ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「イスラム2.0」飯山陽著 を買った

 本書は、「イスラム2.0」というSNS時代のイスラム教を分析した本である。
 特に第七章の「イスラム教徒と共生するために」と題された章は、日本人がイスラム教徒と付き合う点で気をつけるべきことが「具体的」に記されているので、誰しも皆一読しておくべきだと思った。
 個人的には、著者が「多様性」について語っているところがおもしろく、そして共感した。

イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観 (河出新書)

イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観 (河出新書)

イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観」飯山陽(あかり)著 河出新書 2019年11月30日初版

真の「多様性」を実現するために

 本書は、SNS時代」のイスラム教を「イスラム2.0」と銘打ち、この現象を分析した本である。

 また同時に、「多様性」についても論じた本である。

 「SNS時代」のイスラム教については、同じ飯山氏の手による新書『イスラム教の論理』を取り扱った記事の方で少しばかり触れているので、今回は割愛する(過去記事『イスラム教の論理』参照)。

 今回のブログ主は、飯山氏による「多様性」の論述の方に興味があったので、そのことをメインに記事を書いてみた次第である。


 本書の冒頭部分で、飯山氏は次のように述べている。

必要なのは「シンパシー(同情)」ではなく、「エンパシー(異なる価値観を持つ他者の感情に対する理解)」です。
「はじめに」(p.9)

 「多様性」を育んでいくなかで、この言葉はとても重要だとブログ主は思った。

 昨今「多様性」なるものが声高に叫ばれているが、飯山氏は、日本的な「多様性」のあり方に疑問を感じているようなのである。

日本人はどうしても外国人や異教徒も自分たちと「オンナジ」だと信じ込む傾向にあります。
(略)
 イスラム教徒も私たちも同じ人間ではありますが、彼らが正しいと信じる規範(ルール)や価値観、世界観は私たちと全く異なります。
(略)
 日本人と同じように欲望に翻弄され、日本人と同じ価値観を持ち、「郷に入っては郷に従え」精神に同意する外国人だけを「多様性」の対象として受け入れるのであれば、それは実態としては「多様性」の拒絶であり、単なる同調圧力の押しつけにすぎません。イスラム教徒にはイスラム教徒の価値観があります。
「第七章 イスラム教徒と共生するために」(p.233ー234)

 どうやら、日本的な「多様性」なるものは、「価値観を押しつけ」ながら、同時に自己と他者の区別をあいまいにすることによって、衝突なく付き合っていこうとする処世術にすぎないようである。

 この辺を読んでいて、ブログ主の頭に思い浮かんだのは、土井健郎著の『「甘え」の構造』のことであった(過去記事『「甘え」の構造』参照)。

 それによると、「甘え」の世界とは、自己と他者が《融合》してしまった世界であり、それは自己と他者が《分離》できていない世界、つまり「他者性」が消失した世界のことであった。

 ブログ主は、この「甘え」による「自己と他者が《融合》してしまった世界」というものが、先に飯山氏が述べていた「外国人や異教徒も自分たちと「オンナジ」と信じ込む傾向」と同義であるのではないかと思ったのである。

 著者の飯山氏は、自分と異なる価値観を持つ他者を見いだすこと、つまりは自己と他者の「差異」を明確にすることの重要性について、次のようなことを述べている。

「多様性」のある社会の実現は、私たちとは「全然違う」価値観を持つ人々の存在を受け入れる覚悟なしには不可能なのです。
(略)
 これはストレスと伴う極めて知的な営為です。しかしこれなしには、「多様性」社会はうんざりするほど面倒と問題が多いだけの単なる衝突多発社会になります。イスラム教徒だけではなく様々な背景を持つ他者を根拠なく自分たちと「オンナジ」だと勝手に決めつけ、その差異に目を瞑ることは、知的怠慢であるだけでなく、「オンナジ」ではないとわかった瞬間に他者の排斥に走る危険性を秘めてもいます。
「第七章 イスラム教徒と共生するために」(p.235)

 飯山氏が指摘しているように、「オンナジ」による多様性、自己と他者の《融合》による多様性では、確かに全くダメなのだと思うのである。

 『「甘え」の構造』の著者である土井健郎氏も、「甘え」は必要な感受性だが、同時に「甘え」は超克しなければならないものでもあると述べていた。

 だから、真の「多様性」を実現するためには、自己と他者との《分離》が必要であり、そして自分と異なる他者を理解することが必要だということだろう。


「オンナジ」と「アイデンティティ危機の時代」

 また、「オンナジ」による多様性、自己と他者との《融合》による多様性は、やがて行き詰まり、それは同時に「アイデンティティ危機の時代」を呼び起こすのではないか、そんなことをブログ主は本書を読みながら考えていたのである。

