「アウグスティヌス講話」山田晶著 を買った【その2】
本書は、アウグスティヌスの思想についての講話をまとめた本である。
今回取り上げた「創造と悪」という講話において、講師の山田氏はアウグスティヌスと道元の思想の類似性について熱弁している。
ふたりの共通点は「当事者性」にあるというのだが、それは一体どういうことであろうか......
- 作者: 山田晶
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1995/07/04
- メディア: 文庫
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本書「アウグスティヌス講話」は、著者である山田晶氏が、京都にある教会の御使いたちの前で行った講演の記録である。
本書に収められている講話は、どれもタメになり面白かったのであるが、拙ブログでは、その中から二つの講話、
「アウグスティヌスと女性」(※前回記事参照のこと)
「創造と悪」
を二回に分けて、取り上げてみたいと思う。
二回目の今回は「創造と悪」の方をば。
「創造と悪」
この「創造と悪」というキリスト教にまつわる講話において、山田氏は唐突に曹洞宗の道元(1200-1253)のことを熱く語り出すのである。
そしてそのことが、非常に興味深く、かつ面白く、ブログ主のボンクラ脳ミソも痛く刺激されたのである
山田氏は語るのである。
アウグスティヌスと道元の思想は非常によく似ている、と。
アウグスティヌスは若いとき、ある疑問に苦しめられたという。
それは「もし、善き神が世界を創造されたというならば、なぜこの世界に悪が存在するのか」という疑問である。
そして、若き道元もある疑問に苦しめられたという。
それは「もし、すべてのものが既に仏性を持っているなら、なぜわれわれは成仏を求めて苦しい修行をしなければいけないのか」という疑問である。
こうした素朴な疑問は、われわれの誰しもが一度は抱くような疑問であろう。
アウグスティヌスと道元も、「世界」について、われわれと同じような疑問を抱いていたのである。
そしてまた、ふたりは、当初われわれと同じような「世界」の捉え方をしていたのである。
その捉え方とは、自分を「傍観者」の立ち位置に置き、自分を取り巻いている「世界」を自分とは「別のもの」とする捉え方である。
この捉え方は、現在においても、ごく一般的な「世界」の捉え方であろう。
アウグスティヌスと道元がエライのは、こうした一般的な捉え方から抜け出せたというところにあろう。
悩みの果てに、アウグスティヌスは「世界」を新しく捉えなおすことに成功するのである。
アウグスティヌスは、この「世界」を、「傍観者」の立ち位置で捉えるのではなく、自分自身も関わっている「当事者」の立ち位置で捉えるようになったのである。
この世界を神さまが善く創りたもうたということは、じつは、善くあるべき世界の創造の中に自分自身が参与していることであり、自分自身が責任を持たされているということです。世界をそのように、「創られて既に在った」ものとしてではなく、自分自身がそれに参与しつつある「創られつつ、在りつつある」ものとして受け取るところに、アウグスティヌスの問題の解決があったと思います。(p.173)
このようにアウグスティヌスは、思索の果てに、自分は神の想像された世界の「傍観者」ではないのだと悟るのである。
若きアウグスティヌスは、善きはず世界になぜ悪が存在するのかということで信仰が揺らいでいた。
しかし、晩年のアウグスティヌスは、世界に悪が現存していることを認めても、その信仰は揺らぐことはないのである。
われわれ人間は、この不完全な「世界」の創造に参与している「当事者」であり、その創造の過程において「悪をも善用する」ほど、神は善であり全能であると考えるようになったからである。
道元も新しく捉えなおす。
道元もまた「すべてのものは仏性を持っている」ということの「傍観者」ではないのだと悟るのである。
じつはそれは、自分自身を含んでいる世界なのである。そしてこの世界を成仏させることは、じつは自分自身がそれをしてゆかなければならないのだというように、自分自身を世界の中に入れることによって(道元のことばを用いるならば、「仏の家に」自分自身を「投げ入れる」ことによって)、つまり、自分自身を含めたものとしての世界(それこそは、世界の実相です)を受け取ることによって、その深い意味を初めて悟るのです。(p.174)
アウグスティヌスと道元は、「世界」の「傍観者」から「当事者」となり、この点がふたりの思想の共通点なのだという。
このふたりにとって、人間は「世界」の創造に参与している「当事者」であり、世界を育てていくことが人生の課題となったのである。
...読みながら感じたのだが(ここからちょっと蛇足♪)、「傍観者」の立ち位置から「世界」を捉えるという「一般的な世界の捉え方」は、土居健郎氏のいう「甘え」に基づいた捉え方ではないかと思ったのである。
それは、「世界」を自分の母親(もしくは父親)に代表されるような「保護者」のように捉え、それに頼りきるというか依存するような捉え方である。
そして、この親であり保護者である「世界」が頼りないので、子であり傍観者である自分は満足できないのだ嘆いてみせるのである。
このような「世界」を「保護者」とみなす、それも「善き保護者」であるべきだとする「世界」の捉え方では「世界」を育てることはできないので、「甘え」は大切な感受性ではあるが、やはり土居氏の言うように「甘え」を超克していかなければいけないなと思ったのである(蛇足オシマイ♪)。
では、「神の創造に人間が参与する」とは具体的にはどういうことか。
どういう「生き方」をすれば、われわれは世界の創造に参与できるというのだろうか。
その答えのひとつが、道元の「自己を習う」という思想の中にある。
そしてこの「自己を習う」ことは、単なる主観的な自己反省によって達成されることではなく、自分に与えられた日々の仕事を細心綿密に遂行してゆく「行持(ぎょうじ)」によって達成されます。行持を通して、自己を洗い、米を洗うとともに、尽十方界を洗浄するのです。(p.183)
山田氏は、「神の創造に人間が参与する」ということは、まさにこういうことなのではないかと述べている。
「神の創造に参与する」ということは、 なにも奇抜で斬新なものを作り出すことを意味しているのではない。
「神の創造に参与する」とは、インスタ映えするものを作り出すことではなく、日々自分に与えられた仕事を忠実に果たしていくことを指しているのである。
そして道元にとりましては、何を洗浄するとか、あるいはどれだけきれいにするかということは、実は問題ではない。だからある人が反問して、そのように体をきれいにしても、腸(はらわた)の中はきれいにできないではないか、というのに対し、これは笑うべき外道であるといって斥けています。そのような仕方で、何を洗うかということにかかわりなく、われわれの手許にあり、身近にあるものを、一つ一つ真心をこめて、丁寧に忠実にやってゆくこと、その一つ一つの日常的な行持の中で、実は尽十方界を洗浄し、尽十方界において仏を現成しているといいます。事実、道元自身がそれを実践したのです。(p.169-170)
今回は以上です。
最後までお読みくださりありがとうございます!!