「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著 後編
『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム著 日高六郎訳 東京創元社刊 現代社会科学叢書 昭和26年12月30日初版 昭和40年12月15日27版(新判)
- 作者: エーリッヒ・フロム,日高六郎
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1952/01/01
- メディア: 単行本
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「愛情」と間違われやすいものに、「サディズム的傾向」と「マゾヒズム的傾向」というものがある、とフロムは言う。
「サディスト」と「マゾヒスト」。彼らは強い「絆」で結ばれているのであるが、その堅固な絆は「愛情」によって結ばれたものではなくて、「依存心」によって結ばれているものだという。
そして、その「依存心」は、私たちの心の中にある「欠乏感」から生じるものだという。
人間存在の原初的段階は、欠乏の段階である。そこには、他のなによりも先に満足させられなければならない、のっぴきならぬ欲求が存在する。このような基本的欲求を満足させた上で、人間に時間とエネルギーが残されたときにだけ文化は発達し、それとともに過剰現象にともなう努力も発達することができる。自由な(あるいは自発的な)行為はつねに過剰の現象である。(p.323)
私たちは「欠乏感」を抱えて生まれてくる、とフロムは言う。そして、この「欠乏感」は、何よりも優先的に満足させられるべき欲求であると言うのである。
同様のことを、加藤諦三氏は、その著書の中で次のように述べている。
いつも心の空白を感じ、それを埋めようと焦る。しかしどんなに焦って努力しても、その心の空白は埋まらない。幼い日に出来てしまった心の空白を埋めようと焦る人は、生きることがうまくいかない。
過食症とかその逆の拒食症などというのもそうではあるまいか。過食症の人は食べることで不安を逃れようとしているのであろう。食べることで何かを埋め合わせようとしているのである。(中略)しかしどんなに食べても心の空白は埋められない。それは栄養の問題ではなく、幼い頃の母親のやさしい愛撫の問題だからである。
加藤諦三著『自立と孤独の心理学』PHP文庫(p.96-97)
「欠乏感」または「心の空白」を「幼い頃の母親のやさしい愛撫」によって満たされることのなかった子供は、「心の空白」を埋めようとして、どうしようもなく焦ってしまう大人になる、と加藤氏は言っている。そして、彼らは深刻な「愛情喪失体験」をしている、ということも指摘している。そして次のように述べている。
そのような喪失体験が深刻であればあるほど、大人になって何かにしがみつく人間になっていくのである。いくらしがみついても安心できない。また所有によって安心しようとし、とにかくものを所有しようとする。
加藤諦三著『自立と孤独の心理学』PHP文庫(p.104)
彼らは、幼少期の「愛情喪失体験」から、いろいろなものに執着する「依存的」な人間となってしまうのである。
冒頭で述べたように、「サディスト」と「マゾヒスト」は、互いの「依存心」によって結ばれている。
サディストは、マゾヒストと比べると、一見自分の意志を持ち自立しているように見えるが、サディストも相手に深く「依存」している存在であることをフロムは指摘している。
サディストはかれが支配する人間を必要としている。しかも強く必要としている。というのはかれの強者の意識は、かれがだれかを支配しているという事実に根ざしているから。(p.163)
このように、「サド・マゾヒズム的傾向」という二つの傾向は、全く真逆の性質を持つが、心理学的には一つの根本的な要求の現れであり、互いに依存しあう「共生」関係にあるのだ、とフロムは言う。
すなわち孤独にたえられないことと、自己自身の弱点とから逃れでることである。私はサディズムとマゾヒズムのどちらの根底にもみられるこの目的を、共棲(symbiosis)と呼ぶことにしたい。心理学的意味における共棲とは、自己を他人と(あるいはかれの外側のどのような力とでも)、おたがいに自己自身の統一性を失い、おたがいに完全に依存しあうように、一体化することを意味する。(p.176)
幼少期に「愛情喪失体験」を味わったサド・マゾヒズム的人間は、「欠乏感」を満たそうとして互いに「しがみつく」共棲関係に入り、完全に「依存」しあい、相手と「一体化」しようとするのである。
また、サド・マゾヒズム的人間の特徴は、「権威主義的な性格」にある。これはまた「ナチズム」の特徴でもあるという。
彼らは「他者」を讃えそれに服従しようとするか、「他者」を服従させ自らが権威たろうとする。
