「宗教なんかこわくない!」橋本治著 はこんな本だった
本書は「宗教」というものを分析した書であるばかりでなく「日本人論」にもなっている。
橋本治氏は言う。「宗教とは現代に生き残っている過去」にすぎない、と。
また言う。この過去の遺物から逃れるには「自分の頭で考える」という習慣を身につけなければならないのだ、と。
- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1999/08
- メディア: 文庫
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本書は「オウム真理教事件」を通じて「宗教」というものを分析した書である。
そして、本書は「宗教とはなにか?」という問いに対する橋本治氏の答えである。
また、本書は橋本氏流の「日本人論」でもある。
宗教とは、現代に生き残っている「過去」である
橋本氏は冒頭で次のように述べている。
宗教とはなにか?
宗教とは、この現代に生き残っている過去である。
「introduction」(p.11)
橋本氏は、「宗教」というものを、時代遅れのイデオロギーのような、とっくの昔に用済みになった「過去の遺物」にすぎないと喝破している。
また、橋本氏は、宗教なるものは「幸福」を求める人間の心情が生み出したものにすぎない、とも述べている。
こうした見てみると、橋本氏にとって「宗教」なるものは、近寄りがたい「こわいもの」なんかではなく、大昔の「処世術」でしかないようである。
第二次世界大戦後、GHQの施策によって、日本人は国家宗教の呪縛から自由になり、宗教の束縛から解き放たれた。
しかし、それでもなお日本人の心の奥底には宗教的なマインドがしっかり残っている、と橋本氏ては述べている。
この心の奥底にある「日本的宗教観」とは、一体なにか。
その一つは「田中角栄信仰」に代表されるような「成り上がり崇拝」であり、もう一つは「会社崇拝」なのだと橋本氏は言う。
橋本氏は「この日本という国が、“会社”という宗教に汚染されている宗教社会(p.41)」だ、とまで述べている。
なるほど、たしかに現代日本において、われわれに「幸福」をもたらしてくれるのは、キリスト教のような「既存宗教」ではなく、一流企業のような「会社」なのかもしれない。
そして、「宗教とは、現代に生き残っている過去である」と定義するならば、「会社崇拝」のような、依然として残っている日本的宗教観もまた「過去の遺物」となるべきなのだ、ということを橋本氏は言いたいのであろう。
「自分の頭でものを考える」
橋本氏は、次のようなことを述べている。
現在の日本人に必要なものは、“神”ではない。自分のことをよく理解してくれてよく導いてくれる“上司=教祖”なのだ。このことは結構重要なことだと思う。
「宗教とはismである」(p.44)
日本人にとって、神よりも教祖の方が大事というのは面白い指摘だと思う。
われわれ日本人は「神」よりも「保護者」を切に求めているみたいである。
これは、土居健郎氏のいう「甘え」の心情に通ずるものがあると思う。
そして、橋本氏は、この「甘え」の心情(依存心)を「宗教」と定義しているようである。
また、橋本氏は、権力者(上司=教祖)に「盲従」することを「信仰」と捉えているようでもある。
そうなったら大衆は、その難解な理論をちゃんと把握している指導部に従うしかない。“従う”−−つまり“信じる”である。“ただの理論”は、そのあり方において、いとも簡単に信仰を強要する“宗教”になる。
「なんであれ、人は非合理を信じたりはしない」(p.253)
このように、橋本氏にとっての「宗教」とは、「甘え(依存心)」と「盲従」から構成されているもののようである。
そして、そのような「甘えの宗教」に対抗するアプローチとして「自分の頭で考える」といった主張が出てくるのだと思われる。
橋本氏が本書を通じて一番伝えたかったことは、この「自分の頭で考える」ということであろう。
