ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「おそれとおののき」キルケゴール著 はこんな本だった

キルケゴールの「おそれとおののき」を図説付きで解説。

 アブラハムは、神から祝福を受け、子孫の繁栄と豊穣な土地を約束される。けれども神はアブラハムに息子イサクをささげることを要求する。「信仰の騎士」アブラハムは、その要求に従って息子イサクを殺そうとする。
 アブラハムは、「子への愛」と「神への愛」との間で心が引き裂かれそうになるが、それでも神を信じ、「神への愛」の方を選択するのである。

「おそれとおののき」キルケゴール著 桝田啓三郎訳 「キルケゴール著作集第5巻」より 白水社 1962年12月10日初版

厨二病

 本書は、キルケゴールが「沈黙のヨハンネス」という厨二病センスのペンネームで出した本である。

 この書において、ヨハンネス君は、現代社会において、完全に冷めきってしまっているキリスト教の信仰を、再び情熱あふれる生き生きとしたものに復活させようと試みているのである。


アブラハムの物語

 本書では、旧約聖書の創世記にある「アブラハムの物語」がメインテーマとなっている。
 その話を要約すると次のようになる。

 ある日、神はアブラハムに次のように約束した。
 「おまえが自分の父祖の土地を去り、私が示す土地へと行くのであれば、私はおまえを祝福し、おまえに豊かな子孫と豊かな土地を与えよう」と。

 そして、アブラハムはこの神の約束を信じ、慣れ親しんだ土地を捨て去り、そして見知らぬ世界へと旅だった。

 アブラハムはあちこちを放浪するが、なかなか子供は産まれないし、約束の地にも到着しない。それでもアブラハムは神の約束を信じつづけ、旅もつづけた。

 そんな中、年老いた妻サラが身ごもり、ついにイサクという一人息子が生まれる。アブラハムは大宴会を開くほど大いに喜ぶが、そんなアブラハムを神は試みられる。

 ある日、神はアブラハムに言う。
 「おまえの息子イサクを連れて、モリアの地に行き、その山の上で息子イサクをいけにえとしてささげよ」と。

 そして、アブラハムは、愛する息子イサクを連れて、神の示した山へと旅立つ。誰にも何も語らずに。

 途中でイサクが「いけにえの小羊はどこにあるのですか?」と尋ねるが、アブラハムは「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」とだけ答える。

 神の示した場所に着くと、アブラハムは息子イサクを縛り、いけにえにささげようとして剣を手にする。

 その時、神の使いの声が聞こえる。
 「待て、子供に手をかけるな。おまえが一人息子さえ私のためには惜しまないということがわかった。だから私はおまえを祝福し、おまえの子孫を空の星のように増やし、おまえの子孫によってすべての地の民は祝福されるだろう」と。

 アブラハムが目を上げると、そこにやぶに角をひっかけた雄羊がいたので、アブラハムをその羊を息子の代わりにいけにえにささげた。

 これが本書のテーマになっている「アブラハムの物語」である。


現代の説教者と粗忽者の話

 沈黙のヨハンネス君は、現代のキリスト教の信仰が冷めきったものになっていると嘆いてみせる。
  その一例として、現代の説教者もまた、信仰の父アブラハムを讃えているが、その讃えている点がてんでズレている、ということを指摘するのである。

 現代の説教者は、「信仰の騎士」であるはずアブラハムを、あたかもギリシア神話に出てくる「悲劇的英雄」であるかのように賞賛してしまっているのだ、とヨハンネス君は憤るのである。

 確かに「悲劇的英雄」なる人物もまた、アブラハムのように愛する子を犠牲にささげてはいるが、アブラハムにあって「悲劇的英雄」にないもの、それは「信仰」である。

 そして、ヨハンネス君によれば、アブラハムがすばらしいのは、彼が「悲劇的英雄」と同じように「子への愛」を諦めた点にあるのでないのである。
 そうではなく、アブラハムの「信仰」そのものが重要なはずである。
 また、アブラハムの「信仰」を洞察していくことは、アブラハムの「おそれとおののき」にも目を向けることである。

 そして、ヨハンネス君は言うのである。
 もし、かの説教者の聴衆のなかに、そそっかしい人間がいたら、大変なことになっていたろうと。
 この粗忽者は、アブラハムのように偉大な者になろうとして、家に帰るなり、我が子を手に掛けるかもしれないと。
 こんなアホらしいことが起こるのも、現代の信仰が冷めきっており、現代人がアブラハムのなんたるかを全く理解できていないからだとヨハンネス君は憤るのである。

