「悪について」エーリッヒ・フロム著 はこんな本だった
本書において、著者のエーリッヒ・フロムは、悪の真髄を「衰退のシンドローム」と銘打ち、それはネクロフィリア(死への愛)、悪性のナルシシズム、近親相姦的共生の三要素から構成されていると述べている。
そしてこの「衰退のシンドローム」と対抗するものとして、バイオフィリア(生命への愛)、隣人・他人への愛、独立心の三要素からなる「成長のシンドローム」を挙げている。
「悪について」エーリッヒ・フロム著 渡会(わたらい)圭子訳 ちくま学芸文庫 2018年1月10日初版悪について
フロムは、「悪」の真髄とは、次のようなものだと述べている。
ここで人間の性向のなかで、もっとも堕落し危険な形態の基本をなすと思われる、三つの現象を選んでみよう。それらは死への愛、悪性のナルシシズム、そして共生・近親相姦的固着である。これら三つの性向が組み合わされると“衰退のシンドローム”が生じ、人を破壊のための破壊へ、憎悪のための憎悪へとかりたてる。
「第一章 人間」(p.20)
この「衰退のシンドローム」なるものこそが「悪」の真髄である、とフロムは言うのである。
またフロムは、「善」の核心とは、次のようなものだと述べている。
“衰退のシンドローム”の対局にあるものとして、私は“成長のシンドローム”を説明しようと思う。これは生への愛(死への愛の反対)、人間への愛(ナルシシズムの反対)、そして独立(共生・近親相姦的固着の反対)からなる。
「第一章 人間」(p.20)
この「成長のシンドローム」なるものによって、「悪」は克服されるのだ、とフロムは言うのである。
ネクロフィリア(死への愛)
ネクロフィリアとは、もともと「死者を愛する」という意味であるという。
ネクロフィリア的な傾向を持つ人間は、死んでいるものすべて(例えば死体、腐敗物、排泄物、汚物など)に心惹かれているのだという。
また、ネクロフィリアは次のような特徴も併せ持つという。
彼は子宮という闇、そして無機的、動物的な存在だった過去に戻りたいという気持ちを持つ。彼は基本的に過去を向いていて、憎み恐れる未来を向こうとしない。
「第3章 死を愛すること 生を愛すること」(p.47)
ネクロフィリア的な人が、未来を向こうとしないのは、「確実なもの」を求めてやまないからである。
だから彼らは、予測不能な生を愛することができず、確実である死を愛するのである。
このようなネクロフィリアに対立するのが、バイオフィリア(生命への愛)である。
バイオフィリア的な傾向を持つ人間は、生きることを愛し、生のプロセスと成長に惹きつけられるのだという。
そして、バイオフィリア的な人は、「確実なもの」よりも冒険の方を愛しているのである。
わたしたちの内面には、ネクロフィリア的な傾向とバイオフィリア的な傾向の両方が存在しているのだという。
フロムは言う。
重要なのは、その傾向の「有無」ではなく、どちらの傾向が「優勢か」という点にあるのだ、と。
だから、わたしたちは自分の中のネクロフィリア的な傾向に対する「自覚」と「理解」が必要だと言うのである。
また、フロムは次のようなことも述べている。
子どもの生への愛を育てるために何より重要な条件は、生を愛する人と一緒にいることである。生への愛は、死への愛と同じように伝染しやすい。それは言葉や説明なしに、そしてもちろん生を愛さなければならないという説教をしなくても伝わる。思想よりもしぐさに、言葉よりも声の調子に表れる。
「第3章 死を愛すること 生を愛すること」(p.60-61)
ああ、ブログ主もそんな人と一緒にいたかった・・・・・・。
ナルシシズム
人間というものは、幼児期にはナルシシズムの状態にあって、現実は「自分だけ」であり、「外部の世界」はまだ現実として認識されていない。
けれども、成長し大人になっていくにしたがって、そうした「自分だけ」の状態から脱していくのだという。
個人の発達とは、絶対的なナルシシズムから、客観的な論理的思考と、対象を愛する能力への進展と定義できる。
「第4章 個人と社会のナルシシズム」(p.81)
つまり、大人になるってことは、自己のナルシシズムを克服していくってことなのだろう。
そして、ナルシシズムの「病理的」な要素の一つは、批判を悪意のある攻撃だと信じこんでしまう点にあるという。
ナルシシスティックな人は、批判されると激しく腹を立てる。
(略)
その怒りの激しさを完全に理解するためには、ナルシシスティックな人は世界と関わらず、その結果、孤独でありおびえていることを頭に入れておく必要がある。この孤独と恐怖の感覚を埋め合わせるのが、ナルシシスティックな自己肥大化である。彼が世界なら、外部には彼を脅かす世界はない。彼がすべてなら、彼は孤独ではない。したがってナルシシズムが傷つけられたとき、彼は自らの全存在が脅かされたと感じる。恐怖から身を守ってくれるはずの自己肥大化が脅かされたとき、その恐怖が噴出し、激しい怒りがもたらされることになる。
