ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「ハンナ・アーレント」矢野久美子著

ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』矢野久美子著 中公新書2257 2014年3月25日発行


 この本は、中野にある古本屋で、他の本を買うついでに購入したものである。それ故、あまり期待もせずに読み始めたのだが、結果的にとてもおもしろかったので、今回取り上げてみた次第である。


 この本の「よいところ」は、ハンナ・アーレントの生き様や思想、および代表作の解説だけではなく、彼女を取りまく人びとにも焦点を当てている点にあると思う。

 たとえば、アーレントの母マルタ・アーレントアーレントの二番目の夫ハインリッヒ・ブリュッヒャー、また友人で批評家のヴァルター・ベンヤミンアーレントが「砂漠のなかのオアシス」と呼んだ沖仲仕の哲学者エリック・ホッファーなどなど・・・・・・。彼らの生き様やその思想をも、この本はキチンと取り上げているのである。

 こうした当時を生きた人びとの物語を短いながらも扱っているので、この本は単なるアーレントの思想の紹介本にとどまらないものとなっており、多面的にハンナ・アーレントという人物を知ることができるようになっていると思う。

 だから、この本は専門書というよりは、さまざまな記事が載った雑誌的な性質を持っていると思う。そういった点で、新書らしい新書であり、また良書であると感じた。


 今回は、そんな種々の記事の中からリトルロック事件」という、アーレントが巻き込まれる形となった「人種問題」に焦点を当てていこうと思う。
 なぜなら、「アイヒマン論争」以前の「リトルロック事件」においても、アーレント独自の視点は、知識人たちから激しい批判を受けることとなり、一騒動を起こしていたからである。


 「リトルロック事件」とは、1957年9月、アメリカ南部アーカンソー州リトルロックにあるセントラル高校を舞台にした事件である。

 地元民が反対していたにも関わらず、連邦裁判所の指導によって、セントラル高校に9月の新学期から9人の「黒人生徒」が入学することになった。9月3日の登校日には、約四百人の白人群衆と州兵が黒人生徒の入校を阻んだ。翌日、黒人生徒は車によって集団登校を試みたが、これもまた州兵によって阻止された。

 しかし、エリザベス・エックフォードという女子生徒が、家に電話がなかったために集団登校を知らず、ひとり徒歩で学校に向かうという事態が発生してしまった。
 彼女は、白人群衆に取り囲まれてしまい、罵声を一身に浴びることになってしまう。そして、ようやくひとりの白人女性に助けられて、その場から抜け出すことができた。このときの様子は映像や写真で全米に報じられた。

 その後も混乱が続いたが、9月25日、アイゼンハワー大統領の命令で連邦軍が出動し、1000人の連邦軍兵士に保護されながら9人の黒人生徒は入校を果たすことになる。

 これが「リトルロック事件」の一応の顛末である。後日談としては、政府による連邦軍の投入によって暴動は沈静化したが、黒人生徒たちには学校内での執拗な「いじめ」が待ちかまえていたというものがある。そして、このいじめは「癒されがたいトラウマ」として長いあいだ生徒たちを苦しめたという。


 アーレントは、10月にユダヤ系の雑誌『コメンタリー』からこの件についての寄稿を依頼され、原稿を送っている。しかし、彼女の論文は編集部で大問題となり、掲載が延期され、結果的に彼女が論文を撤回することとなった。
 一年後、別の雑誌『ディセント』がこの論文を掲載したが、アーレントへの反論も同時掲載し、かつ「間違っていると思われる意見にたいしても表現の自由を認める」という主旨の編集後記まで添えられたのである。

アーレントは論文自体に変更は加えなかったが、経緯について詳しい前置きをつけた。(p.160)

 では、アーレントの論文はなにが問題だったのだろうか。

それは、アーレントがおおかたのリベラルな人びとの想定に反して、リトルロックでのセントラル高校の「統合」と政府の介入に否定的な意見を書いたからである。(p.160)

 この論文でアーレントは、「差別撤廃の戦い」という、大人たちが数世代にわたっても解決できていない問題を、子供たちに担わせることを批判しようとした。

こうしたアーレントの主張は、差別と戦う善意の人びとから激しく避難されることになった。(p.161)

 アーレントは、罵声を浴びせられながら大人に付き添われて歩く少女エックフォードの写真を見て、痛々しいものを感じた。アーレントには少女が「幸せ」には見えなかった。
 だからアーレントは、個人としての誇りを傷つけるような状況に子供を置くべきではない、と書いたのである。

