「ユダヤ教の人間観 旧約聖書を読む」エーリッヒ・フロム著 その2
今回のテーマは「偶像崇拝」。「偶像」ってナニ??っていうお話なの♪
この本での「偶像崇拝」に対するフロムの見識は、とっっっても分かりやすくて、ついでに新鮮ピチピチな感じがするの♪♪
- 作者: エーリッヒフロム,Erich Fromm,飯坂良明
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1996/06
- メディア: 単行本
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「偶像崇拝」について。
偶像崇拝とは何か。偶像とは何であるか。聖書は何故それほどまでに偶像崇拝を徹底的に払拭しようとするのか。神と偶像の相違は何であるか。
「第二章 神について」(p.56)
「神崇拝」と「偶像崇拝」との違い。
それは、「神崇拝」が《ただ一つの神様》を拝んでいて、「偶像崇拝」が《多くの神様》を拝んでいる、というところにあるのではない。
ただ一つの神を拝んでいても、それが「偶像崇拝」すぎないことは大いにありえるのだ。
では、「偶像」とは何なのか。
フロムは、「偶像」の何たるかを理解するためには、「神は何ではないか」を理解することから始めなければならない、と言う。
「神」は何では「ない」か。
フロムは言う。
神は、人間、国家、制度、自然、権力、所有、性的能力、あるいは人間によってつくられたいかなるものでもない。
「第二章 神について」(p.57)
このように、「神崇拝」とは、何よりもまず上記の「人間、国家、制度...云々」を崇拝し「ない」ことを意味している。
逆に、「偶像崇拝」とは、これらの「人間、国家、制度...云々」を崇拝していることを意味する。
...がしかし、こうした「神崇拝」の論理は、一歩間違えると原理主義のように「この世的なもの」を破壊するような姿勢に陥るおそれもある。
この点に気をつけなければいけないのだ。
本書でフロムが述べていることは、「この世的なるものに対する反抗」といったような、単純な「不従順」ではないのだと思う。
フロムの言う「神崇拝」とは、この世的なるものに「固執」しないということ、または「依存」しないということであって、この世的なるものを「無視する」、もしくは「破壊する」というようなこととは異なると思うのだ。
逆に言えば、単純な「不従順」は、この世的なるものに対する「固執」の「別のかたち」であるもと言える。
「固執」が「偶像崇拝」と結びつく。
偶像は、母なる大地へ帰りたいという欲求や、所有、権力、名声等々に対する熱望といった人間の中心的な熱情の対象となるものである。偶像にあらわされるような熱情は、同時にまた、人間の価値体系の中の最高の価値をあらわす。
「第二章 神について」(p.57)
母などの「情緒的なるもの」に対する、または所有や名声などの「この世的なもの」対する「固執」、これが「偶像崇拝」と結びつく。
であるから、「偶像崇拝」とは、この世的なるものへの「依存心」と呼べるのかもしれない。
では何故、人はこの世的なるものに「固執」するようになるのだろうか。
それには、「x経験」の喪失、「《慈悲》の経験」の喪失が関わっているようである。
「《慈悲》の経験」の乏しかった者は、「固執」や「依存」というかたちに陥りやすいのだ。
偶像が人間のもつ能力の疎外されたかたちであり、この能力に接する方法が、偶像への隷属的執着にあるとすれば、偶像崇拝は必然的に自由や独立と矛盾せざるをえない。くりかえし予言者たちは、偶像崇拝は自己けん責、自己卑下であるといい、神礼拝は自己解放、そしてまた他者からの解放であることを強調した。
「第二章 神について」(p.61)
「《慈悲》の経験」の乏しかった者は、『自由からの逃走』を果たし、「偶像崇拝者」になりやすい。
彼は「自分以外のもの」に固執し、固執するものと同一化することによって、自己の同一性を保とうとし、同時に自己を貧困化するのだ。
「従順」と「固執」の違い。
「従順」は自覚的な行為である。彼は、権威に意識的に服従する。
一方で、「固執」は無自覚的である。彼は、あるものに「情緒的に」結びつき、そして「依存」する。
「従順」な人間は、権威に背いたときに罰をおそれる。
一方で、「固執」的な人間は、「情緒的な絆」が断ち切られると、「自己が失われる」という恐れを抱くのである。
そして、「従順」は人を「独立」へと導くが、「固執」は人を「情緒的な絆」につなぎ止めたままにするのだ。
「独立」とは、「情緒的な絆」を断ち切り、自己だけを頼りとして生きていくことである。
そして、「独立」というものは、もっとも難しいものである。そしてそれは、前述のような単純な「不従順」によって達成できるものではない。
独立というものは、単に、母親や父親や国家やその他のものに服従しないからといってえられるものではない。独立は不従順ないし反抗と同じではない。独立は、人間が能動的に世界を把握し、それに自らを関連づけ、かくしてそれと合一するときにのみ、あるいは、そうする程度に応じて、達成されるのである。
「第三章 人間観」(p.103)
つまり、「独立」というものは、「母親や父親や国家」などに代表される「この世的なもの」、その「この世的なもの」を超えた目標である《慈悲》に向かうときにこそ可能となるのであろう。
思うに、日本の反権力は、かつて「父性」が暴走したので、「母性」に帰ろうとしているように思われる。
また、「キズナ」とか言って、「情緒的な絆」によって束縛しようとしているようにも思われる。
しかし、わたしは、そんなのゴメンなのである。
フロムの言うように、この世的なるものへの「固執」によってでも、この世的なるものへの「反抗」によってでもなく、それらを超越した《慈悲》に向かうことによって、わたしはわたし自身でありたいのである。