「甘え・病い・信仰」土居健郎著 はこんな本だった
【ザックリとしたマトメ】「甘え」は他者を必要とする。その他者との間に「信頼関係」がある時、人は安んじて「甘え」ることができる。それは同時に「愛」を知ることである。人は「甘え」を通して他者から愛を学ぶ。これは人と神との間にも言える。人は神に甘えることを通して神の愛を学んでいくのである。
甘え・病い・信仰―第3回長崎純心レクチャーズ (長崎純心レクチャーズ (第3回))
- 作者:土居 健郎
- 発売日: 2001/03/01
- メディア: 単行本
- 「甘え」についての連続講演
- 「甘え」とは他者との「一体感」を求めること
- 「甘え」が成立するには「信頼関係」が必要であること
- 「心の病」にかかる人はもともと「人間関係」に問題があったということ
- 「甘え」を通して愛を知るということ
「甘え」についての連続講演
1999年の10月に長崎純心大学において、カトリック信徒かつ精神分析家の土居健郎氏による連続講演が開かれた。
講演は三日間にわたって行われ、一日目は「甘えの話」、二日目は「病の話」、そして三日目は「信仰の話」が語られた。
本書はその講演をまとめた本である。
また本書の最後には「癒しについて」という別の講演の内容もオマケとして添えられている。
以前もこのブログでは土居氏の著作を取り上げてきたが、それは私が「甘え」なるものに興味があるのと、さらに土居氏の語るあたたか〜い信仰感に共鳴するものがあるからである。
「甘え」とは他者との「一体感」を求めること
「甘え」の典型的な例は、子どもと親(特に母親)との間に見受けられるという。
それは子どもが親に甘えるとき、子供は親とのある種の一体感を感じていると想像されるということです。そういう状態を指して日本語では、この子はもう甘えると言うのです。
「第1日 甘えの話」(p.9)
このように「甘え」とは、ある人がある人に《一体感》を感じようとすることなのである。
「甘え」が成立するには「信頼関係」が必要であること
それ故に、「甘え」なるものは、「甘え」を受け入れてくれる《他者》を必要とするのである。
甘えというものはある上下関係を前提にします。甘えるものがいて、甘えを受け入れるものがいるわけです。要するに一方に世話をする人、慈しむ人がいて、他方に甘える人がいるのです。これは心理的な上下関係です。これは別の言葉で言えば、実は権威の問題です。子どもにとって親はやはり絶対なんです。
「第2日 病いの話」(p.82−83)
このように、「慈しむ存在」としての《他者》があるからこそ、私たちは「甘え」の欲求を満たすことができるのである。
同時にまた、この「慈しむ存在」としての《他者》は「やさしく」なくてはならないのだ。
このような本来のやさしさ、すなわちやせる思いのやさしさが親の側にあって、はじめて子どもは親に甘えるようになるのではないでしょうか。甘えることができるのは相手にそのようなやさしさがある場合に限るのではないかと思います。
「第1日 甘えの話」(p.31)
このように《他者》がいて、そしてその《他者》の「やさしさ」に包まれてこそ、私たちは《信頼関係》を育んでいくことができるのである。
幼少期、私たちは「甘え」を通して《信頼関係》をしっかりと芽生えさせる必要があるのだ。
そして、何らかの原因で、この《信頼関係》が芽生えなかった時、もしくは《信頼関係》が崩壊した時、人は心を病むのだという。
「心の病」にかかる人はもともと「人間関係」に問題があったということ
心の病気にかかる人は、滅多に他者に助けを求めないという。
実際、助けを自らは求めないということが心の病気の特徴と言ってもよいのです。このことは言い替えれば、心の病気にかかる人はもともと人間関係に問題があったためだということができます。
「第2日 病いの話」(p.53)
このように、心を病む人は《他者》との間に《信頼関係》を芽生えさせることができなかった。
それは、彼がその幼少期に「甘え」ることができなかったということである。
であるから、心の病に陥った人の治療には《信頼関係》の再構築が有効なのだという。
つまり、彼がちゃんと「甘え」られた時に、彼の心も癒されるのである。
そして、こうした《信頼関係》を必要とするのは、医者と患者あるいは親と子といった「世俗の世界」に限られた話ではない。
こうした《信頼関係》は、神と人間といった「宗教の世界」においても必要とされるのである。
つまり、キリストが「汝の信仰が汝を癒した」と述べたように、神が奇跡を行うためにも、神と人間との間には《信頼関係》が必要なのである。
私たちが幼子のようになって神に「甘え」、そのことを通して、神に心を開いて、そして神を信頼するようにならなければ、神も奇跡は行えないのである。
「甘え」を通して愛を知るということ
けれども本書によれば、キリスト教会の中にあっても「甘え」のような態度は重要視されていないというのが現実なのだという。
つまり、教会において、「愛すること」は推奨されているが「愛されること」は《未熟者》の証として蔑まれる傾向にあるのだという。
このような風潮にありながらも、土居氏は「愛されること」つまり「甘え」の重要性を力説するのである。
確かに、キリストは「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛しなさい」と言っていた。
このように聖書においても、誰かを「愛すること」よりも神から「愛されること」の方が先なのである。
肝心なことは、われわれは愛されているから、それに倣ってわれわれも愛するということです。ですから愛されるということをさげすんでしまうと、キリストに愛されているということもどうかするとおろそかになって、ただ愛することだけが大事だということになる恐れはありませんか。私はそういう感じがしてなりません。
「第3日 信仰の話」(p.108)
先に述べた「やさしさ」に包まれるというのは、「愛される」ということの体験である。
そして、この体験によって私たちの心に愛が注がれてはじめて、私たちは愛というものを知ことができるのである。
このように、誰かを「愛する」にはまず「愛される」という体験が必要なのである。
とすると、愛なるものは、個人の奮闘努力によって発展せられるものではなく、《他者》(信仰においては特に神)を必要とするものだと言えよう。
オシマイ