ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「今こそアーレントを読み直す」仲正昌樹著 を買った

 ハンナ・アーレントは「ひねくれ」た政治哲学者だという。たとえば、彼女は左派知識人受けの悪い「アメリカ」を高く評価しているのである。一方で彼女は左派知識人受けの良い「フランス革命」や「ロシア革命」を批判的に見ているのである。

「今こそアーレントを読み直す」仲正昌樹著 講談社現代新書 2009年5月20日初版

 本書は、政治哲学者「ハンナ・アーレント」についての新書である。

 当ブログでもアーレント関係はハンナ・アーレント中公新書)』および『悪と全体主義NHK出版新書)』と取り上げてきた。

 アーレント、なんか気になるのよね。

 でもって、最初に取り上げた『ハンナ・アーレント中公新書)』の方は、アーレントがその生涯において出会った人物および出くわした出来事などをスクラップ記事風にまとめてあげて彼女の人物像を描き出した、とてもユニークな作品であった。

 一方で、『悪と全体主義NHK出版新書)』の方はといえば、アーレントの主要著作、その中でも特に『全体主義の起源』と『エルサレムアイヒマン』を分かりやすく解説した本であった。
 ちなみに、この『悪と全体主義NHK出版新書)』の著者が仲正昌樹氏であり、今回取り上げる『今こそアーレントを読み直す』の著者でもあるのだ。

 では、今回取り上げる『今こそアーレントを読み直す』は、どういった特徴をもった本であるといえるのだろうか。

 一言でいうと、アーレントの思想の傾向」を伺い知ることができる本である。

 本書は、アーレントの「ひねくれた思想」なるものがどのように「ひねくれ」ているのかを伺い知ることができる書である、といえようか。

 そう、仲正氏曰く、アーレントの思想は「ひねくれ」ているのだという。
 そして、仲正氏は、その「ひねくれ」がイイのだと、そこに引かれるのだ、と自身の特殊性癖のことを告白しているのである。

私は自分の好きな哲学者や思想家の−−多くの場合、かなりひねくれた−−文章を読んでいると、ついつい刺激を受けて、その人になり代わって、自分でひねくれたことを言いたくなる。私にそういう刺激を与えてくれる哲学者・思想家は何人かいるが、今のところアーレントが最も強力な、「ひねくれ」への刺激を与えてくれる思想家だと思う。
『序論 「アーレント」とはどういう人か?』(p.22)

 このような「ひねくれ」たアーレントは、「左派」からも「右派」からも好かれている思想家だという。

 けれども、仲正氏はアーレントは「左派」とは相性が良くないはずだと述べている。

 それというのも、アーレントは「左派」受けの悪い「アメリカ」を高く評価しているからである。

アーレントの著作を少し読めば、彼女が決して左派の新しいアイドルになるような存在ではなく、建国以来の「アメリカ的な自由」を強く擁護する、どちらかと言えば「右」の人であることが分かる。
『第一章 「悪」とはどんな顔をしているか?』(p.29)

 そう、アーレントは、この「アメリカ的な自由」こそが、わたしたちの「人間性」を開花させることのできる場だと評価しているのである。

 アーレントによれば、「アメリカ的な自由」の空間の中で「活動」する事を通して、わたしたちは「複眼的な視座」を獲得し、そして他者の対比によってアイデンティティを確立し、「人間性」を開花させていけるというのである。

 アーレントは、「活動」と「複数性」を重要視し、これがなければ「人間性」は開花しないのだ、というのである。

 であるから、アーレントは『人間は生まれながらにして「人間性」を有しているので、それを開花させるには「解放」するだけでいいのだ』と定義する近代的なヒューマニズムとは相性が悪い。
 というのも、単なる「解放」は「活動」も「複数性」も有していないからである。

アーレントは、そうした視点から、“生来の人間性”の「解放」の思想としての性格を強く持つマルクス主義、そしてその淵源となったフランス革命をかなり批判的に見ている。その逆に、共和主義的な「自由」概念を近代政治思想に定着させたものとして、アメリカ革命(独立戦争)を高く評価している。近代市民社会の原点になったとされる二つの革命に対する彼女の異なった評価が、その政治哲学的な根拠と共に展開されているのが、彼女のもう一つの主要著作『革命について』(一九六三)である。
『第三章 人間はいかにして「自由」になるか?』(p.122)

 一般に「左派」受けが良いのは、近代的なヒューマニズムの方、「解放」を約束するフランス革命ロシア革命の方であろう。

 こういうところが、アーレントの「ひねくれ」の一例であり、こういうところに仲正氏は(ついでに私も)引き付けられるのであろう。