ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「回勅 信仰の光」教皇フランシスコ著 はこんな本だった

 現代社会では、「信仰」なるものは、弱者のすがるもの、科学的探求の邪魔ものとみなされている。

 けれども、「自己中心」的な状態から解放されるためにも、またその他のためにも、「信仰」ってものは大切なのだよ、というのが本回勅の主張である。

 個人的には、『「偶像崇拝」、そして「一神教」と「多神教」』でまとめた「多神教」の捉え方がおもしろかった。

回勅 信仰の光

回勅 信仰の光

「回勅 信仰の光」教皇フランシスコ著 カトリック中央協議会 2014年2月10日初版 LITTERAE ENCYCLICAE "LUMEN FIDEI"

「信仰」、それは「世の光」か「邪魔もの」か

 まずはじめに、本回勅は「教皇フランシスコ」の名で出された回勅であるが、その内容は主に前教皇「ベネディクト十六世」が書き進めたものである。

ベネディクト十六世はすでに信仰に関する回勅の草稿をほとんど完成させていました。わたしはベネディクト十六世にこのことを感謝しながら、キリストにおける兄弟としてその貴重な労作を受け取り、わずかな追加を行いました。
『序文』(p.11-12)

 2013年の2月にベネディクト十六世が急にやめちゃったので、こんなかたちになったのである。

 そして本回勅は、対神徳(信仰、希望、愛)のうちの「信仰」について語られたものであり、前回(希望)、前々回(愛)取り上げた回勅とセットになっているものである。


 本回勅は、次のことばで始まる。

信仰の光−−このことばによって、教会の伝統は、イエスがもたらした偉大なたまものを表します。イエスヨハネによる福音書でご自身を次のように示します。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(ヨハネ12・46)
『序文』(p.5)

 「信仰」というものは、神から与えられた「たまもの」であり、わたしたちの道を照らす「光」なのだという。

 さはさりながら、現代社においては、この「信仰」なるものは、意志の弱い「弱者」がすがるものとみなされており、そればかりでなく、科学的な「真理」を探求する際に邪魔をするものさえみなされているのである。

 現代社会において、不要なもの、邪魔ものと成り下がった「信仰」。
 その「信仰」の意義を、もう一度問い直そうとするのが本回勅の目的である。


偶像崇拝」、そして「一神教」と「多神教

 本回勅には、「偶像崇拝」と「多神教」について、次のような記述がある。

偶像の前では、自分の安定を捨てるように求められる恐れもありません。偶像は「口があっても話せない」(詩編115・5)からです。そこから次のことが分かります。偶像は、自分を現実の中心に置き、自らが作ったものを崇拝するための口実です。人間が、自らの存在を一つにまとめる根本的な方向づけを見失うなら、多くの欲望へと分散します。
(略)
だから偶像崇拝はつねに多神教です。一人の主人から別の主人へとあてもなくさまようことです。偶像崇拝が示すのは、一つの道ではなく、無数の小道です。
『第一章 わたしたちは、愛を信じています』(p.19)

 この辺をブログ主的にまとめると次のようになる。

多神教偶像崇拝)」という宗教は、「自己中心」的な性質の宗教であり、それは「エロース(求める愛=甘え)」的な宗教なのだと(過去記事『回勅 神は愛』『四つの愛』『「甘え」の構造』参照)。

 また、「多神教」といっても、重要なのは神ではなく自分自身であるから、中心である自分の周りに神がどれだけたくさん存在していても問題が生じないのだと。

 その一方で一神教(信仰)」なる宗教は、重要なのは自分自身ではなく神であるとする「神中心」的な宗教なのだと。

 そして、「太陽」に向かって伸びてゆく「木」のように、神に向かって成長していくことを目指している宗教なのだと。

 中心である神に向かって成長していくことを通して「自己中心(エロース)」的な状態から解放されていくのだと(過去記事『回勅 希望による救い』参照)。


「律法のわざ」によっては「自己中心」的な状態から解放されることはない

 冒頭部分で述べたように、「信仰」とは、神から与えられた「たまもの」である。

 そして、この「たまものをいただいた」という考えが重要なのだという。
 なぜなら、それによって宗教の重点が「自分自身の行い=律法」から「神のたまもの=信仰」の方に移ったからである。

パウロは、行いによって神の前で義とされようと望む人々の態度を拒絶します。彼らは、たとえおきてに従い、よいわざを行っているとしても、自分自身を中心としており、いつくしみは神から来ることを認めません。このように振る舞い、自らが義の源泉となろうとする人は、やがて自らの義を使い果たし、律法を忠実に守り続けることもできなくなります。彼は自らの内に閉じこもって、主からも他の人々からも離れます。
『第一章 わたしたちは、愛を信じています』(p.28)

