ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「マキァヴェッリ−『君主論』をよむ」鹿子生浩輝著

 マキァヴェッリの一般的なイメージは、悪徳を勧める「冷酷非情な人」というものであろう。

 しかし、本書は、そういったイメージを覆す。

 マキァヴェッリは、ユーモラスで女好きな人物であったという。

 そして、『君主論』も、すべての君主に向けて書かれた論考ではなく、「新君主」限定の論考なのだという。


マキァヴェッリ: 『君主論』をよむ (岩波新書 新赤版 1779)

マキァヴェッリ: 『君主論』をよむ (岩波新書 新赤版 1779)

マキァヴェッリ−『君主論』をよむ」鹿子生浩輝著 岩波新書(新赤版) 2019年5月21日初版




 本書の帯には「何百年ものあいだ誤解されてきた男」とある。
 好奇心を刺激される、いい帯だと思う。


 マキァヴェッリの「一般的」な人物像とは、「恐怖による支配」という「悪徳」を君主に要求する「冷酷非情な人」、というものであろう。

 本書は、そうしたマキァヴェッリのイメージは正しくないと主張するものである。


 確かに、本書を読み進めていくと、マキァヴェッリが、「すべて」の君主に「悪徳」を推奨しているのではない、ということがわかってくる。

 事実、マキァヴェッリは、通常の世襲君主国」(血統で受け継がれてきた君主国)の君主にたいしては「有徳」なる振る舞いを要請している。


 つまり、マキァヴェッリの『君主論』は、「新君主国(よそ者が君主の座についた国)の君主さま向け」という、読者を限定する「ニッチな論考」だったのである。

 そして、マキァヴェッリは、この「新君主国」という「きわめて特殊な政治状況」においては、不安定な状態を沈めるために一時的な「悪徳」は避けがたい、と述べているにすぎない。


 この「新君主国向けの論考」が、「すべての君主国向けの論考」であると「誤解」されたがゆえに、マキァヴェッリの人物像も「誤解」されていくようになったのであろう。

彼(マキァヴェッリのこと:ブログ主注)はその作品で、メディチ家が新君主国という特殊な政治状況に直面しているゆえにその状況で君主が採るべき行為を考察している。にもかかわらず、そこでの助言は、あたかも君主国一般に対するものだと理解された。彼があえて伝統的な議論を覆し、挑発的に論じたことも、その誤解に拍車をかけたのではなかろうか。
「あとがき」(p.249)

 マキァヴェッリの『君主論』は、「統治には残酷さが必要だ」というニヒリスティックな視点から書かれた本ではないのである。

 昨今では、こうしたニヒリスティックな視点が「現実主義」と捉えられているようだが、現実を捉えるには、ニヒルな視点はもちろん、さまざまな視点が必要なのだと思うのである。




 この新書は、二つのパートに分けることができるだろう。

 一つめ(第一章)は、マキァヴェッリの生い立ちを追いかけ、彼の実像に迫っていくパート。

 二つめ(第二章から第六章)は、マキァヴェッリの著書『君主論』(君主国についての書)ならびに『ディスコルシ』(共和国についての書)を読み解いていく解説的なパート。


 本書で、「ウフフ」と頬杖ついて気楽に読めるのは、「生い立ちパート」の方であろう。

 「解説パート」の方は、やはり「勉学」のにおいが強いので、貧相貧弱なブログ主の脳みそは、すぐに「レレレのレ」状態になってしまい、オメメはシャットダウンしてしまうのである。

 だがしかし、この解説パート、マキァヴェッリが生きた時代背景なども描かれているので、本書と『君主論』を一緒に読めば、ふか〜く読み込むことができるだろう。


 今回は、解説パートについては何も語らず(まだ読み終えていないのだ)、生い立ちパートから、マキァヴェッリの「人となり」がわかるところを少しだけ抜粋して終わりにしたい。


 抜粋するのは、マキァヴェッリ「女好き」だったというエピソードである。 

 ただし、マキァヴェッリは、つねに妻に気を取られているような男ではなかった。出張中には妻の代わりとなる女性がいたようである。フランスでは、おそらくジャンヌという女性がいて、孤独を慰めてくれた。さらに彼は、リッチァと呼ばれる娼婦ルクレツィアとは長年の付き合いだった。彼は後に失職すると、田舎の山荘に引きこもるが、そこから遠くはない場所に住んでいる女性と深い関係になった。その頃、友人ヴェットーリも恋に落ち、どうすべきか悩んでいたが、マキァヴェッリは、がむしゃらに突き進むことをこの友人に勧め、「(恋に落ちた)あなたをイギリス王よりも羨ましく思う。・・・・・・行わないで後悔するよりも、行って後悔する方が良い」と述べている。
「第1章 書記官マキァヴェッリ」(p.28-29)

 このように、マキァヴェッリは、モテまくりなので、うらやま・・・・・・ではなく、このように、マキァヴェッリは、「冷酷非情な人」などでは決してなく、ユーモラスで女好きな人物であったということが、本書を読み進めればわかってくるのである。



 本書には、ルネッサンスを駆け抜けたさまざまな人物が出てくる。

 悪名高き教皇アレサンドロ六世、その息子チェーザレ・ボルジア、そして怪しき修道士サヴォナローラなど・・・・・・。

 本書に登場する人物が、ルネッサンスの「オールスターキャスト」といった感じなので、充実感をかみしめながら、読み進めることができました。