ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「反復」キルケゴール著 はこんな本だった

 ものの捉え方には「追憶」と「反復」の二種がある。
 「追憶」は、人の世を「観察者」として生きることである。
 「反復」は、人が「当事者」として生まれ変わり、人の世を生きることである。
 そして「反復」は、『ヨブ記』のヨブが見舞われたように、苦しみという「試練」を通してのみ達成可能なものであり、同時に「宗教的」なものである。

反復 (岩波文庫)

反復 (岩波文庫)

「反復」キルケゴール著 桝田啓三郎訳 岩波文庫 1956年4月5日初版 1983年6月16日改訳発行

本書の構成

 この「反復」なる書物は、キルケゴールが「コンスタンティン・コンスタンティウス」という偽名で出版した本である。

 そしてこの「反復」は、コンスタンティン・コンスタンティウスなる人物の「私小説」みたいな形で展開していく。

 「反復」は、三つのパートに分けることができる。
 第一のパートは、コンスタンティン君の手記である。
 第二のパートは、青年がコンスタンティン君に宛てた手紙から成っている。
 第三のパートは、再びコンスタンティン君による手記となる。



第一部 コンスタンティン君による第一の手記

 第一のコンスタンティン君の手記では、一人の青年との出会いのことが語られている。

 コンスタンティン君曰く、この青年はメランコリックな気質を持ち合わせた「詩人肌」で眉目秀麗な若者なんだそうな。

 そして、メランコリックな青年は、コンスタンティン君に自分の「恋の悩み」を打ち明け、でもってその青年の憂鬱な恋バナを聞いたコンスタンティン君は、悩める青年にあれこれとアドバイスをするのである。
 コンスタンティン君は、こと女性に関してはジゴロばりの手練れであるらしい。
 ちなみにコンスタンティン君は、自分自身のことを「散文的」な人間であり、「観察者」にすぎないと分析している。


 メランコリックな青年の「恋の悩み」っていうのは次のようなものであった。
 自分は、熱烈に恋人を愛している。
 けれども、彼女を女神とみなし崇めれば崇めるほど、どんどん現実の彼女が物足りない存在になってきてしまう。
 もはや出会った頃に感じていた心の充足感はない。
 だから、このまま恋人に満足している「フリ」をして関係を続け、そして結婚するよりも、恋人の心と世間体を傷つけることに違いないが、別れてしまった方が「誠実」な行為だといえるのではなかろうか......ってな感じの悩みである。

 そして「詩人肌」の青年は、彼の女神に別れを告げよか告げまいか日々思い悩んで、コンスタンティン君の家を日参するのである。

 「観察者」であるコンスタンティン君は、この悩める青年の恋を次のように分析している。

それだのに、彼は最初の日からもう彼の恋を追憶できる状態にある。つまり、彼は恋愛関係をすでにすっかり完了しているのである。始めるときおそろしく大股に歩いたために、彼は人生を飛び越してしまったのだ。(p.18)

 ここに出てきた「追憶」という言葉は、「反復」と同様、本書におけるキーワードとなる言葉である。
 そしてコンスタンティン君は、青年の恋を「追憶の恋」と断定するのである。
 どうやら、「追憶の恋」しか知らない青年は、「観察者」の目でしか恋人を認識できなかったようである。


 こうしたウジウジと煮え切らない青年の恋バナを聞くうちにを、ジゴロであるコンスタンティン君は、次のような提案をするのである。
 「卑劣漢を装って、別の女性に心奪われたフリをして、彼女の方から彼を捨てさせればよい。そうすれば、世間的には否は青年の方にあるので、彼女の面目は守られる」という、繊細な青年にはちょいとばかり酷な提案である。

 そして、この計画は粛々と準備が整えられたが、いざ本番というときになって青年は怖じ気づいてしまい、コンスタンティン君の前から姿を消してしまうのである。

 そして、青年に逃げられてしまったコンスタンティン君は、「追憶の恋は人を不幸にすることしかできない」と詠嘆し、この青年が「反復」できていたら別の結果になっていたのにね、と断ずるのである。


 では、「追憶」とは何であろうか。
 そして、「反復」とは何であろうか。

 コンスタンティン君は、「追憶」と「反復」について次のようなことを語っている。

ギリシア人が、すべての認識は追憶である、といったとき、彼らはそれによって、現に存在するところの全存在は現に存在していたのである、といおうとしたのである。
人生は反復である、といわれるとき、それは、現に存在したことのある現存在が今や現存在となる、ということを意味する。(p.45)

