ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「信仰と未来」ヨゼフ・ラツィンガー著 はこんな本だった

 キリスト教の「神学的思考」と現代科学の「実証的知識」は、噛み合わず分裂してしまっているが、それはそれぞれの思考の対象が異なっているからである。なので「実証的思考」がいかに素晴らしいものであっても「神学的思考」の代替とはならない。
 また、「神学的思考」もその歴史の中で煩雑なものとなり、党派的なものに分裂しているが、「信仰」の要は「神に対する信頼」であり、党派的な知識は二義的なものにすぎない。

 アブラハムのわかりやすい未来に対する希望は、キリスト教の「死からの復活」というラディカルな未来への希望によって超克されなければならなかった。
 またこのラディカルな未来は、「ゆるし」と同時に約束されなければならなかった。

信仰と未来 (現代神学双書2)

信仰と未来 (現代神学双書2)

「信仰と未来」ヨゼフ・ラツィンガー著 田淵文男訳 あかし書房 昭和46年10月20日初版


 今回取り上げる本書は、キルケゴール『おそれとおののき』の回で参考文献として取り扱った本である。
 この本は、2、3年くらい前に買って一度読んだ本であるが、今回改めて読み直してみたら非常に得るところが多かったので、今回記事として取り上げてみた次第である。

 また本書は、「第一章 信仰と知識」「第二章 信仰と実存」「第三章 信仰と哲学」「第四章 人間の希望による世界の未来」「第五章 西暦紀元二〇〇〇年の教会のありさま」という五章から構成されているが、今回記事にするのは第一章と第二章のみとしました。

第一章 信仰と知識

 フランスの哲学者兼社会学者のオーギュスト・コントは、人間の「思考」は、「神学的・架空的思考」から始まり「形而上学的・抽象的思考」を経て「実証的思考」に至り完成した、と「思考」の歴史を三つの段階に分けて説明してみせた。

 そしてコントは、思考の最終段階である「実証的思考」によって、すべてのことが証明可能だろうと胸を張ったのである。
 でもって、この「実証的思考」の誕生によって「神学的思考」は用済みの過去の遺物と相成ったのである。

 著者のヨゼフ・ラツィンガーによれば、「神学的思考」が過去の遺物となった原因は、「信仰」と「知識」の間の不一致にあるという。

 「世界の起源」の一例を見てみても、「信仰」と「知識」の間には不一致があることは明白である。
 旧約聖書が描いてみせるような神による創造の物語と、現代科学が教える宇宙の生成の学説との間には深い断絶があることは隠しようがない。

 また、「信仰」と「知識」の不一致は、世界の成り立ちばかりでなく「キリスト教会の中」にまで及んでいるのだという。
 というのも、神学が煩雑なものとなり様々な教派に分裂してきているからである。

 ラツィンガーは言う。

私たちにキリスト教信仰を困難にするものは、歴史の経過のうちに集積し、今やすべてそれらが信仰を要求しつつ人間にのしかかる、あまりにも多い信仰表現の定式という重荷なのです。
「第一章 信仰と知識」(p.17)

 このように、「神学的思考」は、歴史の経過の中で積み重なってきた「知識」の堆積によって重苦しく煩雑なものになってきているのである。

 一方で、このやっかいな「神学的思考」から取って代わった「実証的思考」もまた問題を抱えているという。
 なぜなら、現代社会においては、宇宙の生成を語る「知識」、コントが誇っていた「実証的思考」の方も、その発展の中で積み重なった「知識」の堆積によって押しつぶされそうになってきているからである。
 
 この「実証的思考」は、今日においては、特にヴィトゲンシュタインの「記号論理学」の分野で成果を上げており大いに勝利を収めている。

 この勝利について、ラツィンガーは一定の評価はしながらも、次のようなことを指摘している。 

しかしこのことは自然科学も哲学も、今日はもはや真理をではなく、応用された方法の正しさのみを問うのであり、論理的思考、特に言語分析は、思考の出発点に実在が合致しているか否かという問題とは独立して思弁を行うものです。実在はもちろん到達不可能と思われております。真理そのものに対する断念、確認できるものと方法の正確さにとじこもることは現代的科学性の典型的特徴に属するものであります。
「第一章 信仰と知識」(p.18-19)

 「実証的思考」の発展によって、人間思考の「分析能力」は増大したことは確かだが、一方でこの「実証的思考」は、方法の確実さを求めるあまり「真理」の探求を断念してしまっているというのである。
 
 そして、ラツィンガーは「実証的思考」全盛期における危機を次のように述べている。

正確に知るうるものだけの範囲内に自己を限定しようとする人間は実在喪失の危機に陥ります。まさにそれゆえに真理の回避に陥るのです。
人間の内には現代によって止揚されはせず、いっそう劇的にされてやまない、信仰への叫び声があります。実証的なものの牢獄からの解放を求める叫びがあります。
いうまでもなく、信仰そのものを自由の姿の代わりに重荷にしてしまう信仰の形式からの解放を求める呼び声もあります。
「第一章 信仰と知識」(p.20)