あなたに欠けていて、あなたに一番必要なものは、「自分の頭でものを考える」ということで、「自分の頭でものを考えるということは、とんでもなく大変で、悠長で、効率の悪いことである」ということだ。
「宗教とはismである」(p.87)
そして、日本人は「自分の頭でものを考えること」を避け、「絶対者からの指示待ち状態(p.90)」にあるのだ、と橋本氏は喝破しているのである。
日本人は「自分の頭で考えること」を避ける
橋本氏は、「社会を維持する宗教」と「内面に語りかける宗教」の二種類に宗教は分類できるという。
日本人の伝統に則した主力宗教は「社会を維持する宗教」の方である。
「会社崇拝」といったものもこれに含まれるだろう。
一方で、「内面に語りかける宗教」の方はといえば、日本人の主力宗教である「社会を維持する宗教」から疎外された人々が助けを求めて逃げ込む先なのだという。
日本人は「孤独」というものに弱く、「自分の頭でものを考える」ということ慣れていないので、社会の主流から疎外されたとき、今度は傍流の「絶対者」に依存することによって「孤独」を解消してしまうようである。
本来ならば、社会の主流から疎外された時にこそ、「自分の頭で考えること」を始めて社会から自立すべき時なのに、日本人は決して「自分の頭で考えること」を始めようとはしないというのである。
このあたりの人間の心境を、テレフォン人生相談でおなじみの加藤諦三氏は、その著書の中で次のように述べている。
人は、時に不安な状況を避けるために、あることを信じ込む。
パーソナリティーは貧困化するが、それが真実に直面するのを避ける方法だからである。
「不安のときは、逃れようとする個人の努力は、一般的に熱狂的な行動へと高まる」
人がカルト集団に入るのは、不安から逃れるためである。
「不安のしずめ方」加藤諦三著(p.187)
人は、「孤独」と「不安」から逃れるために、別の依存先(カルト集団)へと向かうようである。
加藤諦三氏は、こうした「孤独」と「不安」の時こそ、価値観の再構成の時であると述べている。
自分の価値が脅かされる不安とは、自分にとっての大切な周囲の人が、自分に求める価値を自分が実現できなくなった不安である。
(略)
「自分の価値が脅かされる」不安なときこそ、周囲の人が自分に求める価値ではなく、自分が信じる「自分の価値」に、価値観を再構成しなければならないときである。
「不安のしずめ方」加藤諦三著(p.213)
周囲の人が自分に求める価値とは「優等生」であった。
しかし、自分は「優等生」にはなれなかった。
その時、周囲から疎外されるという「孤独」と「不安」におそわれる。
加藤諦三氏は、その時こそ、周囲の価値観に流されず、「自分の価値」に価値観を再構成しなければならない、というである。
「自分の頭で考えること」を始め、また「自分の価値観を再構成する」しなければいけない場面において、日本人は「自分の頭で考えること」を避け、別の「依存先」の方へと引き寄せられてしまうようである。
「解脱」とは
橋本氏は、「解脱」について、次のような深い見識を示してる。
ゴーダマ・ブッダが悟りを開いて解脱する以前には、「解脱とは、苦行によってなにか“特別な存在”になること」だと思われていた。“特別なもの”とは、“宇宙の真理であるアートマン”とかいうようなものである。そういうものと一体化して、“特別な存在になる”−−それこそが“解脱”だと思われていたのである。
(略)
残念ながら、解脱というのはそんなものではない。ただ、“ただの人になること”なのである。
「なんであれ、人は非合理を信じたりはしない」(p.224-225)
「解脱」というのは、「特別な存在」になることではなく、「ただの人」になることだというのである。
しかしながら、「孤独」で「不安」な人は、「超能力者」のような「特別な存在」になることを「解脱」と理解してしまうようである。
