ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「現代の批判」キルケゴール著

 今回は、前回に引き続き、中公クラシックス版の『死にいたる病/現代の批判』を取り上げ、その『現代の批判』の部分、つまり257ページから345ページにわたる部分を読み進めていこうと思います。

 ※今回も、本文および引用部分における“強調”部分は、ブログ主によるものです。


『死にいたる病/現代の批判』キルケゴール著 桝田啓三郎訳 中公クラシックスW31 2003年6月10日初版

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

小説『二つの時代』の評論として

 この『現代の批判』という書は、もともとは『二つの時代』という小説についての評論という形で世に出たものらしい。そして、のちにその一部がドイツ語に翻訳され、その時に『現代の批判』という書名が付けられたものだという。
 今回も参考文献とした工藤綏夫(やすお)氏の著書では、この小説『二つの時代』について、次のように解説されている。

批判の対象となった小説は、第一部がフランス革命の時代を舞台として展開される「革命時代」であり、第二部は一八四〇年代を舞台にして展開されるその続編で、「現代」と題されている。そこでキルケゴールは、革命時代と対比して現代の病弊を理念的に批判するために、この批評論文を書いたのである。
人と思想19 『キルケゴール』工藤綏夫(やすお)著 清水書院(p.160)

 では、この『現代の批判』と名付けられた評論によって、キルケゴールは現代の何を批判しようというのであろうか。

現代は「分別」の時代、「反省」の時代、そして「情熱のない」時代である

 冒頭部分で、キルケゴールは次のように述べている。

 現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激に沸き立っても、やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまう時代である。(p.259)

 どうやら、キルケゴールは、民衆みなが「分別」くさくなり、「批評家」の位置にとどまってしまった現代を批判したいようである。
 そして、この「分別」および「反省」というのが、本書におけるキーワードである。
 「反省」については、キルケ氏は次のように述べている。

 反省は悪ではない。しかし、反省状態にいつまでもいつづけたり、反省のなかですっかり立ちどまってしまったりするのが、困ったことであり、危険なことなのである。(p.315)

 このように、キルケゴールは「反省」そのものを「悪」と考えているわけではない。
 どうやら問題は、反省そのものではなく、「反省のうちにとどまり続ける」現代人の姿勢の方にあるようである。
 そして、「宗教的」なキルケ氏のことだから、もちろんこの「反省」にも「宗教」というものが、当たり前のように絡んでくるのである。

 反省は人をとらえる罠である、しかし、宗教性の感激による飛躍がおこなわれると関係は一変し、この飛躍によって反省は人を永遠者の腕のなかへ投げ入れる罠となる。(p.301)

 上の引用部分で、キルケゴールが言いたいのは、おそらく、「反省」というものは、「信仰の情熱」と絡み合うことによって、はじめて意義をもつ、ということだと思う。
 つまり、反省だけでは、人は「批評家」の位置に「とどまる」だけであるが、「宗教性の感激による飛躍(おそらく「神への回心」といったもの)」が行われると、反省は、個人の「主体性」を育成するようになり、彼と神とを「近づける」ように作用する、ということをキルケ氏は言いたいのだろう(たぶん)。
 参考文献の工藤綏夫氏は、キリスト教の信仰とは無縁の人のようである。だから彼は、神信心とは距離をとっており、キルケ氏の言う「信仰の情熱」については、次のように解釈し直している。

わたくしどもはこれを、「傍観者にとどまらないで、主体的な行為の当事者となることを決断すること」、といいなおしてもよいであろう。
人と思想19 『キルケゴール』工藤綏夫(やすお)著 清水書院(p.166)

 これだと、その人が何処へ向かって飛躍するのかの視点が欠けており、物足りない気もするが、なんとなく分かりやすいとは思うので、参考までに。
 また、「情熱」という言葉も、本書における重要なキーワードである。では、「情熱」とは何を指すのだろうか。
 それはおそらく、この「何ものか」に向かって飛躍しようとする強い「意志」のことなのではなかろうか。

現代は「水平化」の時代である

情熱的な時代が励ましたり引き上げたり突き落としたり、高めたり低めたりするのに反し、情熱のない反省的な時代はそれと逆のことをする。それは首を絞めたり足をひっぱったりする、それは水平化する。水平化は、なにごとによらず人目につくことを忌避する、ひそかな、数学的な、抽象的ないとなみである。(p.290)

 この「水平化」というのも、本書を読み解く上で重要になってくるキーワードのひとつである。
 では、「水平化」とはどういったものなのか。工藤綏夫氏は次のように述べている。

水平化の運動は、優秀な者を引きずりおろして人間を平均化し、人間をただ数量的に評価されるだけのものに低俗化してしまう。こうして「個人性」のもつ質的な意義をぬきとられてしまって、人間の量的な集合を意味するにすぎない「社会性」の観念が流行し、ひとびとは、内容の空虚なこの流行概念にとびついて熱狂する。しかし、ひとりひとりが人格的な個人として人格的に交わるという、肝心なことが無視されてしまう。
人と思想19 『キルケゴール』工藤綏夫(やすお)著 清水書院(p.163-164)

