ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「回勅 神は愛」教皇ベネディクト十六世著 はこんな本だった

 「回勅」とは、ローマ教皇が書いて、カトリックの信者たちが読む書簡のことである。
 本回勅では、人をキリスト信者にするのは「神の愛」との《出会い》であることが述べられており、また、人が人を、そしてなにより神を愛するようになるには、まず愛されるという経験、つまり「神の愛」との《出会い》がなければならないということが述べられています。
 個人的には「エロース」と「アガペー」について語られているところが面白かったです。

神は愛

神は愛

「回勅 神は愛」教皇ベネディクト十六世著 カトリック中央協議会 2006年7月12日初版 ENCYCLICAL LETTER "DEUS CARITAS EST"

人をキリスト信者にするのは、ある《出会い》であるということ

 本書は、次のような言葉で始まる。

 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(一ヨハネ4・16)。ヨハネの手紙一からとられたこのことばは、キリスト教信仰の核心をこのうえもなくはっきりと表しています。すなわち、キリスト教的な神の姿と、そこから帰結する、人間とその歩む道の姿です。
『序文』(p.5)

 そして、人をキリスト信者にするのは、ある「人格」との《出会い》によるのだという。

 その《出会い》とは、神の独り子「イエス・キリスト」との《出会い》であり、またそれは、「神の愛」との《出会い》であるという。

神がまずわたしたちを愛しました(一ヨハネ4・10)。ですから、今や愛はもはや単なる「おきて」ではありません。神は、愛のたまものをもってわたしたちを迎えてくださいました。愛とは、この愛のたまものにこたえることなのです。
『序文』(p.6)

 そして、この「愛」を表すギリシア語には「エロース(性愛)」、「フィリア(友愛)」、「アガペーの三種類があり、聖書を書いた人が好んで使ったのが「アガペー」であったのである。


キリスト教は「エロース」を拒絶したのか

 一般的なイメージでは、キリスト教が「エロース」を拒絶するあまり、それを禁じ排除したと思われているが、それは《本当ではない》と本書は述べている。

 「エロース」は、古代において神的なものとの「融合」という、一種の陶酔をもたらすものとして重用されていた。

 そして、たしかに旧約聖書は、この陶酔状態を「倒錯した宗教性」と見なし、それと戦ったという。
 しかし、この戦いは「エロース」そのものを拒絶する性質のものではなかったというのである。

むしろ旧約は、歪んだ破壊的な形の「エロース」と戦ったのです。なぜなら、「エロース」を誤った形で神聖化すると、実際には「エロース」はその品位を奪われ、非人間的なものになるからです。
『創造と救いの歴史における愛の同一性』(p.12)

 どうやら、キリスト教(およびユダヤ教)は「エロース」そのものではなく、「エロース」の《神聖視》に対して戦いを挑んだようである。


【個人的雑感】エロース=求める愛=甘え

 本書を読んでいて、ブログ主が思ったこと。

 それは、本書のいう「エロース」なるものは、「求める愛」(C・S・ルイス『四つの愛』)に近い概念のものであり、それはつまり「甘え」(土居健郎『「甘え」の構造』)に近い概念なのではないか、ということである。

 また、「甘え」の感受性は大切なものではあるが、それは《超克》するべきものであって《神聖視》すべきものでないことは、拙ブログの過去記事からいっても確かなこと、ということである(過去記事『「甘え」の構造』参照)。

 もし、「甘え」を《神聖視》して、それが宗教化してしまったとしたら、それは「融合」を目指すニューエイジ的な宗教となることだろう(過去記事『ニューエイジについてのキリスト教的考察』参照)。

 そして、本書では、この「甘え」の宗教による一致(融合)とは異なる、キリスト教的な一致の特質について、次のようなことが述べられている。

しかし、この神との一致は、神との融合でも、言い表しがたい神性の海に沈むことでもありません。この一致は、愛を生み出す一致です。それは、神と人間が、それぞれ自分でありながら、完全に一つになるような一致です。
『創造と救いの歴史における愛の同一性』(p.26)

 このように、キリスト教的な一致は、自分と他人の境界線がなくなってしまうような(劇場版エヴァンゲリオンの終盤の場面にあったLCLの海》において皆が溶け合い一つになるような)一致ではない。
 つまりは、キリスト教的な一致とは、愛によって結びつけられた一致なのである。

