ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ウェーバー著

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神マックス・ウェーバー著 中山元訳 日経BP社 2014年

 今回は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り上げてみた。
 大塚久雄訳の岩波文庫版で読み始めたのだが、途中から中山元訳の日経BP社版に変更して読了した。
 というのも、岩波文庫の方は、訳が難解で意がつかみがたく感じられたのと、何より四十すぎ私には活字が小さく、「注」はさらに一回り小さくなっているので、読み進めていると「目ガァーッ、目ガァーッ」となってくるからである。年寄りにはつらいのである。
 なので、私には中山元訳のほうが訳文も平易で活字も大きく読みやすかったのだが、岩波文庫版には、大塚久雄氏の丁寧な解説と主要索引(日経BP社版にはコレがない!)が付属しているので、若い方には岩波文庫版の方がいいのかもしれない。


 この書によれば、「資本主義の精神」というものは、金儲けが許されている自由な風土の中で発達したものではなく、全く逆に、金儲けを徹底的に敵視する「宗教的な」雰囲気の中で誕生したものだという。
 そして、このような宗教的な雰囲気、「禁欲的な克己」の雰囲気は、宗教改革<後>のプロテスタント社会、特に「カルヴァン派」や「ピューリタン」にみられたものだという。

 もちろん、宗教改革<前>のカトリック社会においても、金儲けに猛進する人間はいた。例えるなら、大阪商人のような「ゼニや、ゼニや」の人々である。
 しかし、彼らの精神は「資本主義の精神」とはいえない。「古い」のである。
 この「古い」金儲けの精神は、人間味に溢れてはいるが、厚かましく品のないものである。これに対し、「新しい」資本主義の精神は、金儲けの営みを、ストイックで品のあるものに変えたのである。
 そして、この「新しい」精神は、宗教改革<後>の「宗教的な」雰囲気の中で生まれ育まれていったのだという。
 
 そもそも「宗教改革」は、カトリック教会の支配に反発することから始まった。しかしそれは、教会の支配が強すぎることに反発したのではなく、その支配が「不十分」であることに反発したのである。

しかし宗教改革というものは、人間の生活にたいする教会の支配を排除するものではなく、それまでとは別の形式の支配に置き換えたにすぎないことを忘れてはならない(現在ではこのことが忘れられがちなのである)。
伝統的な形式の[カトリック]教会の支配というものは、きわめて穏やかで、ほとんど気づくこともない、たんなる形式的な支配だった。そしてこれに代わって登場した[プロテスタンティズムの]支配は、家庭内の私的な生活から職業的な公的な生のすべての領域にいたるまで、考えられるかぎりでもっとも広い範囲にわたって信徒の生活のすべてを規制するものであり、限りなく厄介で真剣な規律をともなうものだった。(p.11-12)

 宗教改革以前のカトリック社会においては、ストイックな生活態度は、修道院の中に限られていた。
 カトリック社会における禁欲生活は「世俗<外>的禁欲」、つまりは世俗を離れ孤独に逃れることを意味していたのである。この禁欲の代表例は、聖職者に見られるような「結婚、家、財産の放棄」であろう。
 一方、宗教改革は、ストイックさを「世俗」にまで広め浸透させた。そうすることによって教会の支配を完全なものにしたのである。

セバスティアン・フランクはすでに、宗教改革の意義は、すべてのキリスト者が生涯にわたって修道士とならねばならなくなったことにあると指摘しているが、これはこの種の宗教性の核心を射るような言葉である。(p.279)

 このように、宗教改革後のプロテスタント社会においては「世俗<内>的禁欲」が広まり、禁欲生活は世俗へと解放されたのである。この新しい禁欲の精神は、前述のような「聖職者の禁欲」とは別モノである。この「世俗内的禁欲」が意味するのは克己的な禁欲、つまり自分のまわりから無駄や浪費を徹底的に排除し、日常生活を合理化することにある。
 そして、この禁欲的で合理的な「新しい」生活態度が、「資本主義の精神」の土台となっていったのである。

 では何故、このように厳しい「禁欲の精神」を、民衆は進んで受け入れるようになっていったのだろうか。それを解く鍵は「予定説」にある。
 「予定説」。これはカルヴァンの徹底的な「思索」から生まれたものである。彼は「神のみ」を徹底的に考えた。
 その結果、彼の神は人間と一切交流することのない存在となった。予定説の神は、<聖別された人間>と<呪われた人間>を「選ぶだけ」の存在となったのである。これを「選びの教義」という。

