ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「回勅 希望による救い」ベネディクト十六世著 はこんな本だった

 今回取り上げた回勅のテーマは「希望」です。

 キリストが十字架上の死によって人間にもたらした「希望」。それは、人々が望んでいたような「外的な社会構造の変化」によるあがないではなく、「人間の内側からの変化」によるあがないであったのだという。

 また、近現代において、人々を幸せにするのは「科学の発達」であると叫び続けられてきたが、人々を幸福にするのは「愛」なのだというのが本回勅の主張である。

希望による救い

希望による救い

「回勅 希望による救い」ベネディクト十六世著 カトリック中央協議会 2008年6月13日初版 ENCYCLICAL LETTER "SPE SALVI"

「希望」、それは人生と世界を《内側》から造り変えること

 本回勅は次のことばで始まる。

「わたしたちは、このような希望によって救われているのです(Spe salvi facti sumus)」(ローマ8・24)。このように聖パウロはローマの信徒に、またわたしたちにいいます。キリスト教の信仰によれば、「あがない」、すなわち救いは、ただ与えられるだけではありません。わたしたちにあがないが与えられるというのは、わたしたちに希望、すなわち信頼することのできる希望が与えられるということです。
『序文』(p.5)

 そして、この「希望」によって、私たちは現在の困難に立ち向かうことができるようになるのだという。

 「真の神」との《出会い》によって、わたしたちの生活は変わるのだというのである。
 このように前回取り上げた『回勅 神は愛』でも出てきた《出会い》という言葉が、本回勅でも出てくるのである。

 そして、この《出会い》によって、わたしたちに「あがない」と「希望」がもたらされるのだという。

エスがバラバやバルコクバ(一三五年没)のように政治的解放のために戦うことはありませんでした。エスが十字架上で死ぬことによってもたらしたのは、まったく別のことでした。それは、すべての主人の主であるかたとの出会いです。生きている神との出会いです。それゆえ、奴隷の苦しみよりも力強い、希望との出会いです。だからこの希望は人生と世界を内側から造り変えました。
『信仰とは希望である』(p.14)

 キリストがもたらしたものは、人々が望むような「外的な社会構造の変化」ではなく、「人間の内側からの変化」であったのだという。


「まことのいのち」とキリスト教的「自由」

 『ヘブライ人への手紙』の11章は、信仰の定義を述べており、古代教会が作ったラテン語訳では次のように訳されていたのだという。

 「信仰とは、望んでいることがらの《実体》であり、見えない事実の証拠です」。
 (ちなみに新共同訳では「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と訳されている)。

 ここで言っている《実体》とは、「望んでいることがら(希望)」が、すでに「信仰」を通して、萌芽的な形(つまりは「実体」)として、わたしたちの《内側》にあるということを表しているのだそうな。

 そして、その「望んでいることがら(希望)」とは、「まことのいのち」であるというのである。
 つまり、この「まことのいのち」は目には見えないが、それでも《実体》としてわたしたちの《内側》にあるということなのだ。


 また、同じ『ヘブライ人への手紙』の10章34節をあわせて読むと、さらにキリスト教的な「希望」に関する理解を深めることができるという。 

 「自分がもっとすばらしい、いつまでも残るもの(新しい基盤)を持っていると知っているので、財産(生活の基盤)を奪われても、喜んで耐え忍んだのです」

 本書には次のようにある。

信仰は人生に、新しい基盤を与えます。すなわち、より頼むことのできる新しい基を与えます。この基は、習慣となった基、すなわち、物質的な収入への信頼を相対的なものとします。習慣となったこのような生活の基に対して、新たな自由が生まれます。かつての生活の基は、通常の意味が否定されるわけではありませんが、単に見かけ上、生計を助けてくれるにすぎません。
『新約と初代教会における、信仰に基づく希望の概念』(p.23)

 わたしたちに「まことのいのち」という「新しい基盤」が与えられたので、かつての「生活の基盤」にとらわれすぎることはなくなり、それによって新たな「自由」が生まれたのだというのである。

 そして、この新しい「自由」は、「自己放棄」という偉大なわざによって示されるのだという。
 つまり、キリスト教的な「自由」とは「エロース(甘え)」にとらわれていた状態から解き放たれてることを意味しており、そして、「自由」になってからは「アガペー」を依り頼む杖とすることなのだろう。


理想的な「社会構造」が人間を道徳的にするのか

 本回勅の主張は、人間を「あがない」、そして人間を道徳的に成長させるのは、「社会構造」ではないということである。

人間に関することがらの正しい状態、世界の道徳的な繁栄は、社会構造だけで保証できるものではありません。たとえ社会構造がどれほどよいものであってもです。社会構造は重要なだけでなく、必要です。しかし、社会構造が人間の自由を不要にすることはできませんし、不要にすることがあってはなりません。
キリスト教的希望の真の姿』(p.52)

 上記引用で、「人間の自由」という言葉が出てきた理由は、人が道徳的な判断をするとき、そのつど彼が「自由」に決断しなければならないからである。つまり、人は誤った判断を犯す「自由」もあるということである。

人間はいつも自由であり続けます。また人間の自由はもろいものでもあります。そのため、善の支配を決定的な形でこの世に実現することは決してできません。よりよい世界が決定的な形で永遠に続くと約束する人は皆、偽りの約束をしています。その人は人間の自由を無視しているからです。
キリスト教的希望の真の姿』(p.53)

 すべての人が道徳的であることを保証するような「社会構造」は、人間の「自由」を否定しているのだという。

 人間は「社会構造」のような「外部構造」によって、あがなわれるような存在なのではないのである。

科学は人間をあがなってくれません。人間をあがなうのは愛です。これは現代の世界にもいえることです。人が人生の中で大きな愛を経験したとき、それは「あがない」の瞬間です。
キリスト教的希望の真の姿』(p.54-55)

