ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「悪と全体主義」仲正昌樹著

『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』仲正昌樹著 NHK出版新書549 2018年4月10日発行


 今回取り上げました、この『悪と全体主義』という新書。前回取り上げた本に引き続いてのハンナ・アーレント物なのだ。

 前回の新書『ハンナ・アーレント』は、アーレントを取り巻く人々も含め、彼女の生涯を広範に描いたものであったが、今回取り上げたこの『悪と全体主義』という新書は、アーレントの著作、特に『全体主義の起源』と『エルサレムアイヒマン』の二作品に焦点を当てたものである。

 ハンナ・アーレントの代表作とも言える『全体主義の起源』と『エルサレムアイヒマン』、この二つの著作の概要をザックリと分かりやすく伝えている本だと思うので、「実際のアーレントの本は、厚いし、文字がビッシリだし、値段も高いし、読むのがダルいわぁ」と思うモノグサ系の諸兄にもピッタリの本であると思う。

 ちなみに、この本は、「100分de名著」シリーズの『ハンナ・アーレント 全体主義の起源』の内容に加筆し再構成したものであるという。


 この本によれば、ナチスは「ユダヤ陰謀論」という単純ながらも分かりやすい「世界観」を提示することによって、不況に苦しみ不安に喘ぐドイツ国民のハートをガッチリ掴んだのだという。

不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる「世界観」。それを与えてくれたのがナチズムであり、ソ連ではボルシェヴィズムでした。(p.124-125)

 また、ナチスは、自身への求心力を高める方法を「秘密結社」に学んだということも述べられている。

模範として秘密結社が全体主義運動に与えた最大の寄与は、奥義に通ずる者とそうでない者との間にヒエラルキー的な段階づけをすることから必然的に生ずる、組織の手段としての嘘の導入である。(p.132)

 「《何も知らない》下っ端の人間のままではイヤだ。《トップシークレットを知っている》上位のポジションに就きたい!」という、大衆の心理をナチスは巧く突いたのだそうだ。


 このあたりを読んでいて感じたのは、ドイツにおけるナチズムやソ連におけるボルシェヴィズムに見られる「全体主義」は、「グノーシス主義」に似ている、ということである。
 以前、拙ブログでも取り上げたニューエイジについてのキリスト教的考察』記事はコチラ)を読んでいた所為かもしれないが、そのように感じられた。

 グノーシス主義とは、ザックリと述べると、秘められた知識の獲得を重視する姿勢と、世界を善と悪といったような二元論的に捉える傾向を有する思想のことである。

 こうした「秘められた知識」を重視する姿勢は、人間そのものではなく、人間の「所有するもの」の方に存在価値を見いだしているように思われる。
 「所有すること」によって、自分自身に新たな価値を付与し、他者との差別化をはかろうという姿勢に見受けられる。

 このような「所有物」重視の姿勢こそが、グノーシス主義全体主義の共通点であるように思われるである。

 そして、グノーシス主義全体主義の両者とも、「所有すること」によって、バラバラだった人間を「選ばれた人間」として、ひとつにまとめ上げようとしているように思われる。


 ナチスが重視した「所有物」は、奥義であるトップシークレットばかりではなかった。もうひとつの重要な所有物、それは「血」であった。

民族的ナショナリズムを正当化するために彼らが持ち出したもの−−それは「血」でした。これも虚構にすぎないとアーレントは指摘していますが、我々はどこかで「血」がつながっている血族であり、これこそが唯一にして最も重要なのだと主張し始めたわけです。(p.95)

 一方、ソ連ボルシェヴィキが重視した所有物は「階級」であったように思われる。
 このように、彼らの支配する世界においては、それらを所有している人びとのみが、「正しい人」とされ、それを基にして結束を固めていこうとしていたように思われるである。


 私が引っかかるのは、特定の何かを「所有」することによって自己を正当化しようとする彼らの態度である。
 「血」や「階級」といった、自分という存在を構成している一部分にすぎないものを「神聖視」することによって、自分という存在に特別な意味を付与しようとする、その姿勢である。

 確かに、自分が日本人であることや労働者階級であること、あるいは特定の思想を持っていること、はたまたキリスト教徒であることなど、自分を構成している「一要素」を大切に思うことに関しては全く問題はない。
 しかし、それを「神聖視」したり「絶対視」することによって、自己を正当化してはいけないと思うのである。

 「血」や「階級」、そして「秘められた知識」といったような「所有物」を神聖視し、それを真理の代用品に据え置いてしまえば、自分自身には所有物以下の価値しか見いだせないことになってしまうのではないか。

 私たちの「所有物」は、たしかに大切なものである。しかし、同時に影のようなものであり、過ぎ去るものだと思う。それは、永遠に続くものではない。


 私はカトリックであるが、重要なのは、キリスト者であるという自意識よりも、神へと向かうことの方であると思う。
 私にとって、「神聖視」すべきは永遠なる神のみであって、自分の所有物ではない。
 まぁ、このような抹香臭がプンプン漂う宗教的な信念は、観念的な戯れ言と受け止められても仕方がない。自分でも書きながら胡散臭く感じてしまったぐらいだ。

 けれども、少なくとも真理にに対する一種の「謙虚さ」がなければ、真理を見失うことになってしまうというのは確かだと思う。
 そうした「知的謙虚さ」とは、真理を我が物とせず、それを自分を遙かに超えた天上に据え、それに向かっていくといった姿勢のことであろうか。
 そして以前、拙ブログでも取り上げた、カール・ポパーが強調していた「無知の知」といったものだろうか。


 いろいろと駄文を長々と書きつらねてしまったので、この新書『悪と全体主義』の要点のひとつである「悪の凡庸さ」について触れることが面倒くさくなってきた。
 しかし、この新書『悪と全体主義』をご購入いただければ、十分満足できる一連の思想内容を享受できるので、前回取り上げた中公新書の『ハンナ・アーレント』と併せて、是非購入していただきたい。