 この神の決定は、人間の介入を許さない絶対的なものである。それ故、選ばれなかった人間は、どんなに善行や懺悔に励んでも、もはやこの決定を覆すことは出来ない。信徒たちが夢見る天上での神との邂逅は、<あらかじめ>神から選ばれている者だけに許されているのである。
 このように、カルヴァンは「神のみ」を徹底的に考えたのだが、その結果、「神の絶対性」ばかりが強調され、「人間の可能性」がことごとく否定されてしまったように私には思われてならない。
 かつての神は、放蕩息子を喜んで迎え入れる父親のような親しみやすい存在であった。

しかしこの[予定説の]神は、人間のいかなる理解をも拒むような超越的な存在になっていて、人間にはつきとめることのできない決断によって、神は永遠の昔から各人の運命を決定しているのであった。そして宇宙のもっとも微細なものにいたるまで、すべてのものについてその処置を終えているのである。(p.206-207)

 この悲壮なまでに「非人間的な」教説は、信徒たちの内面に極めて深い「孤立」を感じさせることになった。もはや誰も助けてはくれない。神さえも助けてはくれない。彼らの神は「選ぶだけ」なのである。

 この「選びの教義」を伝えられた信徒たちの胸には、一つの強烈な不安が芽生えた。
 それは「救いの確証」という不安。つまり「自分は選ばれているのだろうか。その<しるし>はどこにあるのだろうか」という不安である。
 そして不思議なことに、「自らの行い」を無意味なものと定義したカルヴァンの教義が、逆に「自らの行い」に絶対的な意味をもたらすようになったのである。
 というのも、「善行そのものは、救いを得る手段としては不適切なものであるが、選ばれてあることの<しるし>としては大きな意味を持つのである」と考えられたからである。
 こうして、信徒たちは「自らの行い」を通して、選ばれてあることの<しるし>を示さなければならなくなった。
 そして、この「救いの確証」こそが、厳しい「禁欲の精神」を進んで受け入れる信徒たちの心理的な「原動力」となったのである。自発的な克己心、ここに「プロテスタンティズムの倫理」の新しさがある。

しかしこれが実際において意味するのは、基本的に神はみずから助けるものを助けるということにすぎない。だからしばしば語られるように、カルヴァン派の信徒は、みずからの救いを自分で作りださねばならないのである(正確には<救いを>ではなく、<救いの確証を>であるが)。(p.250)

 一方、中世のカトリックの信徒たちは、倫理的に「その日暮らし」をしていた。彼らがまれに「特上の善行」を行ったとしても、それは救いを得るための「保険」のようなものでしかなかった。
 もちろん、教会は信徒たちに「原則のある生き方」を要求していた。しかし、懺悔の秘跡というものがあったために、この要求も極めて弱いものとなってしまったのである。
 カトリックカルヴァン派の違いは、次のようにまとめることが出来るだろう。
 カトリックの信徒にとっては、「教会の秘跡」が重大な意味を持つものであった。一方、カルヴァン派の信徒においては、「自分の行い」が重大な意味を持つようになったのだ、と。

 こうして、カルヴァン派の信徒たちの生活は、「救いの確証」だけに向けられるようになった。
 しかも、彼らの神が求めたのは、物乞いに施し物をするというような単なる善行ではない(それは<しるし>とはならない)。彼らの神が求めたのは、「自らの行い」から無駄や浪費を徹底的に排除した「業の聖化」である。そのため、彼らの日常生活は、徹底的に合理化され、克己的な禁欲の色彩を強めていったのである。

このように、現世のうちで来世を目指して行われる生活態度の合理化こそが、禁欲的なプロテスタンティズムの天職概念を作りだしたものたったのである。(p.387)

 「天職」を意味するドイツ語の単語は「ベルーフ/Beruf」であり、英語では「コーリング/Calling」である。そして、これらの単語には「神から与えられた使命(召命)」という宗教的意味もある。
 カトリックの社会では、「召命(ベルーフ)」が与えられるのは聖職者だけとされていた。しかし、聖職者と信徒の垣根を取り払った宗教改革によって、すべての人が職業労働へと「召命(ベルーフ)」されることになった。

 「天職の概念」をもっとも明確に基礎づけたのは、ピューリタニズムの代表者、リチャード・バクスターである。
 バクスターによれば、労働という「神から与えられた使命」はすべての人に与えられているのだから、各人はその「天職」を見いだして働かねばならないのだという。
 カトリック神学者トマス・アクィナスも「働かざる者食うべからず」というパウロの言葉を取り上げてはいた。

実際、あなかがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれたものとして命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
「テサロニケの信徒への手紙二 第3章10節-12節」 新共同訳

 しかし、トマス・アクィナスにとって労働は、単なる「生活の維持」という目的のためのものであり、財産がある場合にはこの命令は妥当しなくなっていた。さらに彼は、「瞑想」を世俗の労働よりも高く評価していたのである。
 一方、バクスターにとって労働は、裕福な人も逃れることの出来ない神聖な義務であった。確かに、財産があれば「生活のため」に働く必要はなくなる。しかし、「労働という天命」には貧者と同様に従わなければならない、というのである。