 この「わかるよな、わからぬよな」頭がこんがらがる記述によって、コンスタンティン君が何を言いたかったのかというと、今回使用した岩波文庫版には訳者の桝田啓三郎氏が丁寧な解説をつけているので、岩波文庫版を手に入れた人にはそれが参考になるだろう。

 本記事ではブログ主なりにサクッと説明してみる。

 コンスタンティン君曰く、「追憶」は異教徒的な人生観なんだそうな。

 「異教的(上記引用でいう「ギリシア人」)」な認識は、旧約聖書にある『コヘレトの言葉』と共通する概念であると思われる。

コヘレトは言う。なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい。
(略)
かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
「コヘレトの言葉」(1:2および1:9)

 つまり、達観した「観察者」である「異教徒」は、人の世で起こるすべての出来事を、「過去」にあった出来事の「繰り返し」として認識しており、それを空しいことと嘆いてみせるのである。

 そして、この人の世の出来事を「過去」のものとみなす、そして、人の世はかつてあった出来事の単なる「繰り返し」にすぎないとみなす、「後方」に向かう性質の認識が、「追憶」なのである。

 いうなれば、「追憶」とは、人の世を「観察者」として生きることだといえよう。

 この状態は、『死にいたる病』風にいえば、「積極的に関係しようとしない状態」であり、自己不在の状態であると思われる。


 一方で、コンスタンティン君曰く、「反復」は現代的な人生観なんだそうな。

 桝田氏の解説によると、前引用の《現に存在したことのある現存在が今や現存在となる》にある「現存在」とは「キリスト」のことを指しているのだという。

 つまり、《現に存在したことのある「キリスト」が今や現存在となる》ということである。

 つまり、キリストを信じる者にとっては、過去に存在した「キリスト」は、常に共にある存在であり、「現にある」ものである、ということである。

 このように「反復」なる認識は、「信仰」と深く関わった認識であり、かつ「前方」へ向かう認識だという。
 そしてそれは「生まれ変わること」、「再生」や「新生」といったことを意味しているのだと思われる。

 いうなれば、「反復」とは、人の世を「単独者」として生きることだといえよう。

 この状態は、『死にいたる病』風にいえば、「積極的に関係している状態」であり、本来の自己でいられる状態であると思われる。



 このように、「反復」について一通り語った後、コンスタンティン君は、自分自身の「反復」を実現するためにベルリンに行ってみたのさ、という話をし始める。

 で、コンスタンティン君は、演劇などの「外的な刺激」によって「反復」を実現しようとしてみたけど、その企てはすべて失敗に終わってしまったのよ、と告白するのである。

 コンスタンティン君の「新しく生まれ変わる」という夢は夢で終わった。

今その夢から目覚めてみると、人生が反復を許さぬようにして与えている一切のものを、わたしは人生をして不実にも強いて反復させようとしていたように思われる。(p.90)

 こうして、「反復」のすばらしさを語るコンスタンティン君自身も「追憶」することしかできない人間であることが明らかになったのである。

 「反復」なる認識は、手練れのコンスタンティン君にとっても、あまりに「超越的」であったのである。



第二部 青年からの手紙

 しばらくの後、失踪した青年からの手紙が届くようになる。

 筆まめな青年は、月一の間隔でコンスタンティン君宛に手紙を送り、それが全部で七通にも及ぶのである。

 そして、この手紙で青年が熱く語っているのは旧約聖書の『ヨブ記についてである。

 ちなみに、この『ヨブ記』は、拙ブログで以前に取り上げた教皇書簡『サルヴィフィチ・ドローリス 苦しみのキリスト教的意味』のメインテーマにもなっているのである。

 『サルヴィフィチ・ドローリス』には、この『ヨブ記』が簡潔にまとめられている記述があるので、そこを引用しておこう。

どのような過失もなかった義人が、数えきれない苦しみを受けて試される物語はたいへん有名です。ヨブは自分の財産、息子、娘たちを失い、最後に自分自身が重い病気に見舞われます。この恐るべき状況の中で、三人の友人がヨブの家に来ます。一人ひとりがそれぞれヨブの家に行って、ヨブは恐るべきさまざまの苦難に襲われたのだから、《重大な悪を何か犯しているにちがいない》ということをヨブに認めさせようとします。なぜなら、苦難はいつも罪に対する罰として下される−−と彼らは言うのですが−−絶対の正義の神によって送られ、正義の秩序に従って、その理由が見つけ出されるというのです。ヨブの友人たちは、悪の道徳的正義を《彼に確信させる》だけでなく、ある意味で、彼らは苦しみの道徳的意味を自分たちに向けて《正当化》しようとしました。彼らの目には、苦しみは罪に対する罰としてのみ意味を持ちました。善には善を、悪には悪を報いられる神の正義の面だけで見たわけです。