 この「水平化」の作用によって、個人個人はフラットに「平均化」され、民衆は「批評家」として結合し、社会には「数的な平等」がもたらされるのである
 そして、ここでキルケゴールは力強く主張するのである。それ故に、今の「水平化」の時代は、個人個人が、「主体的」に自分自身を助けなければならないのだ、と。

個人個人は抽象的な無限性のめまいのなかで滅んでしまうか、それとも、ほんとうの宗教性のなかで無限に救われるか、そのどちらかしかない。(p.336)

 水平化の時代に生きる私たちは、水平化の作用に押し流されて個人の「主体性」を失ってしまうか、それとも、神の前に立つ「単独者」たることによって個人の「主体性」を取り戻すか、そのどちらかしかないというのである。
 また、キルケゴールは言う。「単独者」たるためには、人は他人を操作することはできないのだ、と。

彼らはみずから飛躍をしなければならないのだ。神の無限の愛にたいする彼らの関係を、間接的なものにしてはならないのだ。(p.338)

 人は誰も他人を強制的に飛躍させることはできない。私たち個人個人が「主体的」な当事者として飛躍を果たさなければならないのである。

「受難による奉仕」によって、人は「実存」を果たすことができる

 そして、キルケ氏は力説する。宗教的な青年にとっては、「水平化の時代に生きるということは真に修養になることだろう(p.298)」、と。

その人は水平化の意義を悟っているからである。英雄や傑物になるのではない、その人はただ、完全な平等という意味においてひとりの人間らしい人間になるばかりである。これこそ宗教性の理念である。(p.299-300)

 水平化の時代を生きる宗教的な青年は、「英雄」になることを目指すのではない。そうではなく彼は、水平化の作用によって「目立たない者」となり、かつ水平化の作用を利用して「人間らしい人間」となり、その「受難による奉仕」によって水平化に打ち勝つことを目指す、というのである。

彼はこの水平化を真正面から打ち負かすわけにはゆかない。そんなことをすれば、お払い箱になるだけのことであろう。それでは権威を目ざして行動することになるからである。そうではなく、目立たない者は受難によって水平化に打ち勝つのであろう。そしてそれによってまた、彼の実存の法則をも表現することとなるであろう。すなわち、その法則は支配するのでも、操縦するのでも、指導するのでもなく、受難によって奉仕することである。間接的に助力することなのだ。(p.339)

 上記の引用の「その法則は支配するのでも、操縦するのでも、指導するのでもなく、受難によって奉仕することである。」という記述。この記述で思い起こされるのは、聖書の次のような言葉である。

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人の僕になりなさい
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。
マタイによる福音 10:42-10:45

 このように、「人の子は仕えられるためではなく仕えるため」に来たのである。人の子は「受難による奉仕」をするために地上に来たのである。
 これまでの指導者たちは、支配したり、操縦したり、指導したりすることによって、つまり自分に「仕えさせること」によって、その民を導こうとしてきた
 そしてこのことは、今の「水平化」の時代にあっても変わっていないように思われる。
 それというのも、マスメディアに代表されるような「公衆」は、「社会性」という抽象的な観念を確立し、それに個々人を「仕えさせること」によって、個々の人々を一つに結合させようとしているように思われるからである。
 こうしたやわらかな強制による「結合」の姿勢について、キルケゴールは次のように述べている。

ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしてもびくともしない倫理的な態度を自分自身のなかに獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言えるのであって、そうでなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう。(p.333)

 おそらく、真の一致には、「主体性の放棄」ではなく、「主体性の育成および成熟」こそが必要なのだ、ということをキルケゴールは言いたいのだろう。
 そしてキルケゴールは、「主体性」育成の手段として、「受難による奉仕」を掲げているのである。
 「奉仕」とは「仕えること」であり、一見、仕えることは「受動的」なことのように感じられるものである。それは、個人の「主体性」を放棄することのように感じられるのである。
 しかしながら、キルケゴールは、「仕えること」によってこそ、「主体性」を取り戻すことができる、というのである
 私たちは、人々を支配している指導者や傑物にこそ「主体性がある」と解釈しがちだが、実のところ、人々を支配している限り、彼らは「単独者」たりえないのである。
 というのも、彼らは、「英知」と呼ばれる知性を「所有」している、「知性の立場」に立つ者と定義できるからである。
 けれども、「単独者」たるためには「英知」は必要ない。必要なのは、ただ「意志の立場」に立つことなのである。
 前回の記事でも述べたが、この「知性の立場」と「意志の立場」という視点は大切だと思う。
 そして、ここにきて、私が思い起こしたのは、昔にまとめた教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅『信仰と理性』の内容である。
uselessasusual.hatenablog.com

 そこには次のようなことが書かれていた。

信仰と理性は、人間の霊魂が真理の観想へと飛翔していく両翼のようなものです。
ヨハネ・パウロ二世回勅『信仰と理性』(p.3)

 「知性の立場(理性)」と「意志の立場(信仰)」は、私たちを真理へと導く「両翼」のようなものだと言えるのである。それ故に、どちらか一方のみに偏ってしまってはいけないのである。

 以上のことから、やはりキルケゴールは、この『現代の批判』という書を通して、分別や反省などといったような「知性の立場」および「理性」の方に偏ってしまった現代を批判したかったのではなかろうか。


 今回も、大変ながながとした記事になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。


信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅

信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