 ニューエイジについてのキリスト教的考察』という本の中で、ニューエイジの根底にあるのは、グノーシス主義とホリズム(全体論主義)の二つであり、このホリズムの方が、他者との差異や区別をなくし、「融合」による一致を目指す試みであることが明らかにされていた。

 そして、そうした《差異をあいまいにすること》による一致というものを、キリスト教は許容することが出来ないということが説明されていたのである。

宇宙的自己への個人の融合、宇宙的調和における差異や対立の相対化ないし消滅は、キリスト教が受け入れることのできないものです。

 真の愛が存在するためには、自分と異なる他者がいなければなりません。真のキリスト信者は、愛が与えられることを受け入れることも拒むこともできる他者の能力と自由の内に一致を求めます。キリスト教において、合一とは交わりであり、一致とは共同性です。
ニューエイジについてのキリスト教的考察』(p.93)

 このような理由から、キリスト教という宗教は「エロース(甘え)」を《神聖視》するような動きとは相性が悪いのである。


エロースには《浄めと成熟》が必要だということ

 他者との融合をもくろむ「エロース」には、《浄めと成熟》が必要だという。

浄めと成熟は、「エロース」を拒絶することも、それに「毒を飲ませる」こともありません。かえって、それらは「エロース」をいやし、「エロース」がもつ真の意味での偉大さを回復するのです。
『創造と救いの歴史における愛の同一性』(p.13)

 そして、「エロース」を成熟させるためには、「アガペー」の助けが必要なのだという。

 この「アガペー」という愛の形は、「エロース」とは異なる性質を持つものである。

ここでは、真の意味で他者が見いだされ、また、「求める」愛を支配していた自己中心的な傾向が乗り越えられているからです。今や愛は、他者への関心と配慮に変わります。もはや自分のことを求めません。つまり、幸福に酔いしれることはなくなります。その代わりに、この愛は、自分が愛するものの善を求めます。愛は自己放棄となり、犠牲をいといません。それどころか、進んで犠牲を払おうとさえするのです。
『創造と救いの歴史における愛の同一性』(p.16)

 「エロース(=求める愛)」に対し、このアガペー」なるものは、「与える愛」(C・S・ルイス『四つの愛』)に近い概念であると言えると思う。

 そして、私たちの「愛」において、この「与える」愛の勢力が増してくることは、愛の成長の証であり、また浄めでもある、と本書は述べているのである。

 このように「エロース(=求める愛)」と「アガペー(=与える愛)」は対立するものではなく、一つの「愛」という乗り物の両輪のようなものと言えるのだろう。

 どっちが欠けてしまっても、私たちの愛は走ることはできないのである。


 そして、人を、なにより神を愛するには、まず愛されなければならないのだという。

人はいつも与えてばかりいることはできず、与えられなければならないからです。愛を与えたいと思う人は、愛をたまものとして与えられなければなりません。
『創造と救いの歴史における愛の同一性』(p.19)

 私たちの心の空白を満たしてくれる、愛の「源泉」となる存在が《イエス・キリストなのだというのである。


愛である神

 本書では、「まず神の方が先に私たちを愛した」ということが述べられている。

 そして、教会の典礼の中や祈りの中で、私たちはこの「神の愛」と出会い、それを経験するのだという。

教会の典礼の内に、教会の祈りの内に、信者の生きた共同体の内に、わたしたちは神の愛を経験します。わたしたちはそこに神がともにいてくださることを知るようになります。
(略)
このように神が「まず愛する」からこそ、わたしたちの内にこの愛へのこたえが芽生えるのです。
 このような出会いを少しずつ行うことによって、愛は単なる感情ではないことが明らかとなります。
『創造と救いの歴史における愛の同一性』(p.36-37)

 冒頭の方でも述べたが、人をキリスト信者にするのは、この《出会い》なのである。


 また、イエスは、信仰生活の中心を「神への愛」と「隣人愛」のふたつにまとめた(「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」および「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」)。

 この「主を愛しなさい」および「隣人を愛しなさい」という愛の「おきて」なるものは、「おきて」とは言っても、外部から強制されたものでも、単なる命令でもないのだという。

