ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「それでもやっぱり日本人になりたい」W・A・グロータース著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】本書には、カトリック司祭のテイヤール・ド・シャルダンが登場する。著者のグロータース氏はカトリックの神父で同時に「方言」を研究する言語学者である。彼は、日本軍が占領する中国に赴任するが、そこでイエズス会士で古生物学者のテイヤール・ド・シャルダンと出会うのである。この出会いによってグロータース氏の長年の悩みは解消することになる。そして、毛沢東が統治する中国に帰れなくなったグロータース氏は来日し、「日本人になりたい」と思うほどに日本を愛するようになるのである。

「それでもやっぱり日本人になりたい」W・A・グロータース著 五月書房 1999年5月28日初版

滝野川での出会い

 はじめてこの本と出会ったのは、東京北区は滝野川にある図書館においてである。もう10年以上前の話である。

 当時、「都内の図書館巡り」なぞという閑雅な遊びに興じていた私は、その日、旧古河庭園の近くにある滝野川図書館にもぐりこんで、たまたま目に入ったこの本を読んでみたのである。

 読んでみたら、これがまたイタくおもしろかったので、ぜひとも手元に置いておきたかったのだが、すでに絶版になっており書店で入手することができなかったので、その後もしばらくは滝野川へとおもむき、この本を読み続けることとなったのである。

 ところが先日、コロナ禍の巣ごもり生活でヒマを持て余しているなか、つらつらとアマゾンを検索していたら、思いがけなくもこの本が安価に売られていることがわかったので、すぐさま購入し、今回の記事とあいなった次第である。

W・A・グロータース氏とは何者か

 W・A・グロータース氏は、カトリックの神父かつ言語学者である。氏は、赴任先の中国および日本の「方言」を研究し、それに関する書物も出版している人物である。

 本書で、グロータース氏はその生い立ちを語っているのだが、これがけっこうハチャメチャですっごくおもしろいのである。
 また、テイヤール・シャルダンイエズス会士で古生物学者かつ地質学者)との出会いについても語っているが、これもまた非常に興味深いものがある。

ベルギー。一昔前のカトリック教会の姿

 グロータース氏は1911年にベルギーで生まれた。
 本書では、ベルギーでの思い出話がいろいろと語られているのだが、その中になかなか考えさせられるエピソードがあるので、それを取り上げてみたいと思う。

 なんでも、ベルギーで政府が公立学校をつくろうとしたとき、カトリック教会は強く反対したのだという。
 公立学校なんかでは「宗教教育」がおろそかになるからというのがその理由であった。
 けれども、その反対運動のやり方に問題があったのである。

 反対抗議運動の一つとして司教たちは、公立小学校の教員となったカトリック信者には私立学校へ転職するように勧告した。もしこれに従わない者があれば破門を言いわたしたのである。ベルギー南部のこの状況に該当する信者の家族の中には、教会のやり方に反発し、以後、反教会になったものが多かった。
「第一部 日本への道」(p.16)

 「破門」までちらつかせる一昔前のカトリック教会は、信徒たちに対してかなり抑圧的であったようである。

 そして、カトリックのこうした理不尽なやり方によって、信徒たちの組織に対する「信頼」は失われていったのだという。これは無理もなからん話だと思う。

 けれども、こうした荒れた雰囲気の中で育っていったグロータース氏は、やがてカトリック教会の中で働くことを志すようになるのである。
 教会の組織に対する「信頼」は薄れているはずなのに、なぜだろうか?

 そのことを考える上で、教会から破門されたグロータース氏の叔父さんが発した言葉が参考になるだろう。

叔父は笑いながらこう言った。「教会の組織と個人の信仰は無関係さ」と。
「第一部 日本への道」(p.17)

 これは『上部の組織に対する「信頼」が失われても、神に対する「信頼」は損なわれない』ということなのだろう。

 こうした姿勢は、組織に対する「依存心」からはけっして生まれてこない姿勢だと思う。
 私たちは、自身の「依存心」を「信頼」とか「忠実」、はたまた「愛」だとかと同一視しがちだが、「依存心」は「依存心」にすぎないということなのだろう。

 だから私たちが、チョットやソットのことでゆるがぬ「信仰」を保つには、「依存心」から脱した「自立した姿勢」を必要とするのであろう。
 こうした「自立した姿勢」があってこそ、グロータース氏のように組織を支え、その発展に協力していくことができるのだと思う。

