ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「ナザレのイエス」ベネディクト16世著 はこんな本だった(1/2)

【ざっくりとしたまとめ】「ナザレのイエス」シリーズは、前教皇ベネディクト16世が書き著した「全3巻」からなる書である。
 本記事では「メシア」と「回心」についてまとめてみた。
 「メシア」:私たちが求めるメシアとイエスが示したメシアは異なっている。私たちはメシアに「地上的なもの」を求めるがイエスがもたらしたのは「人間と神との和解」というものであった。逆に「地上的なもの」を約束したのは「バラバ」という男であった。
 「回心」:回心とは、自分から神への「心の方向転換」である。本記事ではブログ主が佐藤春夫の詩「水辺月夜の歌」と絡めて語ってみた。

ナザレのイエス

ナザレのイエス

ナザレのイエス教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳 春秋社 2008年12月25日初版

三冊シリーズの一冊目!!

 これから当ブログでは「ナザレのイエス」シリーズを数回に分けて取り上げていこうと思う。

 この「ナザレのイエス」シリーズは、教皇ベネディクト16世(ヨゼフ・ラツィンガー教皇時代に書き著した「全3巻」からなる大書である。

 今回取り上げる「ナザレのイエス」はその第1巻であり、イエスの洗礼から主の変容までを取り扱っている。
 第2巻は「ナザレのイエスⅡ: 十字架と復活」という題名で、イエスの十字架と復活をメインにしている。
 第3巻は「ナザレのイエス プロローグ: 降誕」という題名で、イエスの幼少期を取り扱っている。

 そして、本シリーズの日本語訳発刊順は「ナザレのイエス」(2008年12月25日)→「ナザレのイエスⅡ」(2013年6月25日)→「ナザレのイエス プロローグ」(2013年12月25日)となっている。
 注意していただきたいのが「プロローグ」と題されているものが一番オシリにくるということである。

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ナザレのイエス発刊順

 さらに注意していただきたいことがある。
 それは、今現在(2020年9月)において第1巻である「ナザレのイエス」が流通しておらず、書店の棚に並んでいるのは、第2巻「ナザレのイエスⅡ」と第3巻「ナザレのイエス プロローグ」のみであるという点である。
 ここを弁えておかないと本シリーズを「ナザレのイエス プロローグ」と「ナザレのイエスⅡ」からなる全2冊構成のものとして勘違いしてしまうことになるのだ。


本書の特徴

 本書は「正典指向的聖書解釈」なるものに則って書かれているという。

 ではその「正典指向的聖書解釈」とは何であろうか。

 訳者の里野氏は、本シリーズの最終巻「ナザレのイエス プロローグ:降誕」の《あとがき》において次のように述べている。

しかし、今になって考えると、上にのべたような旧約聖書から新約聖書を理解するという試みのことをそのように言っているのではないかと思えるようになってきた。
正典とは、旧約聖書の正典と新約聖書とを全体として見るということなのではないかと思うようになった。
ナザレのイエス プロローグ:降誕』(p.196)

 簡単にまとめると、「新約聖書」を正しく理解するには「旧約聖書」も併せてちゃんと読まなきゃいけないよ、ということであろう。

 こうした特徴を持つので、本書は旧約聖書からの引用が多いのである。


本書の構成

 冒頭で述べたとおり、本書は、イエスの洗礼からその変容までを取り扱っており、その内容はと言えば、荒野での誘惑や山上の説教、主の祈りやイエスの用いた譬えについて、そしてまたヨハネ福音書とはどんな特徴を持つのか……といったようなことについての解説が述べられている。

 今回の記事では、本書の中で語られいた「救世主(メシア)」論および「回心」について、本書を読みながら私が思ったことをまとめていきたいと思う。

 また、「山上の説教」のあたりも読んでいて面白かった。
 この章では、教皇が「ヤーコブ・ノイスナー」というユダヤ教のラビの書物を参考文献として取り上げているのであるが、このノイスナー氏の観点が非常に興味深かったので、次回の記事で取り上げてみたいと思う。

 あと、教皇が「主の祈り」について語っている章も面白かった。これを読んでおけば日頃の祈りが深まるので、とてもためになって良いと思った。


「救世主(メシア)」とは何か

 私たちが求める「救世主(メシア)」像とイエスによって示された「救世主(メシア)」像は全く異なるものであった。

 端的に言ってしまえば、私たちが求める「救世主(メシア)」は「人間中心的なメシア」であり、それは私たち人間に「現世的利益」を約束するメシアなのである。
 そして、「メシア」・イエスは「人間中心的なメシア」ではなかった。

 この辺りのことについて、本書には次のような記述がある。

あなた方の「メシア」・イエスはいったい何をもたらしたのかとの問いが、ユダヤ教の側からしばしば提出されます。この問いは全く正当な問いです。彼は世界平和をもたらさなかった。彼は世界の貧困を取り除くことが出来なかった。したがって、彼は真のメシアではあり得ない。私たちは真のメシアからこのようなことを期待しているのだ、と。確かに。
ではイエスは何をもたらしたのでしょうか。私たちはすでにこの問いを知っており、その答えも知っています。エスは、イスラエルの神をすべての民にもたらしたのです。
「第4章 山上の説教」(p.159−160)

