ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「信仰と理性」教皇ヨハネ・パウロ二世回勅

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『信仰と理性』カトリック中央協議会/2002年3月15日発行( JOHN PAUL II /1998.9.14)

信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅

信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅

 今回取り上げる回勅『信仰と理性』は、以下のような構成になっています。

序文
第一章 神の知恵の啓示
第二章 わたしは知解するために信じる
第三章 わたしは信じるために知解する
第四章 信仰と理性との関係
第五章 哲学的問題についての教導職の判断
第六章 神学と哲学との相互作用
第七章 現代の要求と任務
結び


 では、まず最初に本書の要点を簡単にまとめておきます。

 第一章において、哲学に代表されるような「理性からなる認識」とは全く別の、「信仰(信頼)からなる認識」の存在に光が当てられています。

 第二章において、まず、我々を取り巻く「自然界の探求」を通して「理性からなる認識」は「神(=究極の真理)の認識」に到達することができることが述べられています。しかし、「人間の不従順ゆえ」にその認識力は弱くなったので、わたしたちが真理へ至るためには、理性だけではなく、キリストの啓示を受け入れるという「信仰からなる認識」を必要としている、ということも併せて述べられています。

 第三章において、「信仰(信頼)からなる認識」の重要性が、さらに掘り下げて述べられています。つまり、真理は、「理性からなる認識」と「信仰(信頼)からなる認識」、これら二つの認識によって満たされていくというのです。

 第四章においては、信仰と理性の「関係性」が述べられています。まず、哲学が陥りがちである「グノーシス」という現象が取り上げられ、「信仰からなる認識」とは、特別な人にだけ理解可能な「秘教的教え」ではないことが確認されています。「信仰からなる認識」はすべての人に開かれているのです。次に、「理性からなる認識」よりも「信仰からなる認識」の方が優先されるという「信仰の優位性」が取り上げられています。最後に、中世の終わり頃から始まる信仰と理性の「分裂の動き」が取り上げられ、しだいに互いが互いを拒絶しあい、それぞれが自分の殻に閉じこもっていく過程が述べられています。

 第五章において、哲学に対する教導職の取るべき態度が述べられています。

 第六章において、「神学」の発展には「哲学」の助けが必要不可欠であることが述べられています。また、互いに補完しあう「循環的進捗」という特徴が、神学と哲学の間にあることも述べれられています。最後に、キリスト教の啓示は、「理性の自律性」を窒息させるものではなく、真理へ向かう道を照らす「光」であることが述べられています。

 第七章において、現代に生きる我々が直面している課題に焦点が当てられます。現代において、あらゆる情報は断片化され、その断片の中に「人生の意味」を求めることが困難になってきています。そしてその結果、「人生の意味」を問うこと自体がナンセンス化してきています。そして、その克服のために、断片化された情報を統一的展望へと導く力を持つ「形而上学」の復権が必要であることが述べられています。

 以上が、本書の概略です。
 

 本書の扉書に以下のような文章があります。

信仰と理性は、人間の霊魂が真理の観想へと飛翔していく両翼のようなものです。(p.3)

 本書の究極の要約は、この一文にある思います。そして、本書の要点は、理性は究極の真理に至る能力を有するが、その能力を活かすためには信仰を必要とするいうことです。言い換えれば、神を信じ、神に身をゆだね、人間理性が自身の「絶対性」を放棄することによってのみ、真理へ至る道が開けるということです。

 本書によれば、この「絶対性の放棄」は、よりよい「自由」を手にするためにも必要なようです。

還元すれば、自由は神に反する選択のうちにはありません。人間全体を解き明かすものへ自分を開く意志がまったくなくて、どうして自由の正しい行使があるということができるでしょうか。(p.24)

 神を信じることによって、はじめて人間は「自由」になるというのです。

そこから、わたしたちが経験する現実は絶対的なものではないこと、造られないものではないこと、また自分自身から生まれてきたものではないことが明らかになってきました。神のみが絶対者です。(p.120)

 神を信じることによって、絶対性を神へ返すことが可能になり、わたしたち人間は神の被造物であることを自覚するようになるというのです。

種々の哲学の学派は、人々を欺いて、人間は自分の絶対的主権者であり、自分の運命とその未来について、ただ自分とその力を信頼して、自ら決定することができると説得しました。人間の偉大さは、決してこのようなものではありえないでしょう。(p.156)

 そして、現代の哲学は、信仰によって返却したはずの「絶対性」を、再び人間自身のものと定義しました。それは、大きな間違いであると本書は述べています。

 では、「絶対性の放棄」とはいったい何を意味しているのでしょうか。わたしたちが、絶対性を放棄することによって、絶対者である神が、わたしたちの自由意志を剥奪し支配するようになるのでしょうか。


 「絶対性の放棄」と聞いて、わたしが思い浮かべるのは、ドストエフスキーの『悪霊』の中での、ステパン先生の次のような言葉です。これは、不信の徒であったステパン先生が、その死の床にあって、神の愛を見いだしながら述べた言葉です。

自分自身より限りなく正しく、かつ幸福なものが存在しているのだとたえず考えるだけで、ぼくの心はもう言いしれない感動と、それから--栄光に充たされるのです。おお、このぼくがたとえ何者であろうと、ぼくが何をしようと、それはもうどうでもいい! 『悪霊(下)』新潮文庫(p.616)

 このように、ステパン先生は、自分自身にではなく自分の外の存在に、限りない正しさと幸福とを認めていながら、なぜだか喜んでいるようです。ふつうの感覚だと、わたしたちが、正しさや幸福を手放しなんかしたら、自分の拠って立つところを失って不安になると思うのですが......。

 『悪霊』のこの部分を読んだとき、わたしは次のようなことを考えました。それは、限りない正しさのような「絶対的なもの」を、自分の内に求めることをやめ、自分の外に認めるようになって、初めてわたしたちは、欠点だらけで不完全な自分というものを受け入れられるようになるのではないかということです。ステパン先生のように、自身の絶対性を放棄することによって、初めて不完全な自分というものを喜んで受け入れられるようになるのかもしれないということです。

 信仰とは神の愛に対する確信である、と私は思います。わたしたち人間は不完全な存在を見下しがちですが、絶対者である神はそんな存在をこそ深く愛してくださるのだ、という確信です。
 現代哲学のように、絶対性を人間に結びつけてしまったら、不完全なものに対する敵意や軽蔑が絶対性と結びつくことになるのではないでしょうか。それを避けるためにも、わたしたち人間には「絶対性の放棄」が必要なのだと思います。
 人間の自由意志を剥奪し支配するような絶対者のイメージは、いま述べたようなような「未熟なものへの敵視」と「絶対性」とを結びつけてしまったときに現れてくるのだと思います。しかし、それは間違っているとわたしは思うのです。

 わたしたちは、そんな未熟で不完全な自分を担って、人生の道を歩んでいくのだと思います。
 不完全なままでいいのです。欠点を担ったまま、ただ、ちいさなことにも感謝して過ごしていけたら、それで感謝にまみれた人生を歩んでいけるのだと思います。欠点を担ったまま、ただ、つたない一日を祝福してあげられたら、それで祝福に満たされた人生を歩んでいけるのだと思います。

人生の一刻一刻、一刹那、一刹那が人間にとって至福の時とならなければいけないのです・・・・・・かならず、かならずそうならなければいけない! そのようにすることが個々人の義務なのです。by ステパン先生 『悪霊(下)』新潮文庫(p.615)

悪霊 (下巻) (新潮文庫)

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