中国。鈴木隊長の思い出

 グロータース氏は1938年にスクート会(淳心会)の司祭として中国に渡り、1941年6月に大同地区の教会に叙任司祭として派遣される。
 そして同年12月8日に日本軍が真珠湾を攻撃、ベルギー政府は日本に宣戦を布告することになる。

 そうした不穏な空気の中でグロータース氏は、憲兵隊長の《鈴木》なる人物と出会うのである。

鈴木憲兵隊長が訪ねてきて、私たちに励ましの言葉を送ってくれたのだ。十字架のキリストを指して、「皆さん、この人のためによくやっていますね。敬服しています」と。外人はすべてスパイだと疑われていた時代に、忘れようとしても忘れられない言葉である。
 しかし翌一九四二年春、鈴木隊長が張家口に栄転すると、事情が変わった。新任の隊長から、「教会から六キロ以上の地域に出るべからず。公的な説教などは一切禁ずる」との命令が下され、私たちの生活には少なからず変化が生じることとなった。
 その後私たちは収容所に入れられ、次に北京へ送られて軟禁された。
 終戦の翌月の一九四五年九月、軟禁から解放された北京の修道院に、軍服についていたすべての徽章をとりはずした姿で、鈴木隊長が挨拶に来られた。そのときのおだやかな態度や丁寧な言葉遣いなど、鈴木さんについてはいい思い出ばかりである。
「第一部 日本への道」(p.60)

 こうしたグロータースの思い出話を聞いていると、当時の日本軍においても、後任の憲兵隊長のように宗教に無関心な人もいれば、鈴木隊長のように宗教に敬意を払う人がいたことがわかってくる。

 本書には、後日談も載せられており、日本に移り住んだグロータース氏が、ぜひとも御礼がしたいと鈴木さんを訪ね求めたとき、鈴木さんのお父さんが神主であったことが明らかになるのである。

テイヤール・シャルダンとの出会い

 鈴木隊長との出会いの後、グロータース氏は北京で軟禁されることになる。

 しかしながら、その軟禁生活において、グロータース氏が日本軍の目を欺いて、ちゃっかり外出していた、という武勇伝がおもしろい。

はじめのうちこそ「診察のため病院へ」という証明書を持参したりしたが、欧米人は顔だけでは友好国か敵国かの見分けがつかず、とがめられることもないので、外出は自由自在といってもよい状態であった。
 なかでも最も大胆だったのは私で、番兵の護衛する北京の城壁の門でさえも難なく通過した。門の前で、中国人は、歩いている人はもちろん、自転車に乗っている人も降りて、番兵に深々と頭を下げる慣わしなのにもかかわらず、私は自転車を漕いだままで、大声で「ドイツ人です」と一声かける。すると、番兵からは、うやうやしい挙手の礼が返ってくるのだった。
「第一部 日本への道」(p.68)

 まぁ、ベルギーの人だから、日本人ならドイツ人との区別がつかなかったというのも無理はないと思うが、それにしてもマァずうずうしくも愉快な神父さんである。

 そんでもって、このモラトリアムな軟禁生活中に、グロータース氏は、フランスの古生物学者カトリック司祭の《テイヤール・ド・シャルダン》と出会うのである。
 ちなみに当時、テイヤール・シャルダンは、カトリックのローマ当局から白い目で見られており、彼の書いたものを出版することはかたく禁じられていたそうである。

 グロータース氏は、そんなテイヤールとの出会いを次のように記している。

 この研究所ではじめてテイヤールに紹介されたのである。さっそく食事に招かれ、私は彼の思想と人柄に深い感銘を受けた。特に、人間の科学と宗教的世界観との総合を、どうすればよいかという切実な問題について、テイヤールに助言を求めようと決心した。いつだったか、正確な日付は忘れたが、一九四四年のはじめのことだったと思う。
「第一部 日本への道」(p.82)

 このように、当時のグロータース氏は、「学問にどれだけ宗教的な価値があるのか」
という問題について悩んでいたそうである。

 そして、氏はこの問題に対する「教会の伝統的な回答」には満足できなかったという。
 その伝統的な回答とは次のようなものであった。

伝統的な回答は、一般社会のどんな事柄でも、正しい意向をもって神に捧げられるなら価値がある、ということだった。しかしこれは実際問題としては意味がない。
たとえば部屋を掃除することも、学問をすることも全く同じ価値があるということになれば、学者としては承服できない。意向に価値があるのではなく、学問自体に価値があるのではないか。精神的な活動、真理を探究する学問の活動は、それ自体に価値がある。
「第一部 日本への道」(p.86-87)

