ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「不安のしずめ方」加藤諦三著 はこんな本だった

 本書は、「不安」に立ち向かう方法を解説した本である。
 人は「不安」と向き合わないことによって「不安」を解消しようとするのだという。
 しかし、「不安」をしずめるためには「不安」に立ち向かわなければならないのだというのである。


不安のしずめ方―人生に疲れきる前に読む心理学 (PHP文庫)

不安のしずめ方―人生に疲れきる前に読む心理学 (PHP文庫)

「不安のしずめ方 人生に疲れきる前に読む心理学」加藤諦三著 PHP文庫 2007年10月17日初版

人は「不安」を回避することによって「不安」を解消しようとする

 私が、「人は時に、死んでも不幸を手放さない」と言ったら、あなたはどう思うだろうか。
 多くの人は「まさか」と思うだろう。
「第一章 なぜ不安なのか」(p.24)

 しかし、人は「不幸」よりも「不安」の方を嫌がるものなので、「不安」に陥るくらいなら、死ぬものぐるいで「不幸」にしがみつくのだというのである。

 先日とりあげた『宗教なんかこわくない!(橋本治著)』でも似たようなことが書いてあったが、われわれは、「不安」に襲われたとき、「不安」に立ち向かうという「精神的自立」の道を選べればいいのだが、一般には「不安」を回避するといった「他者依存」の道の方を選んでしまうようである。



「迎合」の心理

 「不安」の回避の方法には、「迎合」「攻撃」、それと「とじこもり」の三種類があるという。

 「迎合」する人は従順な性格で、小さい頃から「いいなり」になることによって親から受け入れられた体験を持っているのだという。

 しかし、彼らがどんなに「迎合」に励んでも、「不安」が根本から解消することはないという。

 迎合することで不安は一時的に和らぐが、解消することはない。
 不安から迎合することで、長期的には、より不安になる。
 迎合する人は、自分でなにか決めようとすると、ものすごく不安で、なんとも頼りない気持ちに襲われる。
 その不安に耐えられなくなって自分のすることを決めてくれる人を探す。
 その人の言うとおりにしているほうが、不満だけれど安心なのである。
「第二章 人が怖いから迎合してしまう」(p.53)

 「迎合」してしまう人は、幼少期から、他人の「いいなり」になることによって「不安」を解消しようとする癖が身に付いてしまっているのだという。

 そして、本当に「不安」を解消したいのであれば、心理的に「自立」して、他人の「いいなり」になる癖を直さなければならないというのである。

 神経症的傾向の強い親に育てられた人は、大人になっても、周囲の人が小さい頃と同じように自分に従順を強いていると錯覚する。小さい頃の再体験である。
(略)
 再体験をやめればいいのであるが、脳の回路がすでにそのようにできているから、そう簡単にはやめられない。
 だから、毎日毎日、自分で自分に言い聞かせるという気の長い作業で、自分の脳の中に新しい回路をつくるしかない。
「第二章 人が怖いから迎合してしまう」(p.83-84)

 幼少期の過酷だった思い出は、もう捨て去らなければならないのである。



不安な人の「自分の価値」は《他人基準》のものである

 「迎合」してしまう人は、自分を頼りなく感じ、そして「自分の価値」に自信がない、という。

 しかしながら、この不安な人の「自分の価値」というのは《自己基準》のものではないのだ、と加藤諦三氏は言うのである。

 この不安な人の「自分の価値」は《他人基準》のものにすり替わってしまっているというのである。


 また、「迎合」してしまう人は、「どうしたら愛されるか、どうしたら気に入られるか」ということばかりが頭の中にあるという。

 それに関して、加藤氏は次のようなことを述べている。

 「気に入られる」ことと「愛される」ことは違う。
(略)
 愛された体験のない人は、「気に入られること」と「愛されていること」を同じことだと感じている。
「第三章 真面目の落とし穴」(p.102-103)

 「迎合」してしまう人は、「愛されていること」を知らないがために、《他人基準》である「気に入られること」の方を求めてしまい、他人からの「賞賛」を得るという報われない努力に全力を尽くしてしまうのである。

