「ハタチになったら死のうと思ってた」中村淳彦著
『ハタチになったら死のうと思ってた AV女優19人の告白』 中村淳彦著 ミリオン出版 2018年8月1日初版発行
- 作者: 中村淳彦
- 出版社/メーカー: ミリオン出版
- 発売日: 2018/07/27
- メディア: 単行本
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死んだ、死にたい、死のうと思った−−この連載は、なぜか死の話が多い。取材だけの話ではなく、AV業界は本当によく人が消えたり、死んだりする。間違いなく、死に近い世界である。
エロスとタナトスは紙一重と、よく言われる。AV業界には様々な人が、様々な事情を抱えて、様々な経路で女性のセックスを換金するために漂流する。(p.78-79)
この本の中で、著者である中島淳彦氏はこのように述べています。
この『ハタチになったら死のうと思ってた』という本は、ふだん「お世話」になっているAV女優たちのインタビュー集です。このインタビューの中で、彼女たちは自分の「生い立ち」について色々と語ってくれています。
そして、彼女らが語る話から、彼女たちが絶望的な日常を送ってきたということが分かるのです。
彼女たちの多くは、育児放棄や家庭内暴力の家庭、または自分の思いを口にすら出せないような厳格な家庭といったような、「愛情が喪失された環境」で育ってきたようなのです。
そして、この本の中で描かれているような、彼女たちの暗くて孤独な後ろ姿は、「セックスが好き」とアッケラカンと言ってのけてしまうような、彼女たちの明るくて軽いパブリックイメージとは全く異なるものでした。
この本のタイトルにもなった『ハタチになったら死のうと思ってた』という言葉を発したのは、M.Sさんです。
この本の巻頭に、彼女の写真が載せられています。彼女はおどけたポーズで写っており、その姿からは彼女が「死を望んでいる」ということを伺い知ることができません。
そんな彼女が、インタビューの中で次のようなことを語っているのです。
「女って若いうちが華じゃないですか。だから私、早めに死にたい。もうセックスは思い残すことがないくらいヤリまくったし、AV女優にもなったし、いろいろ経験したなって。そろそろ、死んでもいいかなって思う。今以上に楽しいことは、もうないと思うし、たぶんそれは間違ってない。だから、死ぬかな」(p.77)
さらに続けて語ります。
「自殺するのは、本当は20歳の誕生日って決めていた。けど、20歳の誕生日は過ぎちゃった。だから死ぬことはいつでもできるし、今を楽しもうくらいの感覚でいる。どうしても、長く生きたくない。これから結婚も恋愛もするつもりはないから。自殺の方法はいろいろ考えた。自宅で首吊りも、どこかに駅で電車に飛び込んだとしても、人に迷惑がかかる。迷惑がかからない方法で死にたいから、樹海とか行くと思う。(p.77-78)
同じような「死への憧憬」を、熟女系の女優であるY.Iさんも語っています。
「もう、だいぶ前から、生きていてもなにもない。それはわかっていた。だからAV女優もいいかなって。私、あと2、3年で死にます。冗談とかじゃなくて、正真正銘の本心で本当に死にたい。あと2年くらいなら、立ち食いそばとAV女優で何とかなりそうじゃないですか。もう、それでいいし。人生、思い残すことはないです。生きていても、なにもない。自分にはなにもないってことは痛いほどよくわかっているので、それでいい」
どうせ、なにもない。だから行きたいところもないし、音楽も映画も男も興味ない。買い物をいくらしても虚しい、全部わかっていること。もう、悟った。(p.225)
このような嘆きの言葉が、スッと口にのぼるような彼女たちは、もう十分なくらい苦しんで生きてきたのだろうと思います。そんな彼女たちは「死」にとても近いところに佇んでいるようです。
私もまた、「死への憧憬」を持ってきた人間であり、自分や人生に「絶望」してきた人間でしたので、彼女たちが吐露する嘆きの言葉の数々に、勝手ながらに共感してしまいます。そして、彼女たちの「死に至る病」にどうしようもなく引き込まれてしまうのです。
この『ハタチになったら死のうと思ってた』は、前回取り上げた『自由からの逃走』のブログ記事をまとめているときに読んだ本なので、読みすすめていくうちに『自由からの逃走』と関連するような感想が浮かんできました。なので、今回は、そういったことを述べてみたいと思います。
