ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「死にいたる病」キルケゴール著 その4

『死にいたる病』キルケゴール著 桝田啓三郎訳 中公クラシックスW31 2003年6月10日初版

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)


 ※今回も、本文および引用部分における“強調”部分は、ブログ主によるものです。

 最終回の今回は、「第二編 絶望は罪である」と題された、141ページから244ページにわたる部分を読み進めていこうと思います。

第二編 絶望は罪である(p.141~p.244)

A 絶望は罪である(p.141~P.194)

 この第二編の冒頭部分で、キルケゴールは次のように述べている。

罪は強められた弱さ、もしくは強められた反抗である、つまり、罪は絶望の度の強まりなのである。重点は、神の前で、あるいは、神の観念がいだかれている、というところにおかれている。(p.141)

 このようにこの第二編は、「第一編 死にいたる病とは絶望のことである」にも増して「神」という存在に焦点が当てられている。あと、「信仰」といったものにも・・・・・・。なので、大変わかりにくくなっております。

第一章 自己意識の諸段階〔神の前に、という規定〕(p.145~p.152)

 キルケゴールは、異教徒や自然な人間の自己の尺度は「人間」であるという。キルケ氏によれば、彼らは「自己が神の前にあること」については全くの「無知」な状態なのだという。
 そして、異教徒たちの尺度は「人間」であるが故に、ペラギウス的な努力を通して、「あるべき人間」を目指すという。(ちなみに、「ペラギウス」とは、その昔、異端の烙印を押されたオッサンのことで、その彼の教えとは「人間は神の恩恵がなくとも救いを得ることができる」といったものであった。)
 このように異教徒にとって、罪の反対は「徳」である。だから彼らは努力をして「有徳の人」を目指すのである。

 一方で、キリスト教徒にとっての自己の尺度は「神」であるという。そして、彼らは「自己が神の前にあること」を意識している。
 そして、キリスト教徒にとって、罪の反対は「徳」なのではない、とキルケ氏は説いている。

罪の反対は信仰なのである。(p.152)

 キルケゴールにとって、神の前に立たないという、神への「反抗」こそが「罪」なのである。

付論 罪の定義がつまずきの可能性を蔵しているということ、つまずきについての一般的な注意(p.152~p.161)

 後の章に、次のような記述がある。

 神と人間とのあいだに無限の質の差異があるということ、これが取り去ることのできないつまずきの可能性である。(p.237)

 この神と人間とのあいだにある「質的差異」というものが重要である。「罪の定義がつまずきの可能性を蔵している」とは、つまり、この「質的差異」がある神を前にしたとき、人間は「おののき」、神の前に立つことを欲しないのである。そして、これが「つまずき」である。

 いったい、つまずきとは何であろうか? つまずきとは不幸な驚嘆である。それゆえに、それは嫉妬に似通っている、しかしそれは妬む者自身に向かう嫉妬である、もっと厳密に言うなら、最も意地悪く自分自身に立ち向かう嫉妬である。(p.158)

 キルケゴールは、キリスト教の「神の前に立つ」という教えを受け入れるには「謙虚な勇気」を必要とする、と述べている。
 そして異教徒は、「神の前に立つ」ような「謙虚な勇気」を欠いているので、この「神の招き」に応えることができない状態なのである。

第二章 罪のソクラテス的定義(p.161~p.179)

 参考文献の著者である工藤綏夫氏は、次のように述べている。

ソクラテスは、罪が、知性の立場から意志の立場への飛躍によって成立するものであることを、自覚することができなかったのである。
人と思想19 『キルケゴール』工藤綏夫(やすお)著 清水書院(p.188)

 「質的差異」と同様に、この「知性の立場」と「意志の立場」という視点は重要である。
 ソクラテスは「知性の立場」から罪を定義しているので、罪は「無知」のことを指していた。
 そして、この立場からすれば、正しいことを知ってさえいれば、正しいことを行うのは必然なのである(私はこのあたり、ニューエイジの世界観に近いなと感じました。「神秘的な知識」さえ獲得できれば世界が変わる、といったような彼らの世界観に・・・。)。
 そしてこの考え方は、「近世哲学」にも通ずるものだとキルケゴールは述べている。というのも、近世哲学もまた「知性の立場」に立つものだからである。

 一方で、キリスト教は「意志の立場」から罪を定義しているので、罪は「反抗」のことを指している。

キリスト教は、罪が何であるかを明らかにするためには、神からの啓示がなければならない、と考える。(p.165)

