ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

『「甘え」の構造 (増補普及版)』土居健郎著

 「鬱は甘え」という言葉をよく耳にする。そして、このように言われるとき、「甘え」というものは、《良くないもの》《必要ないもの》、そして《否定すべきもの》と捉えられているようである。
 しかしながら、本書『「甘え」の構造』は、「甘え」をこのような「タブー」として考察していない。


『「甘え」の構造 (増補普及版)』土居健郎著 弘文堂 平成19年5月25日増補普及版第一刷発行

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]


 本書において、「甘え」というものは、《大切なもの》《向き合うもの》、そして《肯定すべきもの》として捉えられている。

もちろん、甘えの心性が幼児的であるということは、必ずしもそれが無価値であることを意味しはしない。無価値であるどころか、それが多くの文化的価値の原動力として働いてきたことは、現に日本の歴史の証明するところである。(p.131)

 そして、本書は続けて言うのである。「甘え」は肯定すべき感情であるが、日本人が「個人を確立」するためには、この「甘え」を《超克》せなばならない、と。

しかし今後われわれは日本精神の純粋さを誇ってばかりはいられないであろう。われわれはむしろこれから甘えを超克することにこそその目標をおかねばならぬのではなかろうか。(略)
他者の発見によって甘えを超克せねばならないと考えられるのである。(p.131)


 本書によれば、「甘え」の原型は、乳児と母親との《密着》にあるそうな。

この意味での甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することができるのである。(p.118)

 「甘えの世界」は、このような《密着》であり、自己と他人の「融合」の世界なのである。
 そして、母子の《密着》がなければ、子は成長することもできないのだという。

むしろ甘えなくしてはそもそも母子関係の成立が不可能であり、母子関係の成立なくしては幼児は成長することもできないであろう。(p.119)

 しかし、「甘えの世界」に浸ってばかりもいられない。なぜなら、この世界は「自己」と「他人」とが《分離》していない世界、つまり「他者性」が消失した世界だからである。
 また本書は、日本の家庭において、この「甘えの世界」が崩壊しつつあることを指摘している。

本来なら家庭こそ「甘え」の育つ場所であったはずだ。しかしその家庭が今や不安定となり、こわれやすく、多くの悲劇の現場となっている。(p.6)


 この「甘えの世界」の崩壊には、日本の「社会構造の変化」が関係しているのだという。

特に日本では明治以後、社会の中の人間関係が従来の伝統的人間関係と次第にちがった性質を帯びるに至っているという点が問題である。これをテニエスの術語を借りて、ゲマインシャフト的な人間からゲゼルシャフト的なそれへの変化であるといってよいかもしれない。(p.175)

 ここで出てきた「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」とはいったにナニモノか。
 簡単にいえば、ゲマインシャフトは、家庭のような「共同体集団」のことを指しており、そこにあるのは「無条件の承認」である。
 一方で、ゲゼルシャフトは、会社のような「機能体集団」のことを指しており、そこにあるのは「有条件の承認」である。
 そして、今日の社会は、家庭でさえ「ゲゼルシャフト化」しつつあり、条件を満たさなければ承認してもらえない状況になってきているようである。つまりは、家庭においても優れた子でなければ承認されなくなってきている、ということだろう。


 本書は、日本の「精神的現状」を次のように分析している。

私はまたその論文の終りの方で日本の戦後の精神状況を取りあげ、敗戦によって天皇制と家族制度の思想的しめつけが撤去されたことが直接には個人の確立には導かず、むしろ甘えの氾濫を来たして精神的社会的混乱の原因となっていると論じたのである。(p.31)

 敗戦によって、戦前の日本に残っていた「甘えの世界」は排除されたのはずなのに、「個人の確立」は果たせず、逆に「甘えの氾濫」を来たしてしまっている、という。それは何故か

 「自立」を果たした欧米の世界は、「神は自ら助くる者を助く」の精神に基づいているのだという。
 この諺は、「自立自衛」以外に頼むべきものがないということを説くものであり、欧米流の「自立」とは、「自己」と「他人」の《分離》のことを指すのであろう。そして、これが欧米流の「自由」でもあるようである。
 こうした感覚は、「自己」と「他人」との《密着》を目的とする、日本の「義理人情」の世界とは全く異なるものである。

明治以前から日本人の道徳観を形造ってきた義理人情が実は甘えの心理を中核にしたもの(p.34)


