ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「死にいたる病」キルケゴール著 その2

『死にいたる病』キルケゴール著 桝田啓三郎訳 中公クラシックスW31 2003年6月10日初版

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

 ※今回も、本文および引用部分における“強調”は、ブログ主によるものである。あしからず。

目次をつけてみました!(2018年12月15日変更)

「絶望は弁証法的である」とは??

 前回の終わりに、「なぜなら、絶望は「弁証法」的なものであるのだから・・・・・・。」と書いた。したり顔で書いたった。だが、なんとその時、書いた当人は弁証法というものをちゃんと理解していなかったのである。なので、今回は弁証法って何?」って話から始めようと思う。

 この書の「序」に次のような箇所がある。

すなわち、絶望はそれほど弁証法的(5)なのである。(p.8)

 「(5)」とは、前回からおなじみの桝田啓三郎氏による注釈である。そこには次のように書かれてある。

(5)絶望が「病」であると同時に「薬」であると説かれているように、互いに矛盾することが、ひとつのものについて同時に言われること。(p.8)

 ついでに前回から参考文献としている工藤綏夫氏の著書の方も覗いてみよう。

1)弁証法とは、両立しないで対立する「矛盾」をとおして、真理が、その統一として生成・発展していくすじみちをとらえようとする思索方法であって、へーゲルによって確立され、マルクスキルケゴールによって発展させられた、現代の有力な学問方法である。
人と思想19 『キルケゴール』工藤綏夫(やすお)著 清水書院(p.199)

 つまり弁証法とは、「病」と「薬」(あるいは「有限性」と「無限性」)といったような相矛盾し、そして対立するようなふたつの関係項に「関係すること」を通して、「真理」を探っていこうといった思索方法のことと言えるのではなかろうか(たぶん)。

 また、工藤氏の著書には次のような部分もあった。これもまた弁証法というものを理解するさいの助けとなると思う。この箇所では「へーゲル的弁証法」と「キルケゴール弁証法」との違いが述べられている。

 対立するものを観念的な思弁の媒介によって抽象的に宥和させていく考え方を、キルケゴールは「量的弁証法」と名づけて忌みきらった。これにたいしてかれは、「質的弁証法」の立場に立って、現存する対立をはっきりと区別してその質的差異を確保しながら、この対立を克服して統一するのは、反省による観念の中だけの移行ではなくて、背理を信ずる信仰の決断によって行為の世界に超越しようとする飛躍であることを強調した。
人と思想19 『キルケゴール』工藤綏夫(やすお)著 清水書院(p.128)

 キルケゴールは、ふたつのものの差異を曖昧にし、その上でひとつのものに融合していくような思索方法を嫌っていたという。
 だから逆にキルケ氏は、ふたつのものの差異を明確にし、はっきりと対立させ、その上でふたつものを統一させるような思索方法を採ったのである。
 そしてキルケ氏は、このような「対立を克服して統一する」には「信仰」が必要であると定義した。

 また、こうしたキルケゴールの「差異を強調する」という姿勢は、当ブログでも以前取り上げた「ジョルジュ・ソレル」を思い起こさせる。ソレルもまた差異にこだわる思想家であったのである。

絶望の可能性と現実性(p.18〜p.23)

 絶望は長所であろうか、それとも短所であろうか? まったく弁証法的に、絶望はその両方である。(p.18)

 キルケゴールは、絶望は長所であり、また短所でもあるという。そして、それを説明するのに「現実性」と「可能性」をいうワードを用いてくるのである。

 まず、絶望が「長所」である場合の「現実性」は次のようなものであるという。

現実性とは満たされた可能性であり、現勢的な可能性であるのが普通だからである。(p.20)

 一方で、絶望が「短所」となってしまった場合の「現実性」は次のようなものである。

ここでは現実性〔絶望しているということ〕は、それゆえに一種の否定でもあって、無力な、絶滅せられた可能性なのである。普通なら、現実性は、可能性にたいして、確認の意味をもっているのであるが、ここでは否認なのである。(p.20)

 このように人間の「現実性」というものは、絶望が長所になった場合と短所になった場合とによって、その意味するものが違ってくるようである。
 つまり、絶望が長所となる際の「現実性」は、「可能性」にその存在が認められており、他方、短所となる際の「現実性」は、「可能性」にその存在が拒絶されているのである。