「第4章 個人と社会のナルシシズム」(p.98)
ナルシシスティックな世界は、非常にモロい世界なようである。
だから、その世界が少しでも傷つけられたと感じたとき、彼はその批判者を過剰に攻撃するか、もしくは自分自身の方を破壊してしまうのだという。
フロムは、限度を超えない良性のナルシシズムは必要かつ有用な性向であるが、それでも理性や愛とは相容れないものだ、と述べている。
そしてフロムは、仏教の教えにあるように「人間の目的は自己のナルシシズムを克服すること」にある、と主張するのである。
仏教の教えにおける“目覚めた人”とは、自らのナルシシズムを克服し、そのため完全に自覚することができる人のことである。
「第4章 個人と社会のナルシシズム」(p.119)
自らのナルシシズムを克服していかないと、「成長のシンドローム」の要素の一つである「隣人・他人への愛」は発達していかないようである。
近親相姦的共生
子どもばかりでなく、大人もまた悩み多き人生において保護してくれる「母なるもの」を探しだそうともがいているのだという。
けれども、同時に大人はこの「失われた楽園」が見つからないということも理解しており、「独立」してやっていくしかないということも分かっている。
こうして人は、生まれた瞬間から二つの方向性の板挟みになっている。一つは光に向かっていくこと、もう一つは暗い子宮へと戻ることだ。冒険を求めることと確実を求めること。独立の危険を受け入れることと保護および依存を求めること。
「第5章 近親相姦的な結びつき」(p.134)
大人が、光に向かっていくことの方を選べればいいのだが、暗い子宮に戻ることの方を選んでしまうと、それはやがて「近親相姦的共生」という状態に陥ってしまうのだという。
おそらくこの共生的な結合をたとえるのにいちばん適しているのは、母親と胎児の関係だろう。胎児と母親は二つでありながら一つでもある。
「第5章 近親相姦的な結びつき」(p.143)
このように共生的に結びついた人々は、お互いに混じり合いながら一体となり、個としての自分を完全に失ってしまっているのである。
そして、フロムは、この「近親相姦的共生」の特徴を次のように述べている。
近親相姦的固着はナルシシズムと同じように、理性や客観性と相いれない。もし私がへその緒を切れなかったら、確実さと保護を与えてくれる偶像崇拝を続けたら、その偶像は聖なるものになり、それに対する批判は許されなくなる。もし“母”に間違いがないとしたら、“母”と対立したり、非難されたりしている人を、どう客観的に判断できるだろう? 固着の対象が母親ではなく家族、国家、民族の場合、このようなかたちで判断に支障をきたしていることが見えにくくなる。そのような固着は美徳とみなされており、とりわけ国家や宗教への強い固着は、いとも簡単に偏って歪んだ判断へとつながる。
「第5章 近親相姦的な結びつき」(p.146)
「成長のシンドローム」の要素の一つである「独立心」が欠けていれば、どんな宗教も「依存」的なもの、偶像崇拝的なもの(アガペー的なものではなくエロース的なもの)になってしまうようである。
人間の本質は「葛藤」である
人間の本質とは、「悪」なのであろうか。
それとも、「善」なのであろうか。
フロムは、善か悪かといったことが、人間の本質なのではないのだという。
人間の本質とは「葛藤」、善と悪との間で生じる「葛藤」なのだとフロムは言うのである。
フロムは、善とか悪とかいったものは、この「葛藤」の末の答えにすぎないのだという。
そして、その「答え方」には二種類あるという。
ひとつは「退行的な回答」であり、もうひとつは「前進的な回答」である。
「退行的な回答」の特徴は、孤独と不確実性という恐怖から解放されることを何よりも望み、自分というものを捨て去って全体と一体化することによって「調和」を保とうとすることである。
一方で、「前進的な回答」の特徴は、自分のヒューマニティを発達させることによって、つまり完全に人間らしくなることによって、新たな「調和」を発見しようすることである。
フロムは次のようなことを述べている。
悪とはヒューマニズムの重荷から逃れようとする悲劇的な試みのなかで、自分を失うことである。
「第5章 近親相姦的な結びつき」(p.208)
わたしたちが、その人間性(愛、理性、自由)を守るためには、孤独と不確実性の恐怖を受け入れなければいけないようである。
おしまい