 飯山氏は次のように述べている。

 イスラム2.0時代は、アイデンティティ危機の時代でもあります。
 近代以降のイスラム教徒のほとんどは、世俗法が適用されている近代国家の国民としてこの世に生まれます。そうである以上、その国の法を遵守する義務を負わざるをません。また彼らの多くは、現代の消費文化にどっぷりと浸った日常生活を送っています。
(略)
イスラム2.0へのアップデートが進み、啓示に親しめば親しむほど、近代国家の国民であることも、消費文化にどっぷり浸った生活を送っていることも、自分を取り巻く全てが神の命令に反する罪深いものであるかのように思えてくるからです。真に正しいイスラム教徒として生きるためには、それらの全てを捨て、それこそ「イスラム国」入りするような方向性以外に何か道はないのか・・・・・・。
「第一章 イスラム2.0時代の到来」(p.120)

 本書を読みながら考えたのは、「甘え」が少ないと考えられている「西洋」の方であっても、イスラム教徒は、「オンナジ」による多様性によって遇されてきたのではないだろうか、ということ。
 そして、それによって、イスラム教徒から「アイデンティティ」が失われてしまったのではないだろうか、ということであった。

 また、日本は「甘え」の文化の影響を受けているが、西洋は「ニューエイジ(特にホリズム)」的なものの影響を受けているのではないだろうか、そんな愚にもつかないことも頭をかすめたのである(過去記事『ニューエイジにおけるキリスト教的考察』参照)。


「らしさ」を求めて

 そして、本書を読みながら、頭の隅にあったのは、以前取り上げた『ソレルのドレフュス事件』という本のことであった(過去記事『ソレルのドレフュス事件』参照)。

 「ドレフュス事件」なるものは、「ユダヤ人」を差別する反動勢力(政府、軍部など)に対して、正義の側(新聞、知識人など)が華々しく勝利したエポックメーキングな出来事として一般には知られている事件である。

 しかし、『暴力論』を著したジョルジュ・ソレルは、冤罪をかれられた「ユダヤ人」将校ドレフュス擁護の側に立ちながらも、味方であるはずの「知識人」たちに終生かわらぬ嫌悪感を抱いていたという。

 というのも、ソレルが、ドレフュス派のブルジョワたちに、「価値観を押しつけ」ようとする厚かましい支配欲を感じていたからだという。

 ソレルは、民衆に「価値観を押しつけ」、民衆特有の「らしさ(=アイデンティティ)」を失わせようとする支配力(フォルス)に嫌悪感を抱いていたのである。

 そしてソレルは、この「らしさ」を失わせようとする「支配力(フォルス)」を打ち負かすものとして「暴力」を打ち出したのだという(ちなみに、ソレルの言う「暴力」とは、上からの抑圧的・支配的な力(フォルス)に抵抗する絶対的な「拒否」の意志の表明であり、その意志の力なのだそうな)。


 で、先の話に戻るが、ブログ主が本書を読みながら妄想していたのは、現代の西洋社会で生きる「イスラム教徒」から、この「らしさ(=アイデンティティ)」が失われてしまっていたのではないか、ということであった。

 西洋社会で生きるイスラム教徒、「彼らの多くは、現代の消費文化にどっぷりと浸った日常生活を送って(p.120)」おり、不可避的に西洋社会に同化してしまった彼らは「らしさ」を求めて「イスラム教」に回帰したのではないだろうか。

 けれども、ブログ主的には、彼らが取り戻した「イスラム教徒らしさ」は、きわめて観念的なもののように思われ、それはちっともイスラム教「らしく」ないし、同時にその人「らしく」もないと思うのである(キリスト教の場合でも、キリスト教徒「らしく」しようとするとかえって妙な感じになるし、自分を偽ってしまうものである)。

 「らしさ」とは、本来カタヒジのはらないもの、自然的なものあると思うのである。
 そして、ムリヤリ自分のものにした人工的な「らしさ」は、ちっとも「らしく」はないと思うのである。

 オシマイ



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