 また、絶望とは人間精神という総合における「不均衡」であるという。そして、この「不均衡」は、「人間の外から」もたらされるものではなくて、「人間のうちに」潜むものなのだというのである。
 つまり、キルケ氏によれば、人間の絶望、つまり自己関係における「不均衡」は、彼が「神」から遠ざかった状態で、相矛盾するふたつの関係項に関係しようとするときに生じるのだというのである。
 そしてキルケ氏は、人間の努力だけでは、この「不均衡」は解消できないと言っているのである。

絶望は「死にいたる病」である。(p.24〜p.31)

 キルケゴールは、絶望は「死にいたる病」であると言う。そして、この死には「弁証法的」なふたつの矛盾する意味があるというのである。

 そのひとつは「キリスト教的」な意味における「死」である。そしてそれは、「地上的なものに死んで」、生まれ変わって「キリストとともに生きる」ということを意味している。

むしろ、キリスト教的な意味では、死はそれ自身、生への移り行きなのである。そのかぎりにおいて、キリスト教的に見ると、いかなる地上的な、肉体的な病も、死にいたるものではない。なぜかというに、確かに死は病の最後ではあるが、しかし死は終局的なものではないからである。(p.24)

 このあたり、ちょいとばかり理解しづらいのではなかろうか。このキリスト教的世界観が、我々をとりまく日常からあまりに遊離しすぎていて、いまひとつピンとこないのではないかと思う。
 信仰の説明は、どうしても「観念的」になってしまうのである。小難しい用語をどんなに平易に表現したところで、その表現されたものが絵空事のように感じられるので「戯れ言感」がぬぐえないのである。
 だから、ここらでちょいと無謀かもしれないが、ワタクシなりにこの辺の「生まれ変わる」といったものの説明を試みてみたいと思う。

 「生まれ変わった」からといって、昨日までの自分が、全くの別人になるわけでも、聖人になるわけでもない。昨日までの自分と同じ自分なのである。では、どこが違うようになったというのだろうか。

 たとえるならば、昨日までの自分は、雲や風または雨、時には嵐といった「地表の天候」に気分が依存していたのである。
 だから、雨にしたたか降られ、ズブヌレになり、それに苦しめられれば、絶望していたのである。

 けれども、「生まれ変わった」自分は、雨の日や嵐の日の、その雲の向こうにある「太陽」を信じるようになったのである。ここに違いがあるのである。
 彼は、自分の基礎を「地表の天候」にではなく「宇宙の太陽」に自分の基礎を置くようになった。
 それ故に彼は、雨にしたたかに降られ、ズブヌレになり、それに苦しめられても、もはや絶望することはないのである。なぜなら、彼は雲の向こうにある「太陽」を心のより所としているからである。

 だから、「地上的なものに死ぬ」とは、「地表の天候」に心が左右されないことを指しており、また、「キリストとともに生きる」とは、自分の心のより所を「天候」から「宇宙の太陽」へと置き換えることを指しているのだといえる。
 こうした信仰感から、模範的なキリスト者にとっては、「肉体的な病」も「地表の天候」のようなものにすぎないので、たとえそれに苦しめられても絶望することがない「はず」なのである。マァ、大抵のキリスト教徒は、苦しみに襲われれば、愚痴をとめどなく吐くだろうし、神に悪態もつくのだろうけれど・・・・・・。

閑話休題

 そして、キルケゴールは、「死」のもう一つの意味を指摘する。それはズヴァリ「死ぬことができない」という苦悩を指す。

したがって、死にいたるまで病んでいるということは、死ぬことができないということであり、しかもそれも、生きられる希望があってのことではなく、それどころか、死という最後の希望さえも残されないほど希望を失っているということなのだ。
(中略)
こうして、死が希望になるほどに危険が大きいとき、そのときの、死ぬことさえもできないという希望のなさ、それが絶望なのである。(p.24-25)

 これは、苦しんだことのある人なら、痛切に共感できる言葉ではなかろうか。そう、「死にたい、死にたい」と思っている者からは、「死」という最後の希望さえも奪われているのである。
 そう、死に希望を置いている絶望者は、「いきいきと生きること」が奪われているだけではなく、「ちゃんと死ぬこと」すらも奪われているのである。そしてそれこそが「絶望」なのである。