「解脱という特別な状態を得て、なんとかして“自分は特別なんだ”ということを証明しよう」とする。“解脱に関する混乱”は、そんな風にして起こる。“たった一人の世界”に追い込まれてしまった人間は、自分をそんなところに追い込んでしまった“他人達”を憎んでいて、その憎らしい他人達への手前もあって、「ここから抜け出した時には、なんとかして“特別なもの”になってないとカッコがつかないな」と思う。だから、現代で“解脱を求める”なんていうヘンなところへ入り込んでしまった人間は、一生懸命“特別なもの”を求めるのである。
「なんであれ、人は非合理を信じたりはしない」(p.225-226)
「不安」なとき、われわれはどうして「特別な存在」になろうとしてしまうのだろうか。
それはおそらく、「皆からもっと認めてもらいたい」という根強い願望があるからだと思われる。
加藤諦三氏の著書には次のような言葉がある。
それにしても、なぜ彼らここまで人に認めてもらいたいのか。
おそらく小さい頃、愛されなかったからであろう。
先にも述べたように、フロム・ライヒマンは次のように述べている。
「専横な母親において直面する、愛情の欠如の結果として、子供は早くから、誰にでも愛情をもとめる強迫的欲求を発動させ、それは一生残って、彼を不安定にし、他の人々に依存的にする」
彼らは、小さい頃の「愛情の欠如」を乗り越えられなかった。
でも幸せになるためには、これは乗り越えなければならない。
「不安のしずめ方」(p.191)
不安なとき、われわれは「特別な存在」になることを目指してしまうが、それでは「愛情の欠如」は乗り越えられないようである。
小さい頃の「愛情の欠如」を乗り越えるためには、「特別な存在」になるのではなく、「ただの人」であらねばならない。
最後に
以前の拙ブログで、土居健郎氏の『信仰と「甘え」』という書物を取り上げたことがあった。
そして、その書において、「甘え」という感受性は、信仰にとって大切なものだということが述べられていた。
が、同時に「甘え」は克服されなければならないものであるとも述べられていたのである。
そして、信仰というものに「甘え」や「依存心」といった一面「も」あることは橋本氏の指摘の通りだと思うが、しかし信仰とはそうした一面「だけ」のものではないとも思う。
また、橋本氏を含めた日本人は、「宗教」というものに、われわれの自由と成長を妨げる依存的な「保護者」の影を見ているように思われる。
今はやりの言葉でいえば「毒親」の影を神に投影しているように思われるのである。
これは「日本的宗教観」が「甘え」に基づいたものなので、日本人が思い浮かべてしまう「神」もまた依存的な毒親のようになってしまうのだと思われる。
しかし、たとえ日本人が神といった毒親から抜け出せても、本書で述べられているように、日本人は、会社という別のものに依存してしまっているので、結局「甘え」という「日本的宗教観」からは抜け出せていないように思われる。
「幸福」を求める先を「神」から「会社」に改めたからといって、「甘え」を脱したとは言えないと思うのである。
この「甘え」を克服するには、まず「心の葛藤」を解決しなければならないと思う。
そして、宗教なんかに頼らなくとも、宗教とは関係なく、「心の葛藤」は解決できるものだと思うのである。
また、「甘え」が問題視される場合、われわれは「甘え」というヤッカイモノを「抑圧」しがちである。
しかし、甘えは抑圧されるものではなく、満たされるものであり、そして向き合うものだと思う。
最後に、橋本氏は「宗教とは「幸福」を求めるもの」とおっしゃていたが、先日取り上げた「四つの愛」に次のようなところがあった。
恋愛は、「別れるよりはこの方がよい。彼女なしで幸福であるよりも、彼女と共に不幸である方がよい。われわれの心が共に裂けるなら裂ける方がよい」と言うことを決して躊躇しない。もしわれわれのなかの声がこのことを言わないならば、それは恋愛の声ではない。
「第五章 恋愛」(p.141)
キリスト教が求めるのは「幸福」ではなく「神の愛」である。
そしてそれは、愛なしで幸福であるよりも、愛と共に不幸である方がよい、といった信仰感なのだと思う。
ちょっと引っかかっていたのでオマケとして述べさせていただきました。
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