 では、アブラハムの「信仰」とは、一体どういったものなのだろうか。


信仰と未来

 キリスト教における「信仰」とはどういうものか、本書を読み進める前に、まず、前教皇ベネディクト十六世がヨゼフ・ラツィンガー時代に書いた『信仰と未来』から「信仰」について述べた部分を取り上げておこう。
 そこには次のようにある。

信仰もそういう人物に見受けられるところでは一種の情熱なのです。より正確にいえば、人間をとらえ、たとえ行くことが困難であっても、行くべき道を示す愛であります。俗物にはバカげたことと見えても、冒険に一身を捧げたものにとっては、どんな安楽とも取り替えたくない唯一の道と見える登山なのです。
「第二章 信仰と実存」(p.28)

 『信仰と未来』によれば、キリスト教の「信仰」とは、アブラハムがそうであったように、神を信じて、慣れ親しんだ土地を捨て去り、神が示した地へと向かって旅することであり、つまりそれは、未知へと向かっていく「冒険」のようなもの、または神のもとへと登っていく「登山」のようなものだというのである。

 ヨハンネス君は、アブラハムの「信仰」の特徴を次のように挙げている。

もし神がイサクを要求されるならば、彼はいつでもイサクを喜んでささげるつもりであったが、神はイサクを彼に要求したまわぬであろうことを彼は信じていた。彼は背理なものの力によって信じていた、そこでは人間的な打算などのかかわる余地はありえなかったのだ。
「序想」(p.60)

 これは、アブラハムは、「神の要求」を受け入れて、「少年イサク」をささげるつもりであったが、同時にアブラハムは「神の約束」を信じており、「青年イサク」の繁栄を確信していたということであろう。

 このように、アブラハムによる「現在」の放棄(イサクをささげること)と、アブラハム「未来」への確信(イサクの繁栄)は、対立する概念であり、矛盾するものであるが、それでもアブラハムは、「イサクをささげること」を通して「イサクが繁栄すること」を「彼は背理なものの力によって信じていた」というのである。

 この矛盾は、アブラハムの「子への愛」と「神への愛」においてもあらわれた。
 そして、この二つの愛が、相反するものになったとき、アブラハムは「不安」を感じたのである。
 ヨハンネス君は言う。

アブラハムの物語に見落とされているのは不安なのである。
「序想」(p.47)

 アブラハムにおいて、「現在」と「未来」、「子への愛」と「神への愛」が対立するものとなり、その時アブラハムは「不安」になったのである。

 では、「不安」に陥ったアブラハムはどうしたか。

 先に取り上げた『信仰と未来』には次のような記述がある。

私たちの信仰のそれでもあるアブラハムの信仰をなしているのはなんでしょうか。さて今私たちは、この信仰は本質的に未来にかかわっている、この信仰は約束である、と答えることができます。この信仰は未来を現在の上位に置くこと、未来のために現在を放棄する心構えを意味しています。
「第二章 信仰と実存」(p.33)

 このように、アブラハムの「信仰」は、「未来」を「現在」の上位に置いているというのである。

 そして、「現在」と「未来」、この二つのものが対立した場合、アブラハムは「未来」の方を選択するのである。
 「子への愛」と「神への愛」とが対立した場合、アブラハムは「神への愛」の方を選択するのである。
 そして、ここにアブラハムの「信仰」の特徴がある。

 二つの対立するものにはさまれて「不安」に陥ったアブラハムは、「未来のために現在を放棄(信仰と未来)」し、そして「子への愛」ではなく「神への愛」の方を選択したのである。

 慣れ親しんだ土地を離れ、未知の地へと旅立とうとするとき、われわれの心には「不安」が生じるものである。
 しかしそれでも、「信仰の騎士」たるものは、「おそれおののきつつ(フィリピ2:12)」、「未来」を、そして「神」を選択し、未知の地へと旅立つものなのである。

 「信仰」について、ヨハンネス君は次のようなことも語っている。

信仰とは、思惟の終わるところ、まさにそこからはじまるものだからである。
「序想」(p.89)