 次にキルケ氏は、絶望の「真の相」について語っている。この辺は「絶望の可能性と現実性」の最後の辺り、つまり「不均衡」は「人間のうちに」潜むものなのだという部分と、ちょいと内容がかぶっていると思う。

 絶望者は、まず「外的な出来事」について絶望するのである。しかしそれは「一瞬」だけのことで、次の瞬間には絶望の「真の相」があらわれるという。
 この絶望の「真の相」とは、彼が本当に絶望していたのは「外的な出来事」ではなく、「自己自身」であったという事実を指す。またキルケ氏は、彼が絶望せる「自己自身」とは「本来の自己」のことだと述べている。

 こうして絶望者は、この「本来の自己」から、彼の欲するような「別の自己」へ抜け出すことを望むようになるのだという。そしてその結果として、彼は「絶望して、自己自身であろうと欲しない」のである。

絶望者が絶望してあろうと欲する自己は、彼がそれである自己ではない〔なぜなら、彼が真にそれである自己であろうと欲することは、もちろん、絶望とは正反対だからである〕、すなわち、彼は彼の自己を、それを措定した力から引き離そうと欲しているのである。(p.30)

 もちろんキルケ氏のことだから、ここでいう「自己を措定した力」とは「神」のことを指している。
 そして絶望者は、「神が措定した自己」たるよりも、「自分が措定した自己」たることを望み、そしてそれになれないことに「絶望」するのである

そこで、彼が自分の自己から抜け出ることができないという苦悩がどこまでも残り、それが彼にできるなどと思うのは単なる空想でしかないことが顕わになるであろう。そして永遠はそうするにちがいない。なぜかというに、自己をもつこと、自己であることは、人間に与えられた最大の譲与であり、無限の譲与であるが、しかし同時に、永遠が人間にたいしてなす要求でもあるからである。(p.31)

 キルケゴールは、「本来の自己」というものは、神が人間に与えた「最大の贈り物」であるという。だがしかし、絶望してしまった者は、この「本来の自己」から抜け出そうとしてしまうのである。抜け出して「自分が措定した自己」たることを望むのである。そして絶望を深めていくのである。
 この辺りのことを図にすると、次のようになるだろうか(図6)。

 ここで、ちょいとばかりワタクシなりの感想をば。
 思うに、「本来の自己」でいられることを「キリスト者の自由」というのではなかろうか(コジツケ)。
 それはつまり、自分が措定した「別の自己」へと無理に背伸びして抜け出さなくても、神が措定した「本来の自己」のままでいられるということである。

 また、「本来の自己」であることは、自己自身に閉鎖的に留まることを意味してもいないと考えるのである。
 というのも、前回も述べたように、「本来の自己」とは、自己のうちに閉じこもるものではなく、「積極的に関係するもの」であるからである。
 そしてこの「積極的に関係すること」によって「自己閉鎖性」からも解放されるのである。

 理想の「別の自己」にあこがれている自己が「積極的に関係する」ようなことはないと思う
 彼は、「別の自己」に固執するあまり「関係すること」がおろそかになってしまうと思うからである。彼は「関係すること」ではなく、「別の自己を所有すること」を目標としているのである。
 このようにして、「本来の自己」が「不均衡」になればなるほど、彼は絶望して「別の自己」になることを欲するし、彼が「別の自己」になろうとすればするほど、「本来の自己」は「不均衡」を強めていき、彼の絶望も深まっていくのである

 そしてまた、「別の自己」に固執することは、自己の描く自己のなかに留まることにすぎない。そして彼は、自己から逃れようとすればするほど、自己のなかに閉じこめられていくのである。

 閑話休題

絶望の普遍性(p.32〜p.44)

 キルケゴールは、絶望を「稀な」現象ととらえる考察は間違っているという。

この考察は、絶望していないということ、絶望していることを意識していないということ、それこそが絶望のひとつの形態にほかならないことを、見のがしているのだ。(p.34)

 キルケ氏は、絶望は「普遍的」な現象だというのである。つまり、絶望を「感じていない」人間であっても、実は絶望していることがあり得るいうのである。

その人を絶望にいたらしめるようなものがあらわれるやいなや、その同じ瞬間に、彼が過去の全生涯を通じて絶望していたということが、顕わになるのだからである。(p.37)