 「信仰」と同じように「学問」に対しても精魂を注入しているグロータース氏にとって、学問自体には価値を認めようとしない教会の見解をすんなり受け入れることはできなかったのである。

 そして、この「世俗の学問」と「神学」との統合をなそうとしたのが、《テイヤール・ド・シャルダン、その人である。

 ローマから発禁処分を受けていたテイヤールの書のコピーを、グロータース氏たちは回し読む。

西欧における私たちの世代の特徴は、幼い子どもの時代から周囲の事情によって、キリスト教ローマ法王庁の官僚とを区別して考えることを学んだ。子どものときから、法王が代わるときの政治勢力の浮き沈みを身近にはっきり見てきたからである。
「第一部 日本への道」(p.90)

 ベルギーの公立学校問題のときもそうであったが、教会の上部組織に納得がいかなくても、彼らは「信仰」を失うことがないのである。

 「神を信頼し、そして学問にも献身していく」。
 これがテイヤールやグロータース氏らが選択した生き方であった。
 本書では、テイヤールの思想を次のように要約している。

 ところでテイヤールはどんな精神的活動も、そして精神自体も、神の存在なくしてはありえないと考えていた。だから学問における精神の進歩、すなわち精神の幅と領域を広げることは、神の国を広げることと同じなのである。そしてすべてのものが進化によって神に向かっている。彼の有名なモットーに従えば、「上に向かって昇るものはすべって収斂する」したがって学者生活と司祭生活とが両立するかどうかということではなくて、むしろ学問のレベルが高くなればなるほど、神に向かっている度合いもそれだけ高くなる。真理とは神の別名である。
 こうしたテイヤールの考え方が、どんなに新しい方向づけを私にもたらしてくれたか、またそれが精神的にも宗教的にも、どんなに私を解放してくれたか、どれだけ繰り返し言っても言い過ぎることはない。
「第一部 日本への道」(p.88)

 思うに、当時のカトリック教会は、近代社会で優勢であった「理性(科学)崇拝」に歯止めをかけたいがために、そして「信仰」の重要性を強調したいがために、「学問」自体には価値を認めようとしなかったのかもしれない。
 けれども、「学問」なるものは、「神」に比べたら「二義的なもの」に相違ないだろうが「価値がない」ということではない。

 後日発布されたヨハネ・パウロ二世による回勅『信仰と理性』にあるように、「信仰」と「理性」は真理へ近づくための「両輪」なのである。理性は信仰を必要とするが、同時に信仰も理性の助けを必要としているのである。

 つまりこれは「理性(学問)自体に価値がない」ということではない。

 そして、こうしたヨハネ・パウロ二世の「理性観」は、テイヤールのそれと一致しているように思われる。
 テイヤールの思想は当時は問題視されていたが、時間が経ったとはいえ、後日このような回勅が発布されたのもテイヤールらの粘りがあったからではなかろうか。

日本。わたしは日本人になりたい

 一九四八年、グロータース氏は、スクート会からの命令を受けベルギーに帰国する。けれども一九四九年に中国を統治した毛沢東政権は再入国のビザを発行しなかったので、氏は中国に戻れなくなってしまうのである。

 そんな経緯があって、グロータース氏は「漢字がつかえる日本」に赴任することを希望したのである。
 そして、一九五〇年にグロータース氏は来日する。

 やがて、グロータース氏は世田谷の松原教会に赴任することになり、そこで司式するかたわら、日本の「方言」の研究を始める。

 そして、日本の畳の部屋で寝起きするうちに、本書のタイトルにあるように「日本人になりたい」とまで思うようになるのである。

 氏は本書の終わりのほうで次のようなことを述べている。

しかし、青い目、からす天狗のような高い鼻、とうてい日本人にはなり得ない。
 でも、すでに日本に墓も買ってある。生きて日本人に離れないが、死んで日本の土になる。
「第一部 日本への道」(p.230)

 グロータース氏は、中国を愛し、そして日本を愛した神父さんであった。
 そんな彼は本書が出版された直後の1999年8月9日に帰天するのである。