 そこまで賞賛を求めるのは、なぜか? なぜ常に誉められていないと不安な人間になってしまったのか。
 それは、その人が自分に価値を感じていないからである。
 だとすれば、そういう人が、まずしなければならないことは、「なぜ自分はそんなに自分を価値がないと感じてしまったのか?」と自分に問うてみることである。
 当然、今までの人生に原因がある。
 なによりも、小さい頃からの人間関係をもう一度考え直してみることであろう。
「第四章 不安のしずめ方」(p.120-121)

 「迎合」してしまう人のあらゆる行為は、「不安」を感じたくないための「逃げ」の行いでしかないという。

 他人からの「賞賛」を求めるという、いっけん自発的な行為でさえ、「不安」を回避するための行為にすぎないのである。


 加藤諦三氏は、「迎合」してしまう人に必要なのは、「価値観の再構成」であると説く。

 燃え尽きる人が本質的に不安を解消するためには、努力の方向を反対にしなければならない。
 逃げる努力から立ち向かう努力である。
(略)
 努力の方向を正反対にするということは、他人の声ではなく、自分の内面の声を聞くことである。
 周囲の人のお気に入りになることではなく、自己実現に向けて努力するということである。
 周囲の人の要求に「はい」という努力をすることではなく、「ノー」という努力をすることである。
「第四章 不安のしずめ方」(p.134-135)

 このように「不安」を根本的に解消するのに必要なことは、心理的な「自立」を果たすことによって、「自分の価値」を《他人基準》のものから《自分基準》のものに取り戻す「価値観の再構成」を果たすことなのだというのである。

 加藤諦三氏は次のようなことも述べている。

 不安に立ち向かうとは、どういうことか。
 第一に、他人から優れていると思ってもらわなければ生きていけない自分を認めることである。
(略)
 そして、第二には、「自分はなぜこれほどまで他人が自分をどう思うかが気になるのか?」と自分に問うことである。
(略)
 原因は小さい頃の「愛情の欠如」と気づくであろう。
 そこで、最後に、その原因を自ら乗り越えようとすることである。
 それが自ら不安に立ち向かうことである。
「第五章 不安の構造」(p.193)

 この「価値観の再構成」は一朝一夕にはゆかないが、それでも地道に継続してゆかねばならないものだという。



《自己基準》の「自分の価値」を確立するには

 自分の人生を《他人基準》のものに合わせるような生き方は、「人任せ」な生き方であり、それは「甘え」た生き方でもあるという。

 そして、そうした生き方をしていると、次第に疲弊し、やがては「うつ病」になってしまうのだという。

 しかし、「自分の人生は自分の責任」と覚悟を決めたときには、その甘えはなくなる。
「第六章 自分の人生の責任は自分にある」(p.224)

 他人に「迎合」することをやめ、自分の人生を自分でコントロールしていくようになれば、やがて「不安」は解消されていくのだと加藤氏は述べている。


 この「自分の人生は自分の責任」という考え方は、「能力のない奴は見捨てて当然」といったような昨今はやりの「自己責任論」とは異なっている、とブログ主には思われるのである。

 これは個人の「能力」の問題ではなく、生きる「姿勢」の問題であるからである。

 そして、「能力のない奴は見捨てて当然」と言い放ち、「能力」に固執している人は、「承認欲求」という《他者基準》のものから抜け出せていないような気がするのである。


 加藤諦三氏は、「自分の価値」を確立するのに必要なのは、「案ずるより産むが易し」という姿勢だという。
 不安な人は、実際に行動に移す前から「想像した苦しみ」によって疲労困憊しがちであるが、いざやってみると現実は想像してたほど大変でないことが多いのだという。

 また「自分の価値」を確立するためには、「次善の策」を受け入れる姿勢も必要だという。
 「理想の自分」に執着せず、「次善の策」でも満足できるほうが、心理的にも健康になれ、結果として「不安」も消えていくのだという。
 つまりは、本来の「自分の価値」というものは、輝かしい理想の側にではなく、そこそこの現実の側にあるということであろう。


 以上。
 本書には、このほかにも「不安」に対するいろいろな処方箋が載せられているので、「ぼんやりとした不安」に煩わされているかたは是非ご一読のほどを!


宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)