 けれども、ヨブは「苦しみを罪に対する罰として見るやりかた」と最後まで戦う。そして、後に神自身が認めるように、ヨブは何ひとつ悪いことをしていないのである。
 これが『ヨブ記』の大まかな流れである。

 恋人の前から遁走した青年は、この『ヨブ記』を読んで感銘を受けるのである。
 自分にはどのような過失もなかったはずなのに、ただ熱い熱い恋をしただけなのに、今はこんなにも打ちひしがれて不幸になっている。
 おそらくそんなところから、青年はヨブに共感したのであろう(たぶん)。

 青年は手紙に次のようなことを書いている。

自分が罪を犯したから不幸に見舞われるのだと考える人があれば、それはいかにも美しく、真実であり、謙虚なことでしょう。しかしそういう考え方が生まれるのは、その人が漠然と神を暴君と見なしているからかもしれません。これは、その瞬間にその人間が神を倫理的な規定のもとに入れていることを表わすもので、愚かしいやり方です。(p.159)

 『サルヴィフィチ・ドローリス』にも詳しく書かれているが、苦しみを罰としてみる一般的なものの捉え方とは違って、本来のキリスト教的な教えでは、苦しみは「試練」として、そして「あがない」としてやってくるものなのである。

 青年は次のようなことも書いている。

「試練」というこの範疇は、美的でも、倫理的でも、また教義学的でもありません、それはまったく超越的です。(p.164)

 青年が「超越的」だと述べているのは、人間が、この「試練」によって、ヨブのように孤立し、そしてまたこの「試練」によって、神の「観察者」から抜け出して神の前にただ一人立つ「単独者」となるからだろう(たぶん)。

 であるから、コンスタンティン君が試したような単なる「外的な刺激」によっては、「単独者」になれないのである。
 ただ、苦しみという「超越的な試練」を通してのみそれが可能なのであろう。
 そして、人が「単独者」となったとき、ついに「反復」が可能となるのである。


 青年は六通目の手紙に次のように書いている。

雷雨というものはなんと効験(ききめ)のあるものでしょう! ふつう人間は、懲らしめを受けると、とかく頑なになりがちのものですが、神の裁きがくだると、人間は自分自身を失い、自分を慈しみ育てようとする愛を感じて、苦痛を忘れます。(p.167)

 「雷雨」とは、おそらく「超越的な試練」のことであろう。
 青年は、自分自身を一新させるような「試練」を、神の前にただ一人立てるようになる「試練」を待ち望んでいるのである。


 そして青年は、最後の七通目の手紙で「雷雨」を待ち望みながら次のようなことを書いている。

この雷雨はどんな効験を表すことでしょうか? それはぼくに夫となる資格を与えてくれるでしょう。それはぼくの全人格を搗(つ)き砕くでしょう、ぼくは覚悟しています、(p.172)

 桝田氏による解説等を読んでみると、あんなに嫌がっていた恋人との結婚が可能になるのは、青年の愛が「追憶」主体のものから、「反復」主体のものに変容するからのようである。

 そして、彼女と共に生きることが可能となる「反復」を待ちわびるこの七通目の手紙を最後に、青年からの手紙は途絶えるのである。


 ......青年からの手紙が途絶えてから3カ月後。
 コンスタンティン君のもとに、再び青年からの手紙が届くのである。八通目の手紙が!

 わが沈黙の共謀者よ!
彼女は結婚しました。誰と結婚したのか、ぼくは知りません。それを新聞で読んだとき、ぼくは卒中にでもおそわれたような気がして、思わず新聞をとり落とし、それ以来、その先を読んでみるに堪えないからです。ぼくはふたたびぼく自身です、いまぼくは反復を得たのです、ぼくは一切を理解します、人世はかつてないほど美しくぼくの目に映ります。はたしてまるで雷雨のように襲ってきました、(p.182)

 どうやら、恋人の結婚、青年の失恋が、青年にとっての「雷雨」となったようである。
 しかし、あれほど望んでいた「反復」を得ても、恋人と結婚することだけはかなわなかった。