 それは、「神の愛」と出会い、「自分たちが愛されている」という愛の経験をしたことへの《応答》であるのだ、というのである。

 その《応答》とは、子供の笑顔のようなものであろう。
 子供が笑顔になるには、まず愛との出会いがなければならない。
 大切な人からなでられれば、子供は自然と笑顔になるのではなかろうか。
 笑顔になれと強制されても、命令されても、愛がなければ笑顔にはなれないのである。

重要なのは、無償で与えられる愛を自分の中で経験することです。そして、この愛は、本性的に、人に分け与えないでいることのできないものです。愛は愛によって成長します。愛は「神的」なものです。愛は神から出て、わたしたちを神と結びつけるものだからです。
『創造と救いの歴史における愛の同一性』(p.40)

 だから、愛されなくては、愛を知らなくては、愛することは出来ないのである。

 そして、私たち人間をただひたすらに愛してくれるのは神のみだというのが本書の主張なのである。


 現代に生きているわれわれは、「求める愛(エロース)」しか持っていない人々から、愛することを強制され、また命令されているように思われる。
 そして、それは「エロース」を《神聖視》してしまった結果なのかもしれない。
 だとしたら、私たちの世界は思ったより「ニューエイジ的」なのかもしれない。


「愛のわざ」について

 本書の第二部は、キリスト信者の「愛のわざ」についての実践的なアドバイスになっている。

 第一部のまとめでブログ主の力は尽きたので、この第二部は、手短に、気になったところだけピックアップしてみようと思う。

 まず、「国家」と「教会」のあり方について述べている部分から。

キリスト教にとって根本的なのは、皇帝に属するもの神に属するものの区別です(マタイ22・21参照)。すなわち、教会と国家の区別、あるいは、第二バチカン公会議が述べたように、地上の諸現実の自律です。国家は宗教を強制してはなりません。
『愛のわざ−「愛の共同体」としての教会が行う、愛の実践』(p.53)

 「国家」と「教会」は区別されるが、相互に影響を及ぼし合う関係にあるというのである。

 これは、第一部でいうところの「エロース」と「アガペー」の間にあるような関係性と言えるだろう。

 また、「国家」および「政治」の原動力は「正義」を求める心であり、「教会」および「愛のわざ」の原動力はは「愛」を与える心だと言えるのではないだろうか。

 そして、この「正義」と「愛」が互いに手を取り合っていかねばならないというのが本書の主張なのである。

 本書ではマルクス主義についても触れられている。

十九世紀以来、教会の行う愛の活動に対して反論が唱えられてきました。この反論はその後、特にマルクス主義によってますます強く主張されました。この主張がいうところによれば、貧しい人は愛ではなく正義を必要としています。愛のわざ−−施し−−は、実際には、金持ちが正義のために働く義務を逃れる手段であり、彼らの良心の負い目を取り除きます。
『愛のわざ−「愛の共同体」としての教会が行う、愛の実践』(p.50)

 しかし、本書は、世界がどんなに「理想的で公正な社会」に変革されても、「愛のわざ」は不要にはならないのだということが述べられている。

 「国家」が分け与える福祉だけでは不十分だというのである。

あらゆるものを自らが所有しながら、あらゆるものを提供しようと望む国家は、最終的には単なる官僚国家となります。この国家は、苦しんでいる人−−一人ひとりの人−−が必要とするものそのもの、すなわち、人からの親切な思いやりを与えることができません。私たちが必要とするのは、すべてのものを規制し、管理する国家ではありません。
『愛のわざ−「愛の共同体」としての教会が行う、愛の実践』(p.56-57)

 そして、「理想的で公正な社会」の実現によって「愛のわざ」が不要になるといった考え方には《唯物論的な人間観》が隠されているという。

 その《唯物論的な人間観》とは、人間が「パンだけで」生きてゆけるという人間観である。

 そして、人は「正義」だけでは生きてゆけないというのが本書の主張である。

なぜなら、人はつねに、正義だけではなく愛を必要としていますし、これからも必要とし続けるからです。
『愛のわざ−「愛の共同体」としての教会が行う、愛の実践』(p.59)

 以上が、回勅「神は愛」のざっくりとしたまとめです。

 回勅にはどんなことが書かれているのか、そのニュアンスだけでも味わっていただけたらと思って、今回取り上げてみました。
 ちゃんとしたことは、買って読んでね♪


【今回でてきた過去記事】
uselessasusual.hatenablog.com

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