「アウグスティヌス講話」山田晶著 を買った 【その1】
アウグスティヌスの『告白』は「ある女性」に捧げられた本だという。
その女性とは、アウグスティヌスと同棲生活をしていた人であったらしい。
ふたりは別れてしまうのであるが、アウグスティヌスは彼女に対する懺悔の気持ちもあって、『告白』を著したのだという。
- 作者: 山田晶
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1995/07/04
- メディア: 文庫
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本書「アウグスティヌス講話」は、著者である山田晶氏が、京都にあるとある教会で行った講演の記録である。
山田氏は、そのとある教会で全六回の講演を行ったようである。
本書に収められている講話は、どれもタメになり面白かったのであるが、拙ブログでは、その中から二つの講話、
「アウグスティヌスと女性」
「創造と悪」
を二回に分けて、取り上げてみたいと思う。
今日は「アウグスティヌスと女性」から......
「アウグスティヌスと女性」
アウグスティヌスは、キリスト教の聖人であり、その彼の書いた有名な本が『告白』である。
そして、アウグスティヌスの『告白』は、「ある女性」に向けて書かれた本のようだと山田氏は言っているのである。
では、その「ある女性」とは誰のことであろうか。
まず思い浮かぶのが、アウグスティヌスの母親である「聖モニカ」である。
が、しかし、「ある女性」とは、この有名な母「モニカ」ではない。
アウグスティヌスが『告白』を捧げた「ある女性」とは、アウグスティヌスと16年間の長きにわたって「同棲していた人」だと山田氏は言うのである。
山田氏は、アウグスティヌスと女性との関係を次のように述べている。
『告白』によれば、アウグスティヌスは、三七〇年頃この女性と同棲し、三十一歳、すなわち三八五年にこの女性と別れています。ミラノで別れています。その女性は、一人息子のアデオダートゥスをアウグスティヌスのもとに置いて、アフリカへ戻っていったと書いてあります。ですから、ちょうど一六歳から三十一歳までの十六年間、彼はこの女性と暮らすわけです。そして、この女性と一緒になったことが、アウグスティヌスの生涯に大きな影響を及ぼしてきます。(p.25-26)
16歳から恋人と同棲するなんて、随分と「おませ」ですなぁ、アウグスティヌスは。
が、しかし、この同棲がきっかけとなって、アウグスティヌスは母モニカと不和になってしまうのである。
なぜなら、同棲相手の女性は「身分の低い人」であり、ふたりの関係は「ゆるされぬ恋」だったわけである。なんかロマンチックだわぁ〜。
また、アウグスティヌスが「マニ教」に入信したことも母モニカとの不和を強めてしまった。
では、その「マニ教って何?」って話。
本書には次のように説明されている。
マニ教というのは一つの世界観である。その世界観というのは、善と悪との二つの原理を立てて、それによって世界のいろいろな現象を説明するという合理主義的性格のものであった。それに対し、当時のアフリカのカトリックは、地方の習俗と混合した泥くさいものであった。(p.27)
アウグスティヌスからすれば、母モニカが熱心に励んでいる「キリスト教」は、時代遅れの「ダサい」もののように映っていたのであろう。
それに対して、新しく出てきた「マニ教」は、合理的かつ理知的であり、また儀式も美しくハイセンスなものであったので、若きアウグスティヌスの目には魅力的に映ったようである。
同棲相手を認めてくれない母はウザいし、母の「キリスト教」はダサい。
母への反抗心が高まれば高まるほど、「キリスト教」への嫌悪感も増していく。
「キリスト教」から逃れれば逃れるほど、「マニ教」にずるずると引きずり込まれていく。
アウグスティヌスの当時の状況はそんな感じだったみたいである。
そして、ラブラブのままに続くかに思われたアウグスティヌスの同棲生活。
悲しいことに、この同棲生活も終わりを迎えるのである。
ふたりは別れるのである。
山田氏は「その当時の状況の中で考えてみますと、別れざるをえなかったのではないかと思われます(p.40)」と述べている。
というのも、その時期のアウグスティヌスは有名大学の教授になっており「出世街道」を進みつつあったのである。
そして、出世の道を歩き続けるためには、「ふさわしい身分の令嬢」と結婚しなければならなかったというのである。
出世を望むアウグスティヌスは、いつまでも身分違いの女性と「同棲」していてはいけなかった......。
そして、「ゆるされぬ恋」のふたりは別れる。
女性は、子供と夫をミラノに置いて、アフリカに帰っていった。
「その時彼女は、今後は他の男を知るまいと誓い、つまりアウグスティヌスだけを夫とし、アフリカへ帰っても、他の男とは結婚しないと誓い(p.43)」、去っていったという。
そして一説には、女性はその後修道院に入り、一生を終えたという。
一方、出世を選んだアウグスティヌスは、良家の令嬢と婚約することに成功する。
しかしながら、アウグスティヌスは、アフリカに去っていった彼女のことが忘れられなかったのである。
彼の心はすさみ、生活も荒廃していく。
すさみきったアウグスティヌス、彼は心の空白を満たすために、あろう事か行きずりの女性と床を共にしてしまうのであるっ。
そして、このことがアウグスティヌスにとって「消せない汚点」となったようなのである。
山田氏は次のように述べている。
おそらくアウグスティヌスが『告白』の中で、いちばん汗をだらだら流しながら苦しんで書いたのは、この部分ではないでしょうか。これを書くとき、アウグスティヌスは、勿論神に詫びると同時に、ほかの夫を二度と持つまいといって別れていったその女性に対して詫びながら、汗を流して告白しているのではないでしょうか。アウグスティヌスは、まさにこのことを書くためにこそ『告白』を書いたのだと、私には思われます。(p.45)
愛する女性の信頼を裏切ったという「消せない汚点」、そして出世のために愛する人と別れてしまった日々の空しさ、こうしたことからアウグスティヌスは「キリスト教」に近づいていったのだという。
おそらくアウグスティヌスは、大いに考えぬいた末に、母親や友人たちのすすめに従って女性と離別したのでしょう。しかし彼女がアウグスティヌスに貞潔を誓って去っていったのちに、失われたものの大きさに初めて気がついたのではないでしょうか。しかしその女性はもう帰ってこない。彼女はいわば「貞潔の国」に行ってしまった。もしもアウグスティヌスが彼女に再会しようと思うならば、彼自身、その「貞潔の国」に行かねばならない。(p.49)
アウグスティヌスは「貞潔の国」に行くために、出世の道ではなく、神の道を歩むことに決めた。
そして、回心したアウグスティヌスは「教会の中で、祈りにおいて(p.50)」愛する女性と共に生きる道を歩み始めたのである。
こうした山田氏の講話を聞いていると、聖人のアウグスティヌスという人物が、随分と泥くさくてダメ人間であったことがうかがい知れるのである。
それでいて、アウグスティヌスのことがイヤになるのではなく、かえって親しみを覚えてしまうのである。
また、一般的には、この同棲していた女性は、良い子アウグスティヌスをたらしこむ「悪女」と理解されているようである。
それが本書ではあざやかにひるがえされているので、その点もとても斬新で面白かった。