 この「神の啓示」に対する「反抗」、これがキリスト教が定義する罪である。
 そして、キルケゴールは、ソクラテス的な「知性の立場」には、「知ること」から「行うこと」への移行に対する視点が欠けていると述べている。
 キルケ氏は、移行は必然ではなく、人は正しいことを知っていても、意図的にまたは怠りによって不正をなしてしまう場合もあると主張している。

キリスト教はこう教える、人間は、正しいことを理解しているにもかかわらず、不正なことをおこなうものである。〔これが本来の意味の反抗である〕、あるいは、正しいことを理解しているにもかかわらず、それをおこなうことを怠るのである、と。(p.177)

第三章 罪は消極的なものではなくて、積極的なものであるということ(p.179~p.187)

 キルケゴールは、罪は「積極的なもの」であると説く。というのも、罪は「信じる」といった「意志の立場」にあるものだからである。
 ところが、「思弁教義学」は、この「罪は積極的なもの」という規定を、「信じること」によってではなく、「概念的に把握すること」によって受け入れようとしているという。
 キルケゴールは言う。だが、そうなると、罪というものが、キリスト教的な「意志の立場」から、ソクラテス的な「知性の立場」に再び戻ることとなり、結果、罪は「消極的なもの」になってしまう、と。

Aの付論 しかしそれでは、罪はある意味できわめてまれなことになりはしないか?〔寓意〕(p.187~p.194)

 この章は、次のような書き出しで始まる。

 第一編において、絶望の度が強くなればなるほど、世間ではいよいよまれにしか見当たらなくなることを注意しておいた。ところがいま、罪とはさらに一段と質的に強まった絶望であるということになった。してみると、罪はまったくまれなことにならざるをえないのではあるまいか。実に奇妙な難点である!(p.187)

 そしてキルケ氏によれば、「罪」はまれなのではなく、世間で見受けられる「罪」や「絶望」は、そのほとんどが程度の低いものなのだという。また、その世俗のなかに本質的な「罪の意識」を見いだすことはできないとも述べている。

 ここで、ちょいと脱線。(「罪悪感」と「罪の意識」の違い)
 ここでいう「罪の意識」というものは、「罪悪感」とは異なるものであると私は考える。そして、世間一般に見いだされうるのは「罪悪感」の方であると思う。
 「罪悪感」というものは、完全でなかった自分に石を投げ続けるような感じであると思う。
 一方で、「罪の意識」というものは、完全なる神の前で、自分の不完全さを認めるといった感じに近いのだと思う。また彼は、不完全な自分に石を投げることはないのである。

B 罪の継続(p.194~p.244)

 「A 絶望は罪である」において、罪というものは、神への「反抗」であることが説明されていた。
 それに引き続くこの「B 罪の継続」においては、罪というものが「連続的」なものであることが説明される。それはどういうことか。

 世間一般的には、個々の罪といったもののみが語られている。しかしながら、このような個々の罪は「消極的なもの」であるにすぎない。そして、本来の罪は「積極的なもの」であり、「連続的なもの」であるという。

 なるほど、思弁的な立場からすれば、罪は消極的なものである。しかし、キリスト教の立場から言えば、もちろん罪は〔このことは、いかなる人間も概念的に把握することのできない逆説なのだから、信じられるよりほかはない〕積極的なものであり、たえず増大していく措定の連続性を自分自身のなかから展開していくのである。(p.196-197)

 つまり、悔い改めて、神と交わらないかぎり、罪の状態は継続される、ということであろう。
 そして人は、神と交わることなく、罪の状態を継続させていくので、次の章から展開されるような「自己の罪について絶望」したり、「罪の赦しにたいして絶望」したり、「キリスト教を否定」したりするのである。

A 自己の罪について絶望する罪(p.202~p.210)

 例えば、ある人が、罪を犯して、その「自己の罪について絶望」したとする。しかしながら、彼の悲嘆は、必ずしも「罪」についての悲しみであるとはかぎらない。それは、「神の摂理」にたいする憤りであることもありうるという。
 そして、彼が悲嘆にくれるのは、彼のプライドが罪を犯したことを赦さないが為にすぎない。彼は自己のうちに閉じこもってしまい、神と交わろうと欲しないのである。

 しかし、この悲嘆の方向は、明らかに、神からの離脱であり、ひそかな自己愛であり高慢である。それはまず、あのように長いあいだ自分を助けて誘惑に抵抗させてくれたことを謙虚に神に感謝し、そのように誘惑に抵抗できたということがすでに自分の力をはるかに越えたことであったことを神と自分自身の前で告白し、このように、自分のかつてありし姿を思い起こして謙虚になるべきことを忘れたものである。(p.209)