 そして、この「愛」の中でももっとも偉大な愛である「無条件の愛」、それがイエス・キリストなのだというのである。

 わたしたちは、イエス・キリストによって「まことのいのち」という「希望」を得ることができ、それによって《内側》から造り変えられ、道徳的に成長していくのである。


現代の「希望」とキリスト教的な「希望」

 キリスト教の「神の国」への希望に取って代わったのが、完全な世界を造り出すという「現代の希望」である。

この意味で、現代、完全な世界を造り出すという希望が発展しました。科学の知識と、科学に基づく政治によって、この希望は達成可能なように思われました。こうして聖書における神の国への希望は、人間の支配への希望に取って代わられました。
キリスト教的希望の真の姿』(p.61-62)

 しかし、時がたつにつれて、この新しい希望も色あせていき、また先に述べたようにこの「完全な世界」という希望がわたしたちの「自由」と対立することも明らかになったという。

 では、わたしたちの世界をよりよいものにするには一体どうすればいいのだろうか。

 本回勅は言う。
 本当の「希望」は、「完全な世界」などではなく、「神」にあるのだ、と。

それは人間の顔をもった神です。わたくしたちを、わたしたち一人ひとりを、そして全人類をこの上なく愛してくださった神です。神の国は来世の想像上の存在ではありません。すなわち、決して訪れることのない未来に存在するものではありません。神の国は、神が愛され、神の愛がわたしたちのところに達したところに存在します。
キリスト教的希望の真の姿』(p.63)

 そして、先の繰り返しになるが、この神と《出会い》、わたしたち一人ひとりが「まことのいのち」を得て、道徳的に成長していくことが、世界をよりよいものしていくのではないかというのが本回勅の主張であろう。


希望と苦しみ

 本回勅は、「苦しみ」と向き合うことを要求している。

苦しみは浄めと成長のための道であり、希望への歩みだからです。
『希望を学び、実践するための「場」』(p.77)

 むかし取り上げた本『「苦しみのキリスト教的意味」ヨハネ・パウロ二世著』(後ろの方にリンクを貼っておきます)にも同じことが書いてあったが、キリスト教的には「苦しみ」は神からの罰を意味しているのではなく、それはキリストの「あがない」を意味しているのである。

 そして、当時の記事でも触れていたことだが、ここでいう「苦しみ」は、神経症的な苦しみのような《現代社会に蔓延る苦しみ》には当てはまらないとブログ主は思うのである。

 なぜなら、神経症的な苦しみは、いわば「自傷行為のような苦しみ」であって、本回勅の「苦しみを受け入れろ」という主張を真に受け実行してしまうと、神経症者の心の手首はズダボロになってしまうからである。

 うまく例えられているかは知らないが、神経症者の苦しみは、自己にからみつくような「束縛の苦しみ」であって、本回勅が推奨しているような「自己放棄の苦しみ」とは異なるものだと思うのである。

人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります。しかし、もう一度疑問が生じます。わたしたちにこのようなことが可能でしょうか。
『希望を学び、実践するための「場」』(p.78)

 ここでいう「人とともに、人のために苦しむこと」、それは「アガペー(与える愛)」のために苦しむことなのであろう。

 一方で、神経症的な苦しみは、人に受け入れてもらうための苦しみであり、それは「求める愛(エロース)」的な苦しみなのだと思う。

 この二つは、同じ「苦しみ」という言葉で表現されるが、一方は人を成長させ、もう一方は人を消耗させる「苦しみ」だと思う。

 一方は自己放棄の苦しみで、もう一方は自己虐待の苦しみなのである。

 以上のことから、わたしたちが、ちゃんと苦しめるようになるには、まず「アガペー(与える愛)」という愛を知らなければいけないのだとブログ主は思うのである。


「希望」としての最後の審判

 ふつう「最後の審判」と聞くと恐ろしく戦慄すべきものを想像してしまうものであるが、本回勅は次のように述べている。

神の審判は希望です。なぜなら、それは正義であると同時に、恵みだからです。
『希望を学び、実践するための「場」』(p.94)

 もし「最後の審判」が正義だけのものであるならば、それはわたしたちを恐れさせるだけのものである。なぜなら、誰でもうしろめたいことぐらい持っているからである。
 もし「最後の審判」が恵みだけのものであるならば、それはわたちたちを無責任にする。なぜなら、わたしたちが何をしても救われるからである。

 だから、わたしたちは自分の人生に「責任」を持つ必要があるというのである。

わたしたちは皆、「恐れおののきつ」(フィリピ2・12)自分たちが救われるよう努めます。にもかかわらず、わたしたちは皆、恵みによって希望することができます。
『希望を学び、実践するための「場」』(p.95)

 「救われるように努め」るのは、わたしたちが自分の人生に「責任」があるからである。

 そして同時に「恵み」があるというのは、神はわたしたちを愛しており、わたしたちが《内側》から造り変わる力を与えてくれるということである。

この変容は確かに痛みを伴います。しかしそれは幸いな痛みです。この痛みの中で、キリストの愛の聖なる力が炎のようにわたしたちを貫くからです。こうしてわたしたちは完全に自分自身となり、そこから、完全に神のものとなることができるのです。ここから正義と恵みが互いに結び合わされていることも明らかになります。
『希望を学び、実践するための「場」』(p.94)

 人は、「責任」を持って、そして神とともに、この変容の道を歩いていかなければならないのであろう。


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