 日本における「自由」は、「他人」とうまく《密着》できたときに感じるものである。逆に言えば、うまく《密着》できなかったときに「不自由」を感じるのである。

彼らはひとから好意を受けると、恐縮する。外見はそう見えない場合でも、心の中では恐縮している。このことは相手との関係がよい限り問題はないが、いったん関係にひびが入ると、途端にそれが堪えられない負担と変わる。彼はこのままでは自分の自由が侵害されていると感じ、何等かの方法で負債を返さずにはおれなくなる。(略)
いいかえれば日本人にとって個人の自由とは毀れ物注意の扱いを受けねばならない代物となるのである。(p.139-140)

 このように、日本人の「自由」は、「甘えの世界」における自由を指しているのである。
 「義理人情」の日本では、相手とうまく《密着》できたときに最も「自由」を感じ、「自立」の欧米では、相手とうまく《分離》できたときに最も「自由」を感じるのである。
 ...と、ここまで、日本と欧米の違いを大ざっぱに述べてきたが、現実はそこまで単純視できるものでないらしい。その辺のことは本書に丁寧に説明されているので、是非お読みいただきたい。

 また次のような記述もある。

実際日本人にとって自由は死の中にしか存しなかったし、したがってまたしばしば死を讃美し死に誘われるということも起こり得たのである。これはもちろん日本人が甘えの心理に生きていたためであるが、しかし近代の西洋人が甘えを否定しあるいは迂回してみたところで、それだけで甘えが乗り越えられるものではなく、ましていわんや死の誘惑が克服されたわけでもなかった。(p.148)

 この「自由は死の中にしか存しなかった」という心情は、とてもよく分かる(シミジミ)。ブログ主も人間関係に疲れたとき、どうしようもなく死にたくなるからである。「甘き死」の世界にあこがれてしまうのである(とおい目)。
 また、「近代の西洋人が甘えを否定しあるいは迂回してみたところで、それだけで甘えが乗り越えられるものではなく」という記述もあるが、「甘え」の《超克》は、「甘え」を否定することや、「甘えの世界」を排除することによって可能になるのではなく、「甘え」を肯定し、「甘え」と向き合うことによって初めて可能になるのではないか、というのが本書の主張である。

 
 最後に、著者の全共闘」の運動に関する感想を取り上げて終わりにしよう。

 ところでニュー・レフトの主張は、それだけを見ればまことに人間的であり、ほとんどキリスト教的な匂いさえするような気がする。事実、彼らの中には真面目なクリスチャンが含まれているということだし、これは日本だけでなく、ニュー・レフトの活動が盛んな諸外国にも見られる傾向のようである。(p.263)

 しかしながら、彼らに問題がないわけではない。そして著者は、この「全共闘」の運動が「甘え」につながっていることを指摘している。

連帯があまりに強調されるため、個の独立した価値が見失われる恐れがあるからである。すなわち個は連帯によって初めて価値のあるものとなるので、個は自らの救いのためにも連帯を求めざるを得なくなる。(p.264)

 どうやら、全共闘における「連帯」には《密着》の空気が多く残っていたようである。

 続けて著者は述べている。

 以上のべたことを総括していま一度ニュー・レフトの精神と「よきサマリア人」の喩えの意味を比較してみよう。ニュー・レフトの活動家たちは自分たちにも、喩え話の中の祭司やレビ人のごとく、被害者を見て見ぬふりをしたい気持が潜んでいることを認める。彼らはこのことは加害者に加担するのと同じことであり、また自己の特権的存在に安住することであると分析する。(p.266)

 ここまではいい。問題はその次だ、と著者はいう。

彼らは素早く否定の論理によって自己の特権を否定するのであるが、ではそうすることによってよきサマリア人のごとく被害者を実際に助けるための手を打つかというと、そうではない。彼らは却って被害者と同一化してしまうのである。
(略)
かくして彼らは自らも被害者となって、被害者を見過す人々を詛ったり、あるいはもっと積極的に加害者を攻撃するようになる。(p.266)

 被害者との「連帯」とは、こういうことなのかと大いに疑問に思う。
 こうした人たちは、「連帯」を口実にして周囲に「甘え」ているにすぎないようだ。こうした「甘え」は歪な甘えであり、よくない甘えというか、ネグレクトな甘えであると感じる。

 このように、「甘え」というものは、《抑圧》したり、《否定》したりしていると、やがて別の形をもって暴れ回るもののように思われる
 そうならないためにも、インナーチャイルドという言葉があるように、《自己の内なる幼児》と向き合っていくことが必要なのだなぁ、と読んでいて感じました! おしまい


 ちなみに「よきサマリア人」の話は、新約聖書のルカによる福音(10:25-35)で語られています。



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