ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

『信仰と「甘え」 増補版』土居健郎著 を買った

 本書は、『「甘え」の構造』でおなじみの土居健郎氏が、「甘え」と「信仰」の関連性について語ったことをまとめた本である。

 世間一般に「甘え」には否定的なイメージが強い。

 しかしながら本書では、「甘え」は信仰にとって、重要な感情であることが説明されている。
 
 また、「信仰と精神分析」という興味深いテーマも語られている。


信仰と「甘え」

信仰と「甘え」

『信仰と「甘え」 増補版』土居健郎著 春秋社 1992年7月20日初版


 本書は、『「甘え」の構造』でおなじみの土居健郎氏が、キリスト教の「信仰」について語ったことをまとめた一冊である。

 ちなみに、著者の土居健郎氏はキリスト教徒である。
 土居氏は、プロテスタントの家庭で生まれ育ったが、若き日の憂いのうちに無教会派の門をくぐり、そこでも満足することができず、悩みの果てにカトリック教会にたどり着いたのだという。

 本書は、全体として200ページぐらいのサクッと読める軽い本である。

 ちなみに、私が手に入れたものは「増補版」ということだが、これは、旧版に加えて『「甘え」と祈り』という20ページほどの文章が追加されているものであるらしい。

 そして、本書は、すでに廃刊されており、新刊書店には並んでいないので、古本で手に入れるしかない。
 手軽に入手するには「日本の古本屋」をオススメする(ブログ主もそうした)。
 古本価格は、千円前後です。



 本書の眼目は、「甘え」の感受性があってこそ、「愛」を求めること、つまりは「神」を求めることができるのであり、それ故に「甘え」は信仰にとっても重要な感情である、というところにある。

 けれども、「甘えてばかり」では、それではいけなくて、私たちは「甘え」の感受性を大切にしながらも、それを「超克」していかなければならない、ということなのである。

 では、どうすればこの「甘え」を超克していけるのだろうか。
 土居氏は、その《要点》を次のように語る。

ではどうなれば大人になれるかというと、まず第一に自分の甘えを自覚できることであろう。
次に甘えが満たされない時、そのフラストレーションに耐えられるのでなければならない。
さらに、他人の甘えがわかり、それを受け容れる雅量も必要であろう。
こういう人を日本では大人と考えるといってよいと思うのである。
「「甘え」と祈り」(p.208)

 これは「言うは易し、行うは難し」の典型例だろう。

 「甘え」を超克していく道は、とても困難な道のようである。

 私たちが超克の道を歩み始めた時、私たちが自己の「甘え」に自覚的であればあるほど、自己に嫌気がさす機会も多くなってしまうのではないだろうか。

 そして、かえって昔の自己の「甘え」に対して無自覚であった時代の方が、堂々としておられ「自信」に満ちあふれていたと感じてしまうのではないだろうか。

 けれども、私たちが自己に自覚的であるが故に、私たちは自分の「分を知る」ことができるので、それによって「謙虚さ」に根ざした本当の「自信」につながっていくのだとブログ主は思うのである。



 そして、ブログ主が、本書で一番興味深く感じたところが、土井氏が「信仰と精神分析」について語っているところである。

 土居氏によれば「カトリシズム」と「精神分析」とはお互いに補完しあうものだという。

 というのも、精神分析」は、信仰生活における「邪魔者」となる信者の「心理的葛藤」を解決するからである。

 土居氏は言う。

しかしながら信仰生活がその人間に無意識の心理葛藤がある場合、歪んだものになり、時には不可能に近くさえなることも否定できない事実である。
(略)
信仰は理性と意志にかかわることであるから、感覚的欲求の誤った習慣のために信仰生活が禍されるということも起こっていいわけである。
「カトリシズムと精神分析」(p.13-14)

 信者のココロの中に「心理的葛藤」があると、通常の信仰生活を送ることが難しくなってしまうのである。

 これは、ブログ主にも心当たりがある(だから興味深かった)。
 ブログ主の場合、神の概念が歪んだものになってしまったのである(不機嫌で理不尽な神になってしまったのだ)。

 この歪んだ神は、ブログ主の実父の幻影であり、ブログ主にもその家庭環境から生じた無意識の「心理的葛藤」があったのである。

 神の概念が歪んだものになってしまったのは、ブログ主の「ココロの背骨」が歪んでいたからであった。


 そして、この困難に陥った信仰生活を通常の状態に戻すには、信者個人の「心理的葛藤」を解決していかなければならない。
 つまり、信者個人の「ココロの背骨」の歪みをまっすぐに治さないといけないのである。

 その解決に有効なのが「精神分析」である。

 土居氏は「精神分析」について、次のように語る

精神分析は、患者の精神中の無意識過程を明るみに出し、それを意識化することにより患者の精神を無意識の圧制から解放することを目的とする。
「カトリシズムと精神分析」(p.11)

 このように、精神分析」によって無意識の圧制から解放されると、それがその人間の「理性」と「意志」にもよい影響を及ぼし、それによって信仰生活も通常の状態に戻っていくのである。

 要点は、信仰生活が困難になってしまった人は、自分の「心理的葛藤」と向き合った方がよいということである。