 このようにキルケゴールは、この「自己の罪について絶望」することは、一見すると「謙虚」な態度のようだが、その実、「自己愛的で高慢」なものにすぎないと述べている。
 私は思うのだが、この種の絶望に陥る人の「全注意」は、神に対してではなく、自分に対してのみ向けられているように思われる。
 たしかに彼は、ペラギウス的な努力を通して義人になろうとしてきた。しかし、心を閉ざした義人たるよりも、あわれみ深い人であることの方がが重要だと思うのである。

B 罪の赦しにたいして絶望する罪〔つまずき〕(p.211~p.231)

 「つまずきの可能性」とは、「神と人間とのあいだに無限の質の差異があること」を指している。
 そしてこの「無限の質の差異」に人が面した時、人はつまずいて絶望するのである。

すなわちそれは、つまずいて信じるだけの勇気のない弱さの絶望か、つまずいて信じようとは欲しない反抗の絶望かのいずれかである。(p.211)

 そしてキルケゴールは、キリスト教界も「罪の赦しにたいして絶望」している状態だと述べている。というのも、彼らは神と人間とのあいだの「質的差異」をあいまいなものにしてしまったからである。

人間がまず、集まって、アリストテレスが動物の定めと呼んでいるもの、すなわち、群衆、になる許可を得、ついで、この抽象物が〔これは無よりも以下のものであり、このうえなくくだらぬ有象無象よりも以下のものであるはずなのに〕なにかひとかどのものとみなされることになると、やがて、この抽象物は神となるにいたるのである。(p.220)

 「群衆」という抽象物は、神と人間とのあいだにある「質的差異」をあいまいにしてしまう。あいまいになった結果、この抽象物が神となるにいたるのである。
 それ故、キルケゴールは、ひとりひとりの人間が「単独者」としての自覚を持って、神の前に立たなければならないと説く。

 罪は単独者の規定である。人はみずからこの単独な罪人であるのに、単独な罪人であるということがなんでもないことであるかのようにふるまうのは、軽薄なことであり、新しい罪である。ここにキリスト教が分け入ってきて、思弁の前で十字を切る。(p.224)

 そして、めいめいの人間が罪人であるとする罪の教説は、神と人間とのあいだの「質的差異」を明確にするのである。

人間が、すなわちめいめいの人間が罪人であり、それも「神の前で」罪人であるという点においてほど、人間が神から区別されている点はない。(p.226)

C キリスト教を肯定式的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪(p.231~p.244)

 まず、「キリスト教を肯定式的に廃棄する」とはどういうことか。桝田氏の注解には次のように解説されている。

(58)論理学上の用語modo ponendoが用いられている。これは構成式あるいは肯定式と名付けられる仮言三段論法、すなわち、「AなればBである」、「Aである」、「ゆえにBである」という形式をとるもので、ここでは、大前提(「キリスト教が虚偽であるならば、キリストも虚偽である」)を省略し、キリスト教は虚偽である」という小前提をかかげて大前提の前件を肯定し、結論においてその後件をも肯定して「キリストは虚偽である」と推論しているわけである。(p.254)

 つまりキリスト教は虚偽である、それ故キリストも虚偽である」という推論を指す。これにたいしてキルケゴールは次のように述べている。

 これは聖霊に反する罪である(マルコ3:29)。自己はここで最も絶望的にその度を強められている。(p.231)

 キルケ氏は、この「キリスト教を虚偽であるとして廃棄する罪」において、人間は、神から遠ざかると同時に、別の意味で神に近づき、決定的に自己自身となるのだ、と述べている。そしてこれは、「つまずき」の積極的な形態だという。

 神と人間とのあいだに無限の質の差異があるということ、これが取り去ることのできないつまずきの可能性である。(p.237)

 キリスト教の神は、地上に降りてきた。神の方から人間に近づいてきたのだが、「神と人間とのあいだに無限の質の差異があるということ」には変わらない。何度も申してきたが、この差異が「つまずきの可能性」のである。
 この差異を前にして、つまずき、神と交わろうと欲しないか、差異を前にして、つまずき、差異を無きものにしようと欲するのである。

わたしにつまずかない者はさいわいである、というこのことばは、最後の晩餐の正餐制定のことばと同じようにではないけれども、だれでもまず自分を吟味せよ、ということばと同じように、キリストの告知のうちにともに含まれているのである。それはキリスト自身のことばであって、ことにキリスト教界においては、幾度でも教えてしっかりと心に刻み込み、とりわけ、ひとりひとりに繰り返し繰り返し言い聞かされなければならない。(p.238)


 「死にいたる病」のまとめは以上です。
 今回は、うまくまとめられなかったと思います。
 それでも、最後までお読みいただきありがとうございました。