 「信仰」なるものは、思惟の先にある、または知識の上方に存在する「未知のもの」へと向かっていく運動なのだと思う。 

 ところで、この「未知のもの」には、我々を取り巻く宇宙のような「漠然としたもの」と、神のような「啓示されているもの」の2種があると思う。

 そして、人類は、この「未知のもの」に向かって知識という「枝」を少しずつ伸ばしていく「木」にたとえられると思う。
 図にすると次のようになる。

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 一般的に慣れ親しんでいるのは、【図1】のように未知の宇宙へと枝を伸ばしていく知識の方であろう。
 けれども信仰者には、宇宙とは別に、【図2】のように神へと向かっていく知識もあるのである。
 そして、この知識を伸ばしていくには、宇宙の神秘を探るような実証的な知識の積み重ねだけでは足りなく、その前にまず「信仰」を必要とするのである。


倫理的なものの目的論的停止とアブラハムの信仰

 ヨハンネス君は言う。

倫理的なものは、倫理的なものである以上、普遍的なものであり、普遍的なものである以上、すべての人に妥当するのである。
「倫理的なものの目的論的停止というものは存在するか?」(p.90)

 この部分を解読するに、前述の【図2】を参照してほしい。
 すべての人に妥当する「倫理的なもの=普遍的なもの」とは、【図2】における「木」の部分である。

 この「木」の部分は、実証的な知識の積み重ねの部分であり、思惟のおよぶところであり、そして言葉によって伝達可能なものであり、ヨハンネス君の言うところの「媒介」可能なものであり、ラツィンガー氏言うところの「現在」的なものである。

 そして、世俗の人は、すべての人に妥当する「倫理的なもの=普遍的なもの」の枠内に自分を収めることを自身の「倫理的な目的」とするのである。
 この枠内に収まるから、われわれ人間は倫理的でいられるということなのである。

 一般的な世俗の人は、「父は子を愛すべし」という私的な倫理に収まることを自身の倫理的な目的としているので、倫理の枠内に収まっている。

 また、「悲劇的英雄」ギリシア神話アガメムノンに代表されるような人物も、倫理の枠内に収まっている。

 この「悲劇的英雄」は、アブラハムのように「子への愛」を諦め、我が子を犠牲にささげるのであるが、それでも彼らは「倫理的なもの=普遍的なもの」の枠内に収まっているのである。

 なぜなら、彼らは「父は子を愛すべし」という私的な倫理には収まらないが、「公共に益すべし」という公的な倫理、より「高次の倫理」に収まることを自身の「倫理的な目的」とみなし、民衆のためもしくは国家のために我が子を犠牲にささげるからである。

 問題は、アブラハムの場合である。
 アブラハムは、この「倫理的なもの=普遍的なもの」の枠内から逸脱してしまっているのである。
 アブラハムは、「悲劇的英雄」と同じように我が子を犠牲にささげようとするが、彼には英雄にはある「高次の倫理」がない。
 アブラハムは、私的な倫理に収まっている世俗の人物にすぎず、彼にあるものといったら「神への愛」、つまり「信仰」くらいなものである。

 この点について、ヨハンネス君は次のように述べている。

信仰とは、すなわち、個別者が普遍的なものよりも高くにあるという逆説である。しかし注意を要することだが、この運動は反復されるものであり、したがって、個別者がまず普遍的なもののなかにあった後に、こんどは、普遍的なものよりも高くにある個別者として孤立する、というふうな逆説なのである。
「倫理的なものの目的論的停止というものは存在するか?」(p.92)

 このヨハンネス君の言葉は、先の『信仰と未来』における「未来を現在の上位に置くこと」と対比してみるとわかりやすいかもしれない。

 ヨハンネス君の言う「普遍的なもの」とはラツィンガー氏の言う「現在」であり、「高くあるもの」とは「未来」である。

 「個別者が普遍的なものよりも高くにある」とは、「個別者」が、「現在」ではなく「未来」の方を選択したからであり、同時にこの「個別者」は、「現在」に生きているものなので、生きている「現在」と選択した「未来」との間で「反復(二つの間を行ったり来たりする)」する、ということだろう(たぶん)。

 この辺のことを図で表すと次のようになるだろう。

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 【図3】は、一般的な世俗の人であり、私的な倫理(父は子を愛すべし)を遵守しており、倫理の枠内に収まっている。
 【図4】は、悲劇的英雄であり、公的な倫理(公共に益すべし)を遵守しており、倫理の枠内に収まっている
 【図5】は、信仰者であり、私的な倫理(父は子を愛すべし)を遵守しているが、それと「神への愛」が対立したとき、上位にある神の方を選択するので、倫理の枠内からは逸脱することになる。
 【図6】、これはおまけで、神が単なる「高次の倫理」に成り下がっている、先の説教者に代表されるような現代の冷え切った信仰感が当てはまるだろう。