 冒頭に述べたように、「資本主義の精神」は、金儲けを徹底的に敵視する「宗教的な」雰囲気の中で誕生した。それはカルヴァン派ピューリタンなどの「世俗内的な禁欲」に励む雰囲気である。
 彼らにとって、金儲けが危険なものであるのは、それが信徒たちを堕落させるものだからである。金儲けによって得た財産によって、信徒たちが怠惰になり、天職をも放り投げるようになってしまうからである。しかし、信徒たちが天職に励めば励むほど、彼らの財産は殖えていくという悩ましい問題が出てきた。
 そこから次のような教説が誕生した。それは、天職を放り出さず、それに禁欲的に努めるのであれば、金儲け自体は悪いものではないという教えである。そしてこの教えはさらに発展して、大きな利益を得る機会を損ずることは、天命をまっとうしていないと見なされるようにもなったのである。
 彼ら禁欲的なプロテスタントにとって、財産は神から託されたものであり、聖書のたとえ話のように、一デナリに至るまでしっかりと管理しなければならないのである。彼らにとって、人間は、神から託された財産を管理する「しもべ」であり、しもべは「営利のマシン」として増資に奉仕すべき存在となったのである。
 こうして「資本主義の精神」、禁欲的で合理的な金儲けの精神は誕生した。そして、この「資本主義の精神」は、金儲けに邁進するような「唯物的な」精神から発達したものではなく、天命をまっとうするという「宗教的な」精神を土台としたものなのである。

 しかし、「禁欲の精神」と「経済の精神」が全面的に結びつくのは、宗教的熱狂が過ぎ去り、禁欲の精神が職業道徳へと統合され、功利主義的な現世主義が登場するようになってからのことである。
 現代における「資本主義の精神」を持つ人々とは、このように宗教色が抜け去りながらも、禁欲的な道徳的資質を持ち合わせる人々である。

[資本主義の精神に満たされた人々に]自分がいま所有しているものでは満足せずに、休む暇もなく利益を追い求めることに、どのような「意味」があるのかと尋ねてみよう。(p.97)

 すると、多くの人が、休む暇もなく働きつづけるこの仕事が、「生きるために不可欠なもの」となっているからだと答えるだろう。

この答えが意味するのは、人間が存在するのは仕事のためであって、人間のために仕事があるのではないということである。これは個人の幸福という観点からみると、まったく非合理であることをあからさまに示している回答である。(p.98)

 宗教色は消え去ったが「天職概念」だけは生き残り、仕事のために人間が存在するようになったのである。

 この書によれば、われわれ人類は「人間性の開花」を断念したのだという。そして、断念した上で、なお「品よく」あろうとするわれわれは「禁欲的」にならざるを得ないのだというのである。

ファウストが願ったような完全な人間性を享受することは放棄して、専門の仕事に専念することは、現代の世界においては何らかの価値のあることを実現するための条件となっているのである。だから何らかの「業績」をあげるために何らかのことを「放棄」するのは、どうしても避けられないことなのだ。市民的な生活スタイルは、それが品のないものとならずに真の意味でのスタイルであろうとするならば、こうした禁欲的な基調をそなえたものとならざるをえないのである。それはゲーテがその人生知の高みから、『ウェルヘルム・マイスターの遍歴時代』とファウストの生涯の終幕を描いた書物によって、わたしたちに教えようとしたことでもある。ゲーテにとってはこの認識は、麗しき人間性が完全に開花する時代を待望することを断念し、それから訣別することを意味した。(p.491-492)

 このように、近代人の特徴である禁欲的かつ克己的な「品の良さ」は、「人間性の開花」を断念した結果であるというのである。

 ピューリタンたちは、「救いの確証」という「内側からの原動力」によって近代資本主義の社会的機構を作り上げていった。しかし、一度しっかりとした社会機構が完成してしまうと、今度は社会機構の「維持」のために働かざるを得なくなってくるのである。

ピューリタンたちは職業人であろうと欲した。しかしわたしたちは職業人でなければならないのである。(p.492)

 現代において、われわれ人間は「社会機構の維持」という「外側からの強制力」によって働かされるようになってしまった。もはや金儲けのために「内側からの原動力」を必要とはしない。
 このように金儲けを倫理的義務としながら、禁欲的な宗教色をなくしたものが、現代における「資本主義の精神」なのである。
 われわれ人間は、かつてのように天命をまっとうするために精進するのではなく、ただ社会機構の維持のために働き続けなくてはならなくなったのである。
 そして、ここに現代資本主義の問題点があるのだとウェーバーは指摘するのである。
 この「外側からの強制力」によってしか動かされているにすぎない「機械のような人間たち」、ウェーバーの言うところの「末人」。極めて散文的な人間でしかない「末人」が、自分らこそが「人間性の開花」を成し遂げたのだと自己満足する日がいずれやってくるかもしれないのだから・・・・・・。