 このように、聖パウロ「律法のわざ」によっては「自己中心」の状態から解放されることはないと言うのである。

 この「自己中心」の状態から解放されるには、やはり「信仰」が必要だというのが本回勅の主張である。

 なぜなら、「正しいのは神のみ」とする「信仰」によって、自分のものとしていた「正しさ」を手ばなし、「自分の正当性」に固執していた「自己中心」的な状態から解放されるからである。


「信仰」は、人々を「抑圧」するのか

 現代文化において、「真理」は、主に「科学技術」に結びつけられており、この「科学的な真理」だけが、他者と共有することのできる「真理」だと捉えられている。

 一方で、「信仰」からなる「真理」(「普遍的な真理」)といったものには、「疑惑の目」が向けられている。

人々はこう問いかけます。このような真理は、二十世紀の強大な全体主義が示した真理ではなかろうか。自らの世界観を押しつけ、個人の具体的な生活を破壊した真理ではなかろうかと。
『信じなければ、あなたがたは理解しない』(p.37)

 このように、現代社会では「普遍的な真理」なるものは、人々を「抑圧」するものにすぎないと捉えられているのである。

 ここは、「狂信主義」を防げなかった宗教が大いに反省すべきところだろうが、それでも本回勅は、「普遍的な真理」が捨て置かれ、「相対主義」ばかりになってしまった現代社会に警鐘をチリリンと鳴らすのである。

 確かに、全体主義(および狂信主義)」というものは、自らの世界観を押しつける性質の動きであり、それは人々を《外側》からムリヤリ変えようとする動きでもあり、そうした動きが人類に多大な悪影響を与えてきたは事実である。

 しかしながら本回勅は、「普遍的な真理」の本来の姿は、人々をムリヤリ変えようとする性質のものではないと主張するのである。

信仰は狂信ではなく、むしろ、他者を尊重する共生の中で成長します。信じる者は傲慢になりません。むしろその反対に、真理は信じる者を謙虚にします。信じる者は、わたしたちが真理を所有するのではなく、真理こそがわたしたちを抱き留め、所有するのだと知っているからです。
『信じなければ、あなたがたは理解しない』(p.51)

 このように、人々を抑圧するような「真理」は、信じる者を「傲慢」にするが、「普遍的な真理」は、信じる者を「謙虚」にするというのである。

 この辺をブログ主的にまとめると次のようになる。

 人々を抑圧するような「真理」は、「自己中心的」な性質のものであり、それは「真理」や「正義」といったものを「自分のもの」としてしまうような性質のものだと。

 一方で、本回勅が主張するような「信仰」からなる「普遍的な真理」は、先にも述べたように「真理」も「正義」も「神のもの」と捉えているので、わたしたちを真理の「所有者」にすることはなく、真理へ向かって歩んでいく「旅人」にする性質のものだと。

 でもって、この「信仰」からなる「真理」は、「傲慢」な態度でもってわたしたちを《外側》からムリヤリ変えようとするものではなく、真理へ向かって歩んでいく旅のなかで、わたしたちを《内側》から造り変えていく性質のものなのだと。


キリスト教的な一致」と「グノーシス的な一致」

 「信仰」なるものには、上下や優劣の区別などなく「信仰は一つ」ということが大前提であり、この「一つの信仰」によって、キリスト信者は「一致」することができるのだという。
 
 こうした「キリスト教的な一致」とは別の一致がある。

 それは、グノーシス的な一致」である。

グノーシス主義はこう主張していました。信仰には二種類がある。一つは、粗野な信仰、すなわち単純な人々のもつ不完全な信仰である。
(略)
もう一つは、もっと深く完全な信仰、すなわち、秘儀伝授を受けた少数者のグループだけがもつ、真の信仰である。
『第三章 わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです』(p.73)

 この信仰感からも分かるように、グノーシス主義の特徴の一つは、「エリート主義」的傾向にある(過去記事『ニューエイジについてのキリスト教的考察』参照)。

 この辺をブログ主的にまとめると次のようになる。

 グノーシス的な一致」とは、「エリートだけ」の一致であり、それは「仲間うちだけ」の一致であり、自分と異なる人々を排除した結果の一致なのだと。
 そして、それは「信仰」そのものよりも、「能力」や「知識」の方に重きを置いたものであると。

 一方でキリスト教的な一致」の方は、「信仰」からなる「一致」である。
 この「一つの信仰」からなる「一致」は、エリートと大衆の区別をつけず、そして自分と異なる隣人を排除しない「一致」であるのだと。



 以上のことから、「信仰」なるものは、キリスト信者にとって、これからも大切なものでありつづけるのじゃよ、というのが本回勅の主張であろう。


オシマイ


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