」を受ける(そして受け続ける)場合、われわれは「受ける価値がない」という自責の念にとらわれてしまいがちなのである。
しかしながら、ブログ主思うに、「神の愛(アガペー)」もまた「無償の愛」であるので、われわれは誰もが神の前では「不治の病にかかった病人」のような存在だと言えるのではないか。
そして、そんなわれわれに対する神の世話と同情は尽きることを知らないのである。
であるから、「神の愛(アガペー)」を受けること、そして受け続けることには、「感謝」することはあれ、「受ける価値がない」という自責の念にとらわれる必要はないのである。
また、このような「神の愛(アガペー)」が「聖愛」としてわれわれのなかにも植え付けられているのだから、われわれも他人に尽くすことができる(はず)なのだし、他人から「無償の愛」を受けること、そして受け続けることに感謝することはあれ、後ろめたく感じる必要はないのである。
おしまい。
今回は(も?)うまくまとめきれなかったな。
この旧版は、じゃっかん訳にクセがあって読み辛かった。
- 作者: 土居健郎
- 出版社/メーカー: 弘文堂
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