ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「ユダヤ教の人間観 旧約聖書を読む」エーリッヒ・フロム著 その3

 今回は、フロムの「ユダヤ教の人間観」の読後感のオマケ。
 気になった部分を抜き書きしてみるのだ♪♪
 「近親相姦的な束縛」という気になるワードも出てくるゾッッッ。

ユダヤ教の人間観―旧約聖書を読む (河出・現代の名著)

ユダヤ教の人間観―旧約聖書を読む (河出・現代の名著)

ユダヤ教の人間観 旧約聖書を読む」エーリッヒ・フロム著 河出書房新社刊 改訂版新装1996年6月25日初版

旧約聖書における「神の観念」

 旧約聖書の神」は、そのはじめ、気に入らない存在を破壊するという「勝手きわまる支配者」として描かれていた。

 がしかし、途中で「旧約聖書の神」の《性質》は変わるのである。

 ノアの洪水のとき、「旧約聖書の神」は人間とある《契約》を交わす。
 「もはや滅ぼし尽くすようなことはしない」という《契約》を交わすのである。

まさに契約の観念こそ、ユダヤ教の宗教的発展におけるもっとも決定的な段階の一をなすのである。それは、完全な人間の自由、神からさえも自由であるといった思想に道を拓く一段階であった。
 契約の締結とともに、神は絶対的支配者であることを止める。神と人間は契約の当事者となった。神は、「専制」君主から「立憲」君主に変る。
「第二章 神について」(p.32-33)

 このように、「旧約聖書の神」は「勝手きわまる支配者」であることを止めるのである。


 そのちょうどいい一例がアブラハムの話

 「旧約聖書の神」が、ソドムとゴモラをその邪悪さから滅ぼそうとしたとき、アブラハムは「ちょいと待っておくんなまし」と言って、神と《交渉》するのである。

彼の態度は屈従的な嘆願者のそれではなくて、神に対して正義の原則を維持することを要求する権利をもった誇り高き人間の態度である。
「第二章 神について」(p.36-37)

 このように旧約聖書の中で神という存在は、人間を考慮しない「モノローグな神」から、人間と対話する「ダイアローグな神」へとその《性質》を変化させていくのであった。


権威主義的」良心と「人道主義的」良心

 良心には、権威主義的」良心人道主義的」良心の二種がある、とフロムは言う。
 そして、それを区別することは重要であると述べている。

権威主義的良心フロイトのいう超自我)とは、両親とか国家とか宗教とかいった権威が内面化されて、そこから発せられる声である。
(略)
けれども、権威が悪いことを命じたばあいにはこの良心は危険なものとなる。
(略)
いかなる犯罪といえども、義務とか良心の名において犯されなかったものはかつてなかったといっていい。
「第二章 神について」(p.72)

 権威主義的」な良心というものは、もとは自分の外にあった権威の声が内面化されたものである。

人道主義的」(自律的)良心は、「権威主義的」(他律的)良心とは全然違っている。(略)
それは、生と成長の要求を表現するわれわれの全人格的な声である。(略)
そもそも自律的な良心の持主は、内面化している権威の声に無理矢理に従わせられるような仕方で正しい行いをするのではなく、正しいことを行うことに喜びを感ずるからそれを行うのである。
「第二章 神について」(p.73)

 こちらの人道主義的」な良心の方は、もとから自分の内面にある《慈悲》の声に従って行動すると言うことであろう。
 
 そしてフロムは、現実には、これら二つのタイプの「良心」が入り交じっているものだ、とおっしゃる。


 そして、この人道主義的」な良心というものは、「近親相姦的靱帯」を断ち切って、「独立と自由に到達」したときに活性化するものではなかろうか。


フロムがいう「近親相姦的」とは

 この「近親相姦的」という用語を、「エロエロなものかっ」と思ってハナイキ荒く喰らい付いてくださった変態系の貴兄には申し訳ないのだが、事実は違う。
 フロムは次のように述べている。

「近親相姦的」ということばで私は必ずしも性的な束縛を意味しているのではなく、主として母親や自然に対する情緒的束縛をいうのである。
「第三章 人間観」(p.94)

 どうやらエディプスコンプレックスと同義のようだ(コーフンして損したネェ...)。

 ...で、ブログ主は、専門家ではないのだが、フロムの言うこの「近親相姦的」なるものは、先日取り上げた土居健郎氏の「甘え」に近い概念だと思う(『「甘え」の構造』)。

 そして、この「甘え」を超克すること、それが「独立と自由に到達」することを意味するのである。

 その要点は、人間が血と地につながれた近親相姦的な束縛をふり切って独立と自由へと到達することにある。自然の奴隷たる人間は、人間性を十分に発達させることによって自由となる。
「第三章 人間観」(p.94)

 これらのことを鑑みると、「信仰」というものは、人間を「近親相姦的靱帯」から解放し、自由に導くもののはずなのである。
 ...そのはずなのだが、その「信仰」は、いともたやすく「イデオロギー」もしくは「価値観」に変わりやすいものでもあり、それによって再び「近親相姦的靱帯」へと舞い戻ってくるようである。


 さいごにひとこと。
 この本は、東京・早稲田の古書店で2500円くらいで買ったものである(定価は3500円)。
 「あのフロムがユダヤ教の本を書いているっ!」と舞い上がってしまい、古本にしては高かったが、清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったものである。

 ながらく「積ん読」のままであったが、今回読んでみて、非常に面白かったので皆様にもおすすめしたい一冊となりました。

 この本は、もう新刊では出回っていないようですが、古本では2000円前後で出回っているみたいです(自分が買ったときより安いというのは地味に悔しいものですネェ...500円損してるヨ感)。