 オーギュスト・コントは、「実証的思考」によって、人間を「神学的思考」の重荷から解放しようとしたが、彼が予見できなかったことは、彼が誇っていた「実証的思考」もまた重荷になりうるということなのである。
 
 このように、現代人は「信仰」を重荷に感じているだけでなく、「実証的思考」をも重荷に感じており、それらからの解放を望んでいるのである。

 で、ここからが本題である。
 では、「信仰」が重荷にならないようにするには、一体どうすればいいのであろうか。

 まず、ラツィンガーが述べているのは、「信仰」は、コントが主張するように「実証的思考」の前段階のものではないということである。
 「神学的思考」とは、「実証的思考」とは全く異なる知識なのである。

 ここで、過去記事『おそれとおののき』の回で用いた図を引用してみよう。

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 【図1】が、「実証的思考」の方で、未知なる宇宙という「真理」を解き明かしていく思考である。そしておそらくヴィトゲンシュタインの「記号論理学」は、この図の木の部分(既知の部分)の分析に徹底しており、その結果として未知なる「真理」の探索がなおざりになっているというのであろう。
 【図2】が、「神学的思考」の方で、未知なる神という「真理」に向かって思考の枝を伸ばしていくものである。そして既知の木の枝を伸ばしていくには、実存という木は神という光と関係していく必要があるのである。

 冒頭の方で『「世界の起源」の一例を見てみても、「信仰」と「知識」の間には不一致がある』と言っていたが、それは「神学的思考」と「実証的思考」の間に上記のような違いがあるからである。
 言い換えるなら、「実証的思考」は「見えるもの」を思考の対象としており、「神学的思考」は「見えざるもの」を思考の対象としているのである。

 また、キリスト教会の中に生じている「信仰」と「知識」の不一致については、次のように述べている。

 ラツィンガーは言う。

キリスト教信仰の根本定式は「私はなになにを信じます」ではなく、「私はあなたを信じます」というのです。信仰は実在が開かれることであり、それは信頼する人、愛する人、人間として行動する人にのみ現れるものであり、そのものとして知識に由来するものではなく、知識と同じ程度に根源的なものであり、真の人間存在にとって知識よりも根本的かつ中心的なものなのであります。
「第一章 信仰と知識」(p.21)

 キリスト教における信仰の要は、「どの教派の神学を信じる」というような「知ること」にあるのではなく、まずもってして「神を信頼する」というところにあるというのである。

 「神学的思考」は「信仰」の果実であり、それは神に対する信頼の副産物にすぎないのである。

 過去記事『おそれとおののき』でも述べたが、キリスト教の「信仰」は、おおよそ次のようにまとめられるだろう。

 キリスト教の「信仰」とは、神を信じて、慣れ親しんだ土地を捨て去り、神が示した地へと向かって旅することであり、それはつまり、未知へと向かっていく「冒険」のようなものである。
 このことを木のたとえで言うと、神を信頼して、神へと向かって、自分の枝を伸ばしていくことにある、ということになろう。

 そして、「神学的思考」なるものは、先達たちが神に向かう旅の途中に残した「旅日記」なのであると。それは、道しるべに相違ないが、肝心なのは自分の決断と自分の足で旅することなのだと。
 木のたとえで言うと、「神学的思考」とは、【図2】における木の部分であり、この木は益のある果実をもたらすが、信仰者(実存)にとって大切なのは、自分の決断で神に向かって枝を伸ばすことにあるのだと。

 ラツィンガーは言う。

重要なのは全体であり、信仰の承諾そのものであり、それについで部分、すなわち信仰の承諾における種々の内容は単に、第二次的なものにすぎないのです。
人間は、多くの詳細なことがらを整理したり、解決したりできなくとも、中心的承諾に努める限り、信頼という根本的肯定を唱えようと努める限り、キリスト者であることに変わりがないのです。
「第一章 信仰と知識」(p.23-24)

 「神学的思考」は、「信仰」の果実であるが、それは信仰者にとって養分となるが、そうであっても二義的なものにすぎないのである。
 であるから、信仰者が心がけることは、果実をたらふくほおばること(それではやがて押しつぶされてしまう)ではなく、自分の枝を神に向かって伸ばしていくことなのである。
 そして、最も重要なのは、光を照らす「神」そのものなのであり、知識(先の図でいう木の部分)ではないのである。
 
 またこのことは、一般的な「知識」、【図1】の方にもいえて、「知識」の根幹は、未知なる「真理」を探究していくことにあるのである。
 そして、木の部分を探り尽くすような「分析的」な手法にばかり明け暮れていると、「実証的なものの牢獄」に閉じこめられてしまうのである。