つまり、彼らの「幸福」にとって、何よりも「他者」が重大な意味を持っていると言えるだろう。それというのも、彼らには「自分自身」というものが希薄だからである。加藤氏は述べている。
自分自身のために生きられない人はおそらく愛情飢餓感が根底にあるのではないかと推測される。つまり何よりもまず相手との関係が大切なのである。相手との関係から最大の満足が得られる。何よりもまず自分が相手から求められる存在でありたい。求められることによって何より生きがいを感じる。彼らは誰も知らないところで自分一人で自分の好きなことをして満足するということは出来ない。それは彼にとっては時間の無駄である。
加藤諦三著『自立と孤独の心理学』PHP文庫(p.80-81)
彼らは、他者からの「愛情」を求めすぎるが故に、「自分自身」というものを放棄してしまうのである。
近代人は、威張りくさった「外的権威」を放逐して、個人の「良心」に従うようになったという。そして、外的権威に屈することなく、個人の理性や良心によって彼自身を支配することは、自由の本質であるかのように考えられてきた。
しかしながら、近代人は「良心」という、冷酷な「内的権威」に支配されるようになった、とフロムは言うのである。
ところがよく分析してみると、良心は、外的権威と同じような冷酷な支配者であること、また人間の良心によってあたえられる秩序の内容は、けっきょく個人的な自我の要求によってよりも、倫理的規範の威厳をよそおった社会的要求によって左右されやすいものであるということが明らかとなっている。良心の支配は外的権威のそれよりももっと冷酷である。なぜならもし個人がその秩序をかれ自身のものであると感じているとき、どうしてかれは自分自身に反逆することができるであろうか。(p.185)
けれども、現代に生きる私たちは、良心の声にも鈍感になり、他人に迷惑をかけないかぎり自由になったようにも思われる。
しかし、フロムは言うのである。私たちを支配しようとする権威はなくなったのではなく、より見えにくくなっただけである、と。
あらわな権威のかわりに、匿名の権威が支配する。そのよそおいは、常識であり、科学であり、正常性であり、世論である。それは強制せず、おだやかに説得するようにみえる。それは自明のことだけしか要求しないようにみえる。母親は娘に「あの青年といっしょに外出するのはいやでしょう」といい、広告は「このシガレットを喫ってごらんなさい、そのさわやかさはお気に召すにちがいありません」と暗示する。−−けっきょくわれわれの全生活をおおっているのは、これらの微妙な暗示の雰囲気である。(p.185-186)
このような「匿名の権威」は、あらわな権威よりも効果的であるという。なぜなら、反抗すべき相手が見えないからである。
また、「権威主義的性格」には、私たちの目を欺くようなある特徴があるとフロムは言っている。
それは、「権威への反抗」という特徴である。確かに彼らは権威に反抗する。しかし、彼らは、自分が「劣っている」と断定した権威に反抗しているだけにすぎない。であるから、「優れている」と判断した別の権威に対しては、彼らは服従するのである。
このように、権威主義的人間にとって、この世界は「優れたもの」と「劣ったもの」からできている、という。
性の差別であれ、人種の差別であれ、けっきょく優越と劣等のしるしでしかない。このようなことを意味しない差別を、かれは考えることはできないのである。(p.191)
このように私たちの間に存在する「差異」が、権威主義的人間の目にはすべて「優劣」に変換されて映るのである。
彼らにとっては、男と女という性別における差異も、「どちらの性が優れているか」という問題となってしまうのである。
前述したように、ナチズムは「サド・マゾヒズム的傾向」に代表される「権威主義的性格」を土台としたイデオロギーである。
また、ナチズムは、民衆の要求に応え、彼らを圧倒的な力と「一体化」させることによって、彼らの無力感を解消しようとした。
しかしながら、ナチズムは、民衆の感情的欲求を満足させることも、彼らに安定性をもたらすことも出来なかった。なぜなら、ナチズムは、喪失した「第一次的絆」の代替にはならないからである。
われわれは、人間がこの消極的自由にたえることができず、すでに放棄した第一次的絆のかわりとなる新しい束縛に逃避しようとすることをみた。しかしこれらの新しい絆は世界との真の結合を構成しない。かれは自我の完全性を放棄することによって、新しい安定性の代価を払う。(p.259)
わたしたちは、ナチズムのような「新しい絆」ではなく、「積極的自由」を手に入れなくてはいけないのである。
結局、「新しい絆」は「依存心」で結ばれたものにすぎない。加藤諦三氏は、この「依存心」で結ばれた集団の代表例として、「病理的な家庭」の姿を提示している。彼らは一見理想的な家庭である。