 そして、この【図5】、アブラハムにおいて、その人生の目的が、「倫理の枠内に収まること」ではなくなり、「神に向かうこと」になったのである。
 このことをヨハンネス君は、「倫理的なものの目的論的停止」と呼んでいるのである。

 このようなアブラハムの行い、アブラハムの選択は、倫理的な視点から見るとヨハンネス君が指摘しているように「罪の形式」であるに相違ない。
 けれども、信仰の視点から見ると「希望の形式」と呼べるのではないだろうか。
 
 アブラハムは、ひたすらに神を信じ、そして神の約束を信じた。
 確かに、アブラハムは、普遍的なものを、現在を、少年イサクを顧みることはなかった。
 けれども、この「信仰の騎士」は、神に、未来に、青年イサクに自分の希望を置いていたのである。

 超越的な存在に目を向けた「信仰の騎士」は、普遍的なものには背を向けて人生を歩み始める。
 こうしたこの世に背を向けたその生き方は、一見「罪の形式」に見えるが、そうではないのである。

 一方で、公共のために「子への愛」を諦めた「悲劇的英雄」は「誇りの形式」であるといえる。けれども、彼には希望は残されていないので「絶望の形式」であるとも言えると思う。


神に対する絶対的義務とアブラハムの愛

 「神に対する絶対的義務」とは、神は信仰者に対して、「何よりも先に神を愛すること」を求めるものだということである。

神は絶対的な愛を要求する者である。
「神に対する絶対的義務というものが存在するのか?」(p.122)

 そして、ヨハンネス君は、その証拠として聖書の次のような一説を引用する。

周知のとおり、ルカ伝十四章二十六節に、神に対する絶対的義務について注意すべき教えが述べられている。「だれでも、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも憎んで、わたしのもとにくるのでなければ、わたしの弟子となることはできない」と。これは過酷なことばである。
「神に対する絶対的義務というものが存在するのか?」(p.120)

 ヨハンネス君は、この「憎む」という語が、世に出回る注釈書によって意味合いを弱められ、「あまり愛さない」という風に解されていると憤るのである。

 後述するが、アブラハムは、息子イサクを熱烈に愛しているのである。熱烈に愛してはいるが、愛していればこそ、「神への愛」の方を選択したのである。

 ブログ主的には、この「ルカ伝十四章二十六節」の部分を、親や子に「背」を向け、神に目を向けることだと解してみようと思う。

 一般的な世俗の人と悲劇的英雄は、子に背を向けない。
 信仰者と世俗のある人だけが、子に背を向けるのである。

 図にすると次のようになる。

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 【図7】は、一般的な世俗の人であり、彼は平和に「父は子を愛すべし」という普遍的な倫理に忠実なものである。
 【図8】は、悲劇的英雄であり、彼は子を愛しているのだが、彼の背後には民衆や国家があり、彼らへの義務のために、我が子を犠牲にささげるのである。
 【図9】は、特殊な世俗の人であり、彼は自分の欲望に固執するあまり、子に背を向けてしまっている。彼と子との間には、敵意もしくは無関心が置かれている。
 【図10】は、信仰の騎士であり、彼もまた子に背を向ける。なぜなら、彼は神に目を向けているからである。けれども、彼と子との間には愛が置かれている。また彼は神に向かって旅する旅人でもある。

 そして、【図9】のように、自分の子に無関心だからといって、背を向けているからといって、それが神への愛の証明にはならない。それは虐待でしかない。
 アブラハムのような信仰の騎士が、勘違いされるのも、この形式に酷似しているからであろう。
 また、神の名をかたって、我々の普遍的な世界をブッ壊そうとする人たちも、この【図9】の形式であろう。というのも、彼らにはこの普遍的世界に対する「敵意」があるからである。

 アブラハムは、我が子イサクを愛している。
 アブラハムは、「神への愛」という「絶対的な義務」、「信仰」によって逸脱しているが、世俗の人としては普遍的な倫理の枠内においては、「父は子を愛すべし」という倫理に忠実な父親である。

 【図10】のように、アブラハムはイサクに背を向けた。
 そして、その行いは「倫理的な視点」から見ると、彼がイサクを憎んでいるように見えるかもしれない。
 けれども、彼はイサクを猛烈に愛しているのである。