 実際、ハンナ・アーレントが子供のころ、「反ユダヤ主義への戦い」の前面に立ってくれていたのは、彼女の母、マルタ・アーレントであった。

たとえば学校の教師が東欧出身のユダヤ人の生徒たちなどにたいして反ユダヤ主義的な発言をした場合、ハンナは、「すぐさま立ち上がり、教室を去り、家へ帰り、すべて詳しく報告するように指示されていた」。母マルタは学校に抗議の手紙を書き、ハンナはその日は学校に行かなくてもよく、「それがけっこう楽しかった」。しかし反ユダヤ主義的な言葉が子供たちからなされたものであれば、「家でそのことを話すのは許され」なかった。(p.14)

 母マルタは、相手が大人の場合は、母が前面に立ち子供を保護するが、子供同士の場合は、自分で自分を守るよう、娘ハンナに教えていたのである。
 そして、そうした母親の姿勢のなかで、アーレントは「絶対的な保護」と「自分の尊厳」を感じることができたのである。

 こうした個人的な経験をふまえて、アーレントは、何よりもまず差別的な法律を廃止し、「政治的な平等」を実現するべきだと強調した。他方、「社会的領域」ではエスニック集団の差異、職業や所得による集団間の差異は不可欠なのだと述べた。
 彼女にとって重要だったのは、差別を「社会的な領域」にとどめておき、差別が破壊的な力を発揮する「政治的な領域」や「個人的な領域」に入り込ませないように注意することであった。
 しかし、こうした彼女の主張も「社会的差別を容認」するような保守的な響きをもっている、と受け止められたのである。


 しかし、のちのアイヒマン論争でもそうだが、アーレントはどんなに激しい批判を浴びることになっても、その主張を変えることはない。
 『イェルサレムアイヒマン』のドイツ語版が出版されたときも、彼女は英語版で書いた主張を変えることは全くなかった。

ドイツではアーレント批判の論文や本が出ていたが、彼女は、自分の皮膚が「去年一年で象も羨むほどの厚さになった」から平気だ、とヤスパースに書いている。(p.198)

 このようにアーレントは、批判に対してタフなのだが、そのタフさは、真実を明らかにするためには「複数の視点」が必要だという確信からきているのだと思う。
 私などは、もし、自分独自の視点が、周りから批判を受けたりしたら、すぐにサッと引っ込めて、主流のもっともらしい意見に迎合してしまうのだろう。もしくは、意固地になってしまい、自分の視点のみが正しいのだと自己正当化してしまうのだろう。

 けれども、この本を読んで感じたのは、傲慢になって、自分独自の視点を正当化する必要もないが、いたずらに自分を卑下して、もっともらしい視点に道を譲る必要もないのだ、ということである。
 というのも、もっともらしく勢いのある視点に、やみくもに迎合し、それと同一化するのは「全体主義」を呼び起こす可能性があるからである。
 この「全体主義」のなかにあるのは、「合一」だけで、「他者」は存在しないように思われる。自分の視点を持たなかったり、他人の視点を認めなかったりすれば、そこに「他者」は存在しないのである。

判断は他者との関係のなかでおこなわれ、他者の立場から物を考える「拡張された思考様式」を要請する。判断力は、他者の視点から世界がどのように見えるかを想像する力を前提としている。(p.219-220)

 お互いの独自の視点を認め合うことによって、私たちの視点は広がっていくということだろうか。


 この本には、この「リトルロック事件」のほかにも、哲学者ハイデガーヤスパースとの交流、アーレントの亡命生活や二度の結婚、批評家のヴァルター・ベンヤミンとの友情や彼の死、そして彼女の主著である『全体主義の起源』や『人間の条件』、『イェルサレムアイヒマン』についても述べられている。内容豊富のもりだくさんなのだ。


 最後に、アーレントの夫、ブリュッヒャーの言葉で、覚えておきたいのもがあったので、備忘録代わりに書き残しておく。

そして、そのためには、イデオロギーや絶対的な体制を批判的に吟味し、判断する力が必要であるとして、批判を原理とし市民として生きるソクラテスの思考に学ばなければならないと強調した。ブリュッヒャーによれば、そのような思考とともに生きることは、幸せにはしないかもしれないが、満足を与えてくれる。(p.220)

 私も幸福であることに固執するよりも、自由であることを求めて生きていけたらと思う。