精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう。(p.494)


 ニート気質あふれる私にとっては、プロテスタントの「禁欲的な」職業観よりも、カトリックの「その日暮らし的な」職業観の方が合っているような気がする。
 プロテスタントの職業観は、仕事的には「合理的」なのだろうが、人間的には「非合理」のように思われて仕方がないのである。まぁ、私が怠け者なだけなのだろうが。
 また、プロテスタンティズムの倫理が、「職業」を神から与えられた「天職」として定義し、人間よりも高い位置に据えた結果、職業が絶対的な意味を持つようになってしまったように思われる。
 本書に『人間が存在するのは仕事のためであって、人間のために仕事があるのではない(p.98)』と書いてあるように、現代社会においては、人間のために職業があるのではなく、職業のために人間が存在するように感じられる。まるで新約聖書の「安息日」みたいな話だ。本末転倒な話に思われる。

そして更に言われた。「安息日は、人間のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
「マルコによる福音 第2章27節-28節」新共同訳

 まぁ、私が怠け者なだけなのだろうが。

 この書では、「予定説」を受け入れたカルヴァン派ピューリタンの信徒たちは、「内側からの原動力」に突き動かされて「禁欲的な克己」に励んだというように表現されている。しかし、その「内側からの原動力」とは「強迫観念」に他ならないのではないかと私には感じられるのである。
 この心の奥底から沸き起こる<宗教的>な「強迫観念」によって、近代人は自ら進んで禁欲的になり、克己に励み、生活を合理化することに成功した。そうすることによって社会に活力を与え続けてきた。
 そして、われわれの生きる現代において、社会は「外からの強制力」だけで十二分に活性化できるようになったので、資本主義の精神に宗教性は必要でなくなり、それと同時に「宗教的な強迫観念」も薄れていったように思われるのである。

 そして、この書の岩波版の訳者大塚久雄氏は、その解説において、現代における「資本主義の危機」の代表例として、「怠惰」という悪弊に陥った「イギリス病」を引き合いに出し、この危機を乗り越えるために、資本主義の精神に「失われた宗教性」を再び蘇らせることを提唱している。しかし、怠け者の私はそれに首肯できないのだ。
 様々な事情によって、この「外からの強制力」が弱まった結果、「イギリス病」というものが現れてきたのは確かなのかもしれない。しかしだからといって、大塚氏の述べるように「失われた宗教性」を蘇らせることによって、社会に活力を取り戻そうとしてもダメなのではないかと思ってしまうのである。
 なぜなら、「失われた宗教性」を蘇らせることは、同時に「宗教的な強迫観念」をも蘇らせることを意味するからである。そして、「宗教的な強迫観念」が蘇ることによって、「仕事」自体は活力を取り戻すだろうが、肝心の「人間」は疲弊していく一方のような気がするからである。
 人間が活力を取り戻すには、とうの昔に忘れ去られた「人間性の開花」が必要なのだと私は思うのである。

 だからそのためにも、カルヴァンが見向きもしなかった「人間の可能性」というものが大切なもののように私には思われるのである。
 カトリックの私にとって、神とはわれわれ人間と会話をし、かつ交流する存在である。こうした「交わり」のなかに「人間の可能性」が見いだせるのだと思うのである。カルヴァンが顧みることなかった「人間の可能性」とは「自由意志」のことでもあろう。そして、「自由意志」の探求のはてに、今は忘れ去られている「人間性の開花」というものがあるような気がするのである。

 しかしながら、われわれが生きる現代は、ゲーテの夢見た「人間性の開花」の到来を断念し、それから訣別した時代であることにかわりはない。われわれの現代は、目指すものが「人間性の開花」から「理想的な社会」へと移行した時代のように思われる。それは社会が絶対者として君臨する、相も変わらぬ禁欲的な克己の時代である。
 かつて安息日のために人間があると見なされていた。やがて、職業のために人間が存在ようになった。そして現在、社会のために人間が存在するようになった。
 そして、たとえわれわれが「強迫観念」か「強制力」のどちらかに突き動かされる存在にすぎなくなったとしても、われわれが人間であることにかわりはなく、人間であるわれわれは禁欲的な克己によって「品よく」生きていけるのである。
 そしてひょっとしたら、それでもわれわれは、そうした<脱>宗教的な禁欲の雰囲気の中で、「ついに人間性を開花した」と自己満足して生きていけるのかもしれない。