 【図9】にあるようなネグレクトの親のように、愛人に夢中だから、我が子を「あまり愛さない」ようになったのではないのである。
 だから、「憎む」を「あまり愛さない」と解する現代の注釈書は間違っている。

 アブラハムは、自分と息子イサクの「未来」を信じて、自分と息子イサクの「現在」を放棄しようとしたのである。

愛すればこそ、彼はイサクを犠牲にささげることができるのである。なぜなら、イサクに対するこの愛こそ、この愛と神に対する彼の愛との逆説的な対立によって、彼の行為をひとつの犠牲にたらしめるものにほかならないからである。
しかし、人間的にいえば、アブラハムが自分を他人に理解させることがまったくできないということが、この逆説における苦悩であり、不安である。
「神に対する絶対的義務というものが存在するのか?」(p.123)

 神への愛と息子への愛の逆説的な対立によって彼の心は「不安」を感じ、引き裂かれそうになるが、「信仰の騎士」は、「神への愛」を選択するのである。

 以上のことから推察するに、聖書の「憎む」とは、愛の優劣ではなく、愛の優先順位のことなのだと思う。
 普遍的なものに対する愛よりも先に、超越的なものを愛さなければならないということなのだと思う。

 ブログ主が思うのは、「信仰の騎士」は、神に向かっているから子を愛せると言うことである。「信仰の騎士」は神との絶対的な関係の中で豊かな愛を注がれ、それを子に伝えることができると表現できようか。
 そして、「信仰の騎士」は、子に同じものを見てほしい、子と一緒に神に向かいたいのである。


アブラハムが何も語らなかった理由

 ヨハンネス君は言う。

倫理的なものは、倫理的なものであるかぎり、普遍的なものであり、普遍的なものであるかぎり、それは顕わなものである。個別者は、直接的に感覚的、心霊的なものとして規定されると、隠れたものである。そこで、その隠れた状態から抜け出して、普遍的なものにおいて顕わになることが、個別者の倫理的課題となる。
アブラハムが彼の意図を-」(p.136)

 普遍的な倫理は、思惟のおよぶところのもの、つまり知識であるので、言葉によって言い表すことができるものである。それが「顕わなもの」とヨハンネス君が表現するものであろう。
 一方で、思惟の終わるところから始まるもの、つまり未知のもの、それは言葉によって言い表すことができない。それが「隠れたもの」である。
 そして、信仰者は、この未知のものを言葉によって表現することが、倫理的課題となるのである。

 では、自分の妻サラや息子イサクに、自分のやることをいっさい語らなかったアブラハムは信仰者といえるのであろうか、というのが本章の課題である。

 もちろん、アブラハムは世俗の人のように「言わぬが仏」で黙っていたわけではない。そんな打算によって沈黙を守っていたのではない。

 人が「顕わなもの」にすることができるのは、【図2】でいうところの「木」の部分だけなのである。
 知識の枝先は漸進的に成長していくが、それでも届かないところがある。
 アブラハムが知っているのは、「神の存在」そして「神の約束」と「神の要求」だけであり、知識の枝先が神のところまで達していないので、言葉によって言い表すこと、「顕わなもの」にすることができない。
 アブラハムの枝先から神までの間の大部分が「隠れたもの」なのである。

 なのでアブラハムは沈黙せざるをえなかったのである。
 モレブの山に向かう途中で、イサクが「いけにえの小羊はどこにあるのですか?」と尋ねるが、アブラハムは「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」とだけしか答えなかった。
 これだけが彼の思惟のおよぶ範囲であったからであろう。
 これだけが息子にウソをつくことにならない、彼のできうるかぎりの答えであった。
 
 沈黙のヨハンネス君は次のような言葉を述べて、本書を結んでいる。

人間における最高の情熱は信仰である。
「結びのことば」(p.199)

 ヨゼフ・ラツィンガーの言葉に戻るが、キリスト教の「信仰」とは、山登りのようなものであり、山登りをするのは「そこに山があるから」なのである。
 そして、我々の目からすれば愚かしくも見える登山家は、情熱家なのである。
 この山に向かうとき、登山家は「おそれとおののき」を胸に抱きつつ登り始めるだろう。けれども同時に彼の胸には喜びがあふれているのである。



以上、長々とした文をお読みくださりありがとうございました。