 以上のことから、信仰の核心は、知識の体系(システム)にあるのではなく、「信頼」という実存の態度にこそあるのだと、ラツィンガーは述べている。


第二章 信仰と実存

 この章では、キリスト教における信仰と、過去記事『おそれとおののき』でおなじみのアブラハムにおける信仰の対比がなされている。

 アブラハムは、神を信頼して旅立つという過酷な人生を引き受けた。その時、彼には次のような変化が起こったという。

彼は来るべきもののために現在を放棄します。彼は安全なもの、見通されうるもの、計算されうるものを放棄するのです。不確かなもののために−−ただ一つのことばに引かれて。
彼は神に出会い、彼の未来を神の手中に委ね、神からまずまったくの暗黒である新しい未来をあえて勝ち得ようと努めます。
彼が聞いたことばは、彼には彼が手にとることができる、計算できるものよりも現実的なのです。
彼は彼がまだ見ることのできないものに信頼し、そうすることによって新しいものをえ、確実なものから脱出することができるようになります。
現実の重味、現実の概念そのものまでも変化するのです。未来が現在よりも優位を占め、聞いたことばが手に取れる事物に先んじるのです。
「第二章 信仰と実存」(p.31-32)

 このように、アブラハムの生き方は、「未来」を「現在」よりも上位に置くものへと変化したのである。

 そして、このアブラハムの信仰も、またキリスト教の信仰も、神に対する信頼という「信仰の方向」は同じであるが、その「内容」は違ってきているのだという。

 アブラハムの信仰の内容は、「豊かな子孫と豊かな土地」という未来に対する希望であった。
 キリスト教の信仰の内容は、「死からの復活」という、死を超越したラディカルな未来に対する希望なのである。

 そして、ラツィンガーは、アブラハムの信仰は、キリスト教のラディカルな信仰によって超克されなければならなかったのだという。

 人間は、現在を生きるのに未来を必要とする。

 昨今の新型コロナウィルスのパンデミック騒動でも感じるとおり、未来が全く見通せないと、現在が耐え難いものとなり、強い不安に襲われてしまうものである。

 それだけではない。

 一般的に、我々の人生は「死」をもって終わるものである。これは人間の究極の未来が「死」であるということを意味している。
 もし、私たちの未来に約束されているのが「死」でしかないのなら、たとえ私たちがこの現在を耐え忍んで生きたとしても、私たちは生きつつもきっと深い憂鬱に襲われることであろう。

 であるからこそ、私たちの「未来に対する希望」は、死の壁をも超越しなければならなかったというのである。

 そして、ラツィンガーは言う。

復活したキリストに対する信仰、死を越えて生命を与える神への信仰は責任を負わせます。現在に重みを与えるのです。なぜなら現在は永遠の尺度の下に入ってしまうからです。
「第二章 信仰と実存」(p.44)

 もしも、私たちの未来が「死」という「無」でしかないとしたら、私たちは未来に「希望」を見出しえないであろう。
 そして、未来に「希望」をもてない人は、現在において刹那的な生き方をしがちなのである。

 また、キリスト教の信仰の特徴は、「ラディカルな未来」だけでなく、「ゆるし」の教えにもある。

 作家のカミュは、既成の宗教を批判しつつ、彼の望む神像を語ったことがあるが、けれどもそれはイエス・キリストそのものであったという。

神らしい神は(この話手はこういいたいのです)、再び命じたり禁じたり、人間を威嚇したり監視したりしてはならないのです。神は人間を保護しなければならない。神は人間をゆるさなければならないのであります。
「第二章 信仰と実存」(p.46)

 教会の積み重なった堆積物によって、その教えは人に禁じたり、威嚇したり、監視したりするような側面を持つようになった。
 しかしながら、キリスト教本来の信仰は、カミュが望んだような「神のゆるし」に対する信仰なのである。

 そしてもし「神のゆるし」がないのだとすれば、キリスト教が約束する「永遠の未来」なるものも、「絶望」を意味することになってしまうであろう。
 その未来は、「死」という「無」よりも恐ろしいものになってしまうであろう。
 というのも、「永遠の未来」にあるのは、「永遠の刑罰」をも意味することになってしまうからである。

 ラツィンガーは言う。

こうして私たちは、一方では人間は死を超越する未来を必要とし、他方ではその未来は人間にはたえがたいものである、という矛盾に出くわすことを見い出します。
未来の約束が人間にとって真に希望であり、「救済」であるものとすれば、永遠の尺度は同時に赦免でなければなりません。
「第二章 信仰と実存」(p.47)

 キリスト教の神は、「絶望」をもたらすためにやってきた神ではなく、「希望」をもたらすためにやってきた神なはずである。

 それゆえに、キリスト教の信仰は、「未来」を約束するのと同時に、「ゆるし」をも約束しなければならない。
 まさにそれゆえに「希望」であり、まさにそれゆえに「真の未来」を提供するのである。

 その限りにおいて贖罪ないしは義認に関する教えも、未来の国に対する信頼の単なる一側面にすぎないのだという。

 そして、「信仰」にとって重要なのは、知識の堆積、生半可な知識の体系(システム)ではなく、「神を信頼する」という実存の決断なのである。

 ラツィンガーは言う。

人生にその重味、その尺度、その秩序づけ、またそこにこそその自由を与えるのはこの方向づけであります。いうまでもなく、信仰による人生は夢見つつ炉端にすわることよりも山歩きに似ているものです。しかしこのさすらいに足を運ぶ人は、このさすらいの冒険がやりがいがあることを、ますます知り、経験するのであります。
「第二章 信仰と実存」(p.48)