 けれども、手紙の中の青年は生き生きとしており、喜びに包まれているようである。

ぼくはふたたびぼく自身です。ほかの人なら街路にころがっていても拾い上げそうもないこの「自己」を、ぼくはふたたび手に入れました。ぼくという人間のなかにあった分裂は除かれました、ぼくはふたたびぼくを繋ぎ合わせます。ぼくの誇りを支柱にし栄養としていた同情の不安は、もはや侵入してぼくをひき裂き分裂させるようなことはありません。(p.183)

 「単独者」となれた青年は、ずーっと見失っていた本来の自己というものを、ふたたび手に入れたようである。
 そして、青年は「万歳、万歳、万歳」と書き散らし有頂天になって手紙を締めくくるのであった。



第三部 コンスタンティン君による第二の手記

 「わたしの親愛なる読者よ!」という唐突なこちら側への語りかけで、この手記は始まる。

 でもって、コンスタンティン君は、ヨブを「例外」と呼び、ヨブ記の解説をいろいろと語る(「例外」と呼ぶのは、ヨブが「苦難は罪に対する罰として下される」とする一般的なものの見方には当てはまらない「例外」だからである)。

 そして、コンスタンティン君は次のように述べる。

こういう例外が詩人なのです。詩人は本来の貴族的な例外への、宗教的な例外への橋渡しをするのです。詩人というものは一般に例外です。
(略)
わたしが創り出したあの青年、あれは詩人なのです。(p.195)

 ここにきてコンスタンティン君は、「あの青年はわしが育てた」を胸を張る。

 コンスタンティン君は、自分が青年の相談にのって、そして「卑劣漢になれ」なんていう酷いアドバイスをして、青年を深い困惑のうちに貶め、青年を追いつめていったのは、「わざと」であり、「衝撃」を強めるためであり、それによって青年に「反復」を与えようという趣向であったのだ、と種明かしをするのである。
 つまりコンスタンティン君は、『ヨブ記』でいうところの、余計なアドバイスをしてヨブを孤立させる「ヨブの友達」役を買って出ていたといえるだろうか。


 また、コンスタンティン君は、次のようなことも述べている。

わたしの詩人は、いわば、自分自身を破滅させようとしたその瞬間に、人世から赦免されて、からくも正当な権利を与えられます。こうして彼の魂は宗教的な色調を帯びてきます。この色調は、けってし発現するにはいたりませんが、もともと彼を担っているものなのです。最後の手紙に見られる彼の熱狂的な歓喜はそのひとつです。思うに、あの歓喜は疑いもなく宗教的な気分にもとづいています、もっともそれは内面性にとどまってはおりますけれども。(p.197)

 青年の師匠を自認するコンスタンティン君は、現在の弟子の状態を分析するのである。
 青年は「詩人」としては生まれ変わって「反復」している状態だけれども、「宗教的」な面においては、萌芽は認められるもののまだ生まれ変わってはおらず、完全な「反復」の状態には達していない、と。

 これは一体どういことであろうか。
 『サルヴィフィチ・ドローリス』によると、苦しみには「試練」の次元と「あがない」としての次元があるという。

 「試練」の次元は、ヨブが受けたような不条理な苦しみである。そして、神がある人に「試練としての苦しみ」を与えるのは、彼を《回心》に導くためだというように書かれている。
 この辺りを本書風に言えば、ある人を神の前にただ一人立つ「単独者」にするために「試練」を与える、ということができるだろう。

 一方で、「あがない」の次元はといえば、それが「キリストの受難」と結びついている。
 そして、この次元が、コンスタンティン師匠のおっしゃる「宗教的」な生まれ変わりとも結びついてくると思うのだが、どうだろうか?
 青年が、この「あがない」の次元に達して、苦しみの中にキリストを見いだす段階にくれば、そのとき青年は、神の前に立つ「単独者」であるばかりでなく、キリストと共に苦しみを担う「信仰者」になるのではなかろうかと思う(たぶん)。

 青年はまだ「単独者」になれたことに喜んでいる段階であり、浮き足立っている段階なのであろう。


 そして、コンスタンティン君は、次のようなことを述べて、この第二の手記をしめてるのである。

わたしの親愛なる読者よ! これでおわかりでしょうが、関心の中心はあの青年なのです、それにひきかえ、わたしはまことにはかない役柄で、自分の生み落とした子供に対する産婦のようなものです。(p.201)

 青年が成功したのは、青年が「詩人」だったからであり、私コンスタンティンは、そのことを見抜き、見事に青年を育て上げることができた......けれども、私コンスタンティン自身は、とてもとても青年のようにはいかないのだと述べて、師匠は肩をすくめてみせるのである。




最後までお読みくださり、ありがとうございました。


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