しかしその成員には感情の自由も行動の自由もない。ひとつの価値観でしっかりとまとまっている。表面的に見る限り家族バラバラの家庭よりはるかに理想的に見える。きっちりとまとまった家庭である。
人々は愛情ゆたかな固くまとまった理想の家庭と誤解することもある。しかしさきにも述べたとおりこの家の中には自由はない。あまりにも禁じられている感情が多すぎるのである。自分が自由に感じることは出来ない。
いや自由に感じた結果はこう感じるはずだということが多すぎるのである。家の中ではお互いにこう感じるはずだという感じ方が決まっている。たとえばお互いに腹を立てたり、嫌いな面があるはずがないということになっている。
加藤諦三著『自立と孤独の心理学』PHP文庫(p.136)
病理的な家庭には、「無言の拘束」が多すぎるのだという。このような傾向は、病理的な家庭だけでなく、あらゆる集団、特に「宗教団体」が陥りがちなものであると思う。加藤諦三氏は続けて述べている。
このような家庭で育てば、心の中にはドロドロとしたさまざまな望ましくない感情が抑圧されてくる。望ましくないというのは人間の成長として望ましくないということではなく、その強固に結束した集団維持に望ましくないということである。
このような集団のなかでは、各人が成長していくということは不可能である。
加藤諦三著『自立と孤独の心理学』PHP文庫(p.137)
カトリック教会の文化の一つである「聖職者による幼児への性的虐待」も、彼ら聖職者が、こうした「抑圧」の下で幼少期を過ごしてきたからではないかという気がしてくる。
彼らは、ドグマの代理人となった「サディスティックな親」によって育て上げられ、成長過程において敵意や欲望を「抑圧」し、必死になって「よい子」を演じ、あるべき姿の家庭と「一体化」させられてきたような気がするのだ。
彼らは、親たちの巧みに隠蔽された「支配力(フォルス)」に対して、ジョルジュ・ソレルのように「暴力」に訴え出ることもできなかったのである。(「ソレルのドレフュス事件」川上源太郎著 - ハキダメ記)
ソレルにとって暴力は、上からの抑圧的・支配的な力(フォルス)に抵抗する絶対的な拒否の意思の表明であり、その意志の力である。
川上源太郎著『ソレルのドレフュス事件』中公新書(p.113)
フロムは言う。「個性の成長と実現」こそが、人生の最高の目的である、と。だから、どんなに立派で崇高に見える目標であっても、私たちの個人的自我をそれに服従させてはならない、と。
人間は自分自身よりも高いいかなるものにも従属してはならないということは、理想の尊厳を否定しはしない。反対に、それは理想をもっとも強く肯定することである。しかしそれによって、われわれは理想とはなんであるか、批判的に分析しなければならない。(p.291-292)
フロムは続けて言う。真の理想とは、自我の成長を促進させるものである、と。
真の理想とは、自我の成長、自由、幸福を促進するすべての目標であり、仮想の理想とは、主観的には魅惑的な経験(服従への衝動のように)でありながら、じっさいには生に有害であるような、強迫的な非合理的な目標と定義するにいたる。(p.293-294)
つまり、「真の理想」とは、自我の成長を促進させる、草花にとっての陽の光のようなものであると言えるだろう。
また、「仮想の理想」とは、自我の成長を抑圧して、私たちと崇高な目標とを「一体化」させようとするものだと言えるだろう。
私たちの幼少期における「愛情喪失体験」によって、私たちの人生にもたらされることになった「欠乏感」。
この「心の空白」を必死になって満たそうとして、私たちは、必死になって物をかき集め、必死になって相手にしがみつく。そして、自分が「優れている」と判断したものと「一体化」することによって、心の安定を手に入れようとする。
こうした傾向を「自由からの逃走」と呼ぶのだろう。そして、それが「ファシズム」という恐ろしい形で私たちの前に現れてしまったのは周知の事実である。
そしてまた、この「自由からの逃走」によって「心の空白」は誤魔化すことはできるが、それを満たすことはできないのである。
崇高な理想と「一体化」することによって、私たちの「不安」は解消されることはない。
ただ、私たちが「真の理想」に向かって「自我を成長」させることによって、「心の空白」とも向き合っていける余裕が出てくるのだと思うのである。そしてそれが、フロムの言う「積極的自由」であると思う。
[新版]自立と孤独の心理学 不安の正体がわかれば心はラクになる
- 作者: 加藤諦三
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ソレルのドレフュス事件―危険の思想家、民主主義の危険 (中公新書)
- 作者: 川上源太郎
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