 そして、キルケゴールは、人間が「精神」になっていないこと、それ自体が絶望なのだと説く。

 人間的に言えば、あらゆるもののなかで最も美しいもの、最も愛らしいものでさえが、やはり絶望なのである。すなわち、これは幸福なのであるが、しかし幸福は精神の規定ではなく、幸福のいちばん秘密な隠れ家の深い深い内部に、その奥底に、そこには、絶望にほかならぬ不安も住んでいるのである。(p.39)

 キルケゴールは、精神のないものは「幸福」であり得るが、その根底には絶望が潜んでいると述べている。
 そして、絶望から解放されるには、人間が「精神」となることが必要なのだという。

 けれども、心理学者もきっとわたしの言い分を認めてくれると思うが、たいていの人間が、自分が精神として規定されていることを十分に自覚することなしに生きているということこそ普通のことなのである−−そこから、いわゆる安心、生活にたいする満足、等々が出てくるわけだが、これこそ絶望にほかならない。これに反して、自分は絶望していると言う人は、普通、自分が精神であることを自覚せずにはいられないほど深刻な性質の持ち主であるか、それとも、苦しい出来事やおそるべき決断に迫られて、自分を精神として自覚するにいたった人々であるか、そのいずれかである(p.41)

 キルケ氏によれば、絶望の自覚のある者の方が、絶望していると人からも見られず自分でもそう思わない者よりも、「少しばかり、弁証法的に一歩だけ、治癒に近づいている(p.41)」という。
 これは、「死にたい」と日々苦しんでいる人たちにとっては、ちょいとばかり勇気づけられる言葉ではないか。
 というのも、「安心、生活にたいする満足」といったような「外的なもの」で自己の絶望を誤魔化している者たちよりも、シッカリクッキリ絶望している者たちの方が、一歩だけ治癒に近いというのだから。
 彼らは、その苦しみを通して、すでに「精神」になっているというのだから。
 だから、以前に取り上げた『ハタチになったら死のうと思ってた』にでてきた、絶望しきって「死にたい」という思いを吐露していた女性たちも、「少しばかり、弁証法的に一歩だけ、治癒に近づいている」と言えるのではなかろうか。

 そして、この章の最後で、キルケゴールは次のように述べている。

しかし、人生を空費した人間というのは、人生の喜びや人生の悲しみに欺かれてうかうかと日を送り、永遠に、断固として、自分を精神として、自己として自覚するにはいたらずに終わった人だけのことである。あるいは、結局同じことであるが、神が現にいまいまし、そして「彼」が、彼自身が、彼の自己が、その神の前に現にあるということに、絶望をとおして以外にはけっして得られることのないこの無限性の獲得に、けっして気づかなかった人、最も深い意味で、それについて感銘を受けることがけっしてなかった人だけのことである。(p.41-42)

 やはり、「神」が出てくるのである。キルケゴールにとっては、人間が絶望から解放されるためには「神の前に立つこと」が欠かせない重大要素となるのである。

 で、最後にまた、私の感想を少しだけ。
 「信仰なければ救いなし」とキルケゴールはいうが本当だろうか? それだとあまりに、「救いのない」話のような気がする。

 上記の引用で、キルケゴールは「絶望をとおして以外にはけっして得られることのないこの無限性の獲得(p.42)」云々と述べている。
 ここでいう「無限性の獲得」とは、「神への回帰」のことを指しているのだと思う。これはまた、人間は絶望の苦しみを通して、自分のうちに住む「キリスト」に気づくということでもあると思う。

 こうしたことを、もし脱宗教的に語るのならば、自分のうちに住む「キリスト」とは、「他人を思いやる心」、つまり「愛情」のことを指しているのだと言えるのではなかろうか。
 それ故に、「他人を思いやる心」を大切にしている人は誰でも「キリストとともに」生きていると言えるのではなかろうか。そして、仏教でも「慈悲」というものが説かれているのである。

 思うに、「愛」や「慈悲」といったものは、単なる動物の一感情ではない。それは、精神が絶望の果てに見いだした宝物なのだと思う。

 最後にもう一言だけ・・・・・・。だからといって、この「他人を思いやる心」に囚われてしまうと、最近よく耳にする「介護鬱」のような状況に陥ってしまうと思うのである。というのも、自己を抜け出して「理想的な子供」になろうと無理をしてしまうからである。


ソレルのドレフュス事件―危険の思想家、民主主義の危険 (中公新書)

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