「正統とは何か」G.K.チェスタトン著 はこんな本だった 【その2】
「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」チェスタトンの有名な逆説。
「内なる光」、人間の徳とか能力とかいったものを「崇拝の対象」にすることは、大変危険であるということ。
キリスト教は一刀両断する。「神と宇宙」とを。「罪と罪人」とを。
この世を妥協の産物として受け入れるような「諦念」ではなく、世界を心の底から憎み、心の底から愛するような「対立葛藤」をチェスタトンは勧める。
- 作者: ギルバート・キース・チェスタトン,安西徹雄
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2019/04/20
- メディア: 単行本
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(注:今回は、上記リンクの新版ではなく、チェスタトン著作集1の旧版を使用した。内容にさほど違いはないと思うが、ページ番号などはずれていると思うので、ご容赦ください)
「逆説」の達人チェスタトン。および「狂人」について
チェスタトンは「逆説」の大家である。
本書のなかにある、チェスタトンの有名な「逆説」に、次のようなものがある。
狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。(p.23)
このほかにも、本書には読者の凝り固まった固定観念を揺るがすような「逆説」が、次から次へと出て来る。
そして、本書を読んでいると、「宗教」と「迷信」から解放された今の世にあっても、私たちは「狂信」を免れ得ないのではないかという気がしてくるのである。
われわれはすでに、狂人の最大の特徴が何であるかを見た。無限の理性と偏狭な常識との結合である。(p.29)
「理性」と「論理」を重んずる今の世にあっても、私たちは「偏狭な常識」の虜となり、理性以外のあらゆる物(慈悲など)を失う可能性が残されているからである。
「自然」と「内なる光」。ついでに「カルト宗教」について
チェスタトンは「キリスト教以前」の信仰を、「オプティミズムなもの」と「ペシミズムなもの」とに分類している。
・「オプティミスト(陽キャ)」→ 山や星などの「自然」を崇拝する。
・「ペシミスト(陰キャ)」 → 徳や能力などの「内なる光」を崇拝する。
...ちなみに、「陰キャ」のブログ主は、自分の能力を他人と比較して絶望しがちである。
「自然崇拝」の堕落
チェスタトンは、自然崇拝は自然な現象だが、そのままでは性の乱れなどの狂乱に堕落すると述べている。
「内なる光」の堕落
チェスタトンは言う。
どんな宗教が恐ろしいと言ったところで、内なる神の崇拝ほど恐ろしい宗教はほかにない。(p.131)
「内なる光」、人間の徳とか能力とかが「崇拝の対象」になると、それはやがて「カリスマ崇拝」に陥ることになるからであろう。
徳の高い、特殊能力を持つとされる「グル」が、崇め奉られるようになるのだ。
こうした傾向は、オウム真理教などの「カルト宗教」にもつながるものであろう。
さらにチェスタトンは、「キリスト教はまさにこの「内なる光」の説を打ち破るために現れたのだ(p.130)」とも言えると述べている。
キリスト教がこの世に現れた第一の目的は、まさしくこのことを強烈に主張することにほかならなかったのだ。人間は、単に内を省みるばかりでなく、外を仰ぎ見、驚嘆し熱狂して、神の軍隊と神の隊長の姿を見つめなければならぬのだ。キリスト教の面白さもそこにつきた。(p.132)
思えば、私たち(特にブログ主)は、自分の能力という「内なる光」に拘泥し、他人と比べたりして、時に落ち込んだり、時に誇ったりしがちなものである。
しかし、キリスト教の教えによれば、そのような「誇りは取り除かれた(ローマ3:27)」というのである。
信徒たちは、「内なる光」に依り頼むよりも、「外なる光」に依り頼むべきだというのがキリスト教の教えである。
つまりは、「内なる光」に一喜一憂して生きていくよりも、「外なる光」に力づけられながら生きていく方が、よりよく生きられるということであろう。
ディレンマからの救済としての「キリスト教」
「自然」を崇拝しても、やがて堕落する。「内なる光」を崇拝しても、やがて堕落する。
「キリスト教以前」の信仰は、どっちを選んでもやがては堕落する、とチェスタトンは言う。
そして、チェスタトンは、このディレンマから人々を救済するために現れたのが「キリスト教」だと力説するのである。
では、キリスト教の示したディレンマの解決策とは何なのだろうか。
チェスタトンは言う。
一言で言えば、キリスト教は神と宇宙とを切り離したのである。
(略)
哀れなペシミストにたいしても、さらにもっと哀れなオプティミストにたいしても、これがキリスト教の与えた解答の何より肝心な中心点にほかならないかった。(p.134)
これはつまり、それまで《同一視》していた神と宇宙を、「超越的存在(神)」と「神の創ったもの(宇宙)」といったように《分けて考える》ようになったということだろう。
この一刀両断によって、「自然(神の創ったもの)」を神とみなすことはなくなるし、「人間(これも神の創ったもの)」を神と崇めることもなくなるのである。
そしてさらに、キリスト教が一刀両断にしたものがある。
思いもかけず、キリスト教は剣をふりかざして登場し、この二つを一刀両断に断ち切ってしまったのだ。罪と罪人とを両断したのである。
罪人は七の七十倍でも許さねばならぬ。しかし罪そのものはいかにしても許してはならぬ。(p.170)
これによって、「怒り」と「憐れみ」という、相矛盾する感情を「対立」させながらも「両立」できるようになったのである。
「諦念」と「対立葛藤」
現代の主流な処世術に「諦念」と言うものがあるとチェスタトンは言う。
彼はこの「諦念」を嫌う。
単なる諦念には、飛び立つような巨大な歓びもなければ、断固として苦痛をしりぞける力もないからだ。
ただ笑って耐えよと命ずる哲学には、決定的な弱点が一つある。単に耐えているだけでは、笑うことなど思いもよらぬという弱点である。(p.184)
チェスタトンは、「この世を妥協の産物として冷やかに受け入れる(p.123)」ような諦念ではなく、「世界を心の底から憎み、心の底から愛すること(p.123)」を勧めるのである。
つまり、われわれが求めているのは、愛と怒りの中和や妥協ではなく、二つながらその力の最強度において、二つながら燃えさかる愛と怒りとを得たいということである。(p.163)
「諦念」による「中庸」は、相矛盾する二つの熱情を「中和」することにある。
一方で、「キリスト教」が示す「中庸」は、相矛盾する二つの熱情を「衝突」させることから作り出されるという。
このあたり、以前に取り上げた《『死にいたる病』キルケゴール著》の「自己とはふたつの相矛盾する関係項に自ら積極的に関係していくこと」という定義に通ずるものがある。
つまり、「諦念」は、《関係しないこと》によって心の平穏を得ようとするが、キリスト教は、《積極的に関係していくこと》によって心の平穏を作り出そうとするのである。
おしまい。
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