ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「トマス・アクィナス 理性と神秘」山本芳久著

 「神学」の新書である。トマス神学の「入門書」としての位置づけである。
 だが、その内容は相当に「濃ゆい」。
 著者の山本氏は《序》で次のように述べている。

偉大な思想家の思索の全貌を薄く広く要約的に紹介するだけの「入門書」は、結局、何に対しても読者を入門させてくれない

 ...正直、ブログ主は「薄く広く要約的」なのを期待していた。ゴクゴク飲み干せる、うっす~いカルピスのような本を期待していたのである。
 だから、想定外に濃ゆかった本書は、カルピスが「原液」で出てきたように感じられた。

 本書をちゃんと飲み込むことができなかったので、今回の記事は、「気になったところ」を「雑に」ピックアップしたものとなっております。


トマス・アクィナス 理性と神秘」山本芳久著 岩波新書1691 2017年12月20日第一刷発行

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

理性と神秘(便秘じゃないよ)

 キリスト教の教えは、キリストによって与えられた「答え」を伝達していくものではないという。 

キリスト教の思想史とは、単にイエス・キリストによって与えられた「答え」を歪めることなくありもままにそのまま受け継いでいくようなものではありえなかった。キリストによって与えられたのは、「答え」というよりは、むしろ、「神秘」だったからである。(p.229)

 そして、このキリストの「神秘」は、人間を「理性」を廃した《盲信》へ導くものではなく、人間の「理性」と両立するものだという。両立するどころか、互いに「活かしあうもの」だというのである。

「理性」と「神秘」は相対立するものではない。「神秘」に触れることによって「理性」がそれまでにはない仕方で開花し、「理性」に開示されることによって「神秘」が単なる不合理ではなく独自の論理と構造を有するものであることが明らかになっていく、という積極的な相互関係が実現している。(p.47)


 トマスの信仰論の特徴は、「理性」を軸にしている点にあるという。この「理性」を軸に据えた「信仰」は、一般に「信仰」と聞いて思い浮かべる《盲信》とは異なるものだという。

信仰するといっても、抽象的な教義の集合体を「信じ込む」のではない。理性的な考察を排除して、信仰箇条を盲目的に受け入れるのではない。実際に起こることは正反対だ。自らの救済に関わる最も重大な事柄だからこそ、盲目的に受け入れるというような態度で解決したつもりになることはできない。(p.255)

 つまるところ、キリスト教というものは、人生において生じた疑問に対して、分かりやすい「答え」を与えるような宗教でないということであろうか。

キリスト教の教えが、単純な仕方で「答え」を与えるのではなく、むしろ「問い」を与え、そのことが人間を理性的存在としてより深く広く完成させていくというのは、トマス哲学・トマス神学の最も基本的な構造だ。(p.228)

 「答え」ではなく逆に「問い」を与えるから、人間は「理性」的なままでいられる、ということだろうか。
 だが、実際に、こちらの「問い」に対して「問い」で返されたら、吉良吉影ジョジョの奇妙な冒険)のように「質問を質問で返すなあーっ!!」とブチ切れてしまいそうだが...。

「自己愛」について

トマスはかなり意外なことを述べている。それは、自己愛の隣人愛に対する優位というトマスの基本的な見解だ。(p.184)

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」というイエスの有名な言葉があるが、他人を愛するためには、まず自分を愛さなければならない、と言うことであろう。

自分が自分であることを自然に受け入れ、自己自身を愛している人もいれば、自分が自分であることを受け入れることができずに、自己嫌悪を抱きながら日々を送り続けている人もいる。そして、確固とした自己愛--自己自身との「一であること・一性」--を有している人同士であれば、安定した密接な関係--「一致」--を形成しやすいが、不安定な自己を有している人同士では、その相互関係も不安定なものとなりがちであろう。だからトマスは、「一であることが一致の根源であるように、人がそれでもって自己自身を愛するところの愛が友愛の形相であり根拠である」と述べているのである。(p.187)


 だが、「愛する」ためには、まず「神」を信じることが肝要なのだという。

トマスによると、愛徳の運動の根源は「自己」ではなく「神」だからである。(p.188)

 つまり、自分以上に自分を愛してくれ、かつ他人を愛している、「神」という存在を「信仰」していればこそ、愛を分かち合うことができる、というのである。

 もちろん、この信仰は《盲信》であっては駄目なのであり、「理性」が要となってくるのである。

「理性」と「神秘」のこうした調和の果てに見出されるのは、人間存在の全面的肯定という極めて積極的なヴィジョンである。神の愛によって徹底的に肯定された人間が、自己自身を肯定し、同胞である他者をも愛のうちに肯定していく。(p.48)

 おしまい!