冒頭で述べたように、彼女たちは、その生い立ちにおいて「愛情喪失体験」をしているようです。幼少期に与えられるべき「愛情」が、その複雑な家庭環境によって、彼女たちには与えられていないのです。
しかしながら、こうした傾向は「近代人の特徴」でもあるといいます。エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』においても、近代人からは、母親との一体感のような「第一次的絆」が喪失されてしまった、ということが述べられています。
ですから、「愛情の喪失」から生じる、心の「欠乏感」といったものは、近代人《共通》の問題である、といえるのです。
そして、このような「愛情の喪失」が、彼女たちの育成環境においては、誤魔化されることもなく、露わに表出してしまったのではないかと思われるのです。
また、エーリッヒ・フロムは、近代人の特徴は「利己主義」にあるとも述べていました。
利己主義は、「貪欲」なものであり、この利己主義特有の貪欲さは、心の「欠乏感」から生じてくるものだ、とフロムは述べています。
そして私たちは、心の「欠乏感」から、誰かに「気に入られること」を何よりも欲してしまうのです。
この「気に入られること」について、加藤諦三氏は次のように述べています。
「気に入られること」と「愛されること」は違う。
(中略)
愛された体験のない人は、「気に入られること」と「愛されていること」を同じだと感じている。
加藤諦三著『不安のしずめ方』PHP文庫(p.102-103)
加藤氏は、私たちが「気に入られること」と「愛されること」を混同していることを指摘しています。
この二つを混同しているから、「こんな私では愛されるはずがない」と思って絶望してしまうのかもしれません。混同しているから、「本当の自分」というものを必死になって後ろ手に隠してしまうのかもしれません。
しかしながら、「愛されていること」とは、私たちが必死になって隠してきた「本当の自分」というものが受け入れられているということなのだと思います。
「本当の自分」という、私たちが必死になって隠してきたものは、私たちの目からすれば、ヨワくてブザマなものであって、それは私たちの「気に入らないもの」であるのかもしれません。
しかし、「愛」というものは、そういうものにこそ向けられるものなのだと思います。
「愛」というものは、そういったヨワくてブザマなものを包み込むぬくもりなのだと思うのです。
私たちが、どうしようもなく欲してしまう「気に入られること」。それは「執着」にすぎず、本来の愛とは似て非なるものだといいます。
フロムもまた「利己主義」と「愛」とは全く異なるものであると述べています。
憎悪は破壊を求めるはげしい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。すなわち愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追求であり、内面的なつながりである。それは原則として、われわれをも含めたすべての人間やすべての事物に向けられるように準備されている。排他的な愛というのはそれ自身一つの矛盾である。
エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』東京創元社(p.131)
そうは言いながらも、私は「愛されること」よりも「気に入られること」の方を気にしてしまいます。なぜなら、なんか「特別感」が感じられ、安心できるからです。
しかしながら、これからの私たちがするべき努力は、相手に「気に入られる」ように「本当の自分」を隠蔽する努力ではなく、私たちが「本当の自分」を受け入れる努力であると思います。
誰からも愛されなかった「本当の自分」というものを、私たち自身が愛してあげなければならないのだと思うのです。
そうしたことから、「気に入られること」ばかりを気にしてしまうような私たちの「不安がな(2018.12.27修正)心」が、少しずつ穏やかになっていくのだろうと思われるのです。
- 作者: エーリッヒ・フロム,日高六郎
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