ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「アメリカの反知性主義」第一部

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

まとめ

第一部 序論(第1章 現代の反知性主義、第2章 知性の不人気)

当該部分は、著作権法に触れる可能性があるため、削除しました。(2017.11.11)

感想

 知性の問題は信仰の問題とよく似ていると思う。
その問題点は、知識人および宗教者が、真理の所有者と捉えられている点にある。
 しかしそういったものではなく、知性も信仰も、真理に向かって絶えず進んでいくものなのである。真理は人間の所有物ではない。真理は人間が頭(知性)と心(信仰)を尽くして訪ね求めていく場所である。

 著者が18ページで「聖職者が誤謬や肉の罪を犯しがちであるにも関わらず、ローマ教会自体は神聖なままなのである」と述べているとおりに、「真理の探求者」がいかに間違いを犯したり、人間的にクソであったとしても、真理は真理であることにかわりはないし、頭も心も真理を訪ね求めるための道具であることにかわりはない。
 「真理の探求者」たる知識人が不完全だからという理由で、知性そのものに不信の念を抱くのが反知性主義の悪しき一面であろう。もしくは知識人を神聖視してしまい、その不完全さを認められない素朴さといった方がいいだろうか。

 理性と信仰は真理に至るための両輪であり、互いに支え合い強め合う夫婦のようなものであると思う。しかし、近代において理性と信仰は分裂してしまったかのように思われる。信仰は理性的な行いではなく、理性は信仰の糧とはならないというように(この辺のことはヨハネ・パウロ二世の回勅「信仰と理性」に詳しく書かれていたと思う)。
 そしてプロテスタント教義が福音主義という独特の進化をした「信仰のアメリカ」と近代的合理主義を信奉とする「知性のアメリカ」、このハッキリとした二面性を持つアメリカにおいて、この分裂が著しく現れたのではないかと思ってみる。

信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅

信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