ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「愛するということ 新訳版」エーリッヒ・フロム著

 「愛は技術である」とフロムは言う。

 フロムの言う愛とは、テレビドラマで観るような「情熱的なもの」ではなく、「慈愛」のことを指しているようである。

 そして、「愛する技術」の習得には、自己中心主義(ナルシシズム)からの脱却が必要であり、そのためには、規律・集中・忍耐などの習得が必要なのだという。

 このように、愛というものは、誰でもひたれる簡単なものではなく、意外と難しいもののようである。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

「愛するということ 新訳版」エーリッヒ・フロム著 紀伊国屋書店 1991年3月25日初版



 「愛は技術である」とフロムは言うのである。

 そして、フロムの言う愛は、恋人どうしの「二人だけの世界」に限定されるものではなく、「世界全体」に向けられるものなのである。

 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。
「第二章 愛の理論」(p.76)

 このような記述から察するに、フロムの言う愛とは、「慈愛」もしくは「アガペー」の概念に近いものであろう。まったく同一と言えるのかもしれない。


 また、フロムは次のようにも述べている。

実際のところ、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを併せたようなものなのだ。
「第一章 愛は技術か」(p.13)

 つまり、俗に言う「愛される」というのは、「モテる」ということと同義なのであろう。

 「モテる」人とは、富や名声ある人やルックスがいい人のような、人を引き寄せる「引力」のある人のことである。

 私たちは「モテる」ために、日々研鑽するのであるが、その結果として、「愛する技術」よりも「モテる技術」の方にウェートが置かれるようになり、挙げ句の果てには、「慈愛」の方は忘却の彼方に葬り去られるようになってしまうのである。


 フロムの言う「本来的な愛」とは、葬り去られた「慈愛」に近い概念である。
 「本来的な愛」というものは、「引力」のようなものではなく、まわりを照らす「ともしび」のようなものなのであろう。



 フロムは言うのである。
 現代西洋社会において、「本来的な愛」というものは崩壊しつつあり、さまざまな形の「偽りの愛」によって取って代わられている、と。

 「偽りの愛」とは、「商品化」された愛のかたちであるという。
 またそれは、孤独や不安から逃れるための「共生的愛着」にすぎないという。

私たちは「愛」のなかに、ついに孤独からの避難所を見つけた、というわけだ。人は世界にたいして、二人から成る同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の情だと誤解されている。
「第三章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊」(p.134)

 恋人どうしによく見受けられる「二人だけの世界」は、二人分の自己中心主義(ナルシシズム)と呼べるものであり、それは「未成熟な愛」のかたちにすぎないという。


 こうした「偽りの愛」に比べ、「本来的な愛(慈愛)」は、「成熟した愛」であるという。
 そして、その愛は「能動的」なものであるという。

愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。
「第二章 愛の理論」(p.43)

 愛とは「落ちる」ものではなく、「与える」ものなのだという。

 一般に「与える」とは、何かを「犠牲にすること」と同義であり、ネガティブなイメージが強い。


 が、本当の「与える」とはそんなもんじゃないよ、とフロムは言うのである。
 フロムの言う「与える」とは、「自己表現」を意味しているのである。

では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。
「第二章 愛の理論」(p.46)

 このように、フロムの言う「与える」とは、「自分のなかに息づいているものを与える」という「自己表現」のことを指しており、高いオモチャを買い与えたり、海外旅行に行って思い出を与えたりするようなことではないのである。


 そして、自分を与えるためには、「自分」という存在が確立していなければならない。

愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとかなんでも貯めこもうという欲求をすでに克服し、自分のなかにある人間的な力を信じ、目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。
「第二章 愛の理論」(p.46)

 お互いに依存し合っているような「二人だけの世界」では、自己を確立することは不可能なのである。



 では、一体どうしたら、フロムの言う「本来的な愛」が可能となるのであろうかっ! バン(机を叩く音)


 本書の「第四章 愛の習練」が、その疑問に答える「愛の指南書」となっており、本書の見所、勘所、白眉、真骨頂となっておるのであるっ!!

 これさえ読めば、キミも愛の達人、恋の師範代、ラヴマスターになれるのであるっっ!!


 ......そう思ってラヴマスターを目指すブログ主は、第四章を読み進めたのであるが、そこには「規律・集中・忍耐などの習得が必要ダョ」というようなことが書かれておったのです。

 それを目にするやいなや、そうした資質を欠くだけでなく努力が嫌いなブログ主は、泣きながら撤退、すみかに退却、やる気喪失、気力低下、血圧上昇、暗中模索、疑心暗鬼、死屍累々、焼肉定食、支離滅裂、魑魅魍魎といった具合に相成り、ふて寝を決めこみましたとさ。

 なので、「第四章 愛の習練」について詳しく知りたい方は本書「愛するということ 新訳版」をご購入、ご購読のうえで努力研鑽を積み、めでたくラヴマスターになっていただきたいと存じ上げます。




 最後までお読みくださり、ありがとうございました。