 このように「メシア」・イエスは、私たちを「神」へと導き「神」と和解させてくれる、「神中心的なメシア」であったのである。

 この「救世主(メシア)」論が主要テーマとなっているのは、荒野における悪魔の誘惑の場面、特に第三の誘惑の場面、つまりサタンがイエスに「輝ける地上の王国」を示し、イエスにその「支配権」を与えようとする場面である。
 本書ではその場面が「第2章 イエスの誘惑」において詳しく描かれている。

 そして「第2章 イエスの誘惑」のはじめには、悪魔の誘惑の特徴が述べられている。
 本書によれば、悪魔がなした三つの誘惑における共通点は、「神を軽視させる」点にあるのだという。

三つの誘惑のすべてにおいて、その核心は神を脇に押しやろうとすることにあります。私たちの人生における目先の重要事にくらべて、神は余計なもの、邪魔なものではないとしても、どうでもよいものだということです。
世界を自分の都合に従って処理し、自分の都合のよいように作り上げようとし、政治的、物質的な現実だけを重要なこととし、神などは現実離れしたものとして無視しようとすること、それがいろいろの形をとって私たちに襲いかかってくる誘惑の本質なのです。
誘惑とは道徳的なふりをして近づいてくるものです。それは私たちをじかに悪に誘うというようなことはしません。それでは手口はあまりに見え透いたものになってしまうでしょう。それは、より良いものを提供するのだという言い訳で近づいてきます。
「第2章 イエスの誘惑」(p.53-54)

 このように「地上的、物質的な輝き」に目を留めさせ、目に見えない神など「どうでもよいものだ」と思わせるところに悪魔の誘惑の本質があるのだという。

 そして「救世主(メシア)」論は次のようになっている。

 第三の誘惑で、サタンはイエスに「輝ける地上の王国」を示し、イエスにその「支配権」を与えようと誘惑した。

 けれども私たちには、「救世主(メシア)」がこの地上を「政治的に支配」するという「政治的地上的メシア」こそが、あるべき「救世主(メシア)」像のように思えてしまう。
 「政治的地上的メシア」の支配によって「輝ける地上の王国」をもたらすという、サタンのメシア像の方が正しいもののように思えてしまうのだ。

 しかし先に述べたように、このサタンの誘惑の真意は「地上的、物質的な輝き」をエサに「神」から目を逸させるという一点にあるのである。

 そして、悪魔が与えようとしたこの「政治的地上的メシア」こそ、先に述べた「人間中心的なメシア」なのである。

 「政治的地上的メシア」の代表例としては、新約聖書に出てくる「バラバ」という男がいる。

 イエスが生きていた当時のイスラエルは、ローマ帝国支配下にあり、被支配民であるユダヤ人たちの不平不満はたまる一方であった。
 そして「バラバ」という男こそが、テロと暴力とによってイスラエルに解放をもたらす「政治的地上的メシア」であったのである。

マタイが、バラバは「評判の囚人であった」と言うとき、それは彼が有名なレジスタンスの闘士であり、恐らくその暴動の本来の首謀者であったことを指しているのです(27・16)。
「第2章 イエスの誘惑」(p.67)

 実に「バラバ」は祖国に自由を約束する「英雄」であったのである。

 だから、ピラトが民衆に「イエスかバラバか、どちらを放免するか選べ」と言った時に、民衆はバラバの方を選んだのである。

言い換えれば、バラバはメシア的な人物でした。イエスか、バラバかという選択は偶然ではありません。二人のメシア的な人物、メシアニスムの二つの形態が相対していたのです。更に、バラバの名前からも、これはさらに明らかとなります。バラバ(Barabbas)は、Bar-Abbas「父の子」です。これは典型的な、メシア的な名前、メシア的な運動の優れた指導者に与えられる贈り名です。
「第2章 イエスの誘惑」(p.67-68)

 このように「政治的地上的メシア」・バラバは、民衆を「政治的に支配」することを望み、そして自分が世界の中心に座ろうとしたのである。
 その意味で彼は「人間中心的なメシア」であった。


一方で、「メシア」・イエスは「神中心的なメシア」であり、彼は私たちを「政治的に支配」することを望まなかった。

 事実、彼の「支配」は悪魔の勧めるような「政治的な支配」ではなかった。
 本書によれば、「メシア」・イエスは、私たちを「政治的に支配」するために来たのではなく、「十字架からの支配」をするために来たのである。

しかし、この世界の諸民族に対する「支配」は政治的な性格を持ったものではありません。この王は諸国民をその鉄の杖で(詩2・9)打ち砕くことはありません。彼は十字架から支配するのであり、これは支配の新しい形です。普遍的な支配は信仰の交わりと互いに仕え合う謙遜な生き方のうちに実現されるのであり、この王は信仰と愛によって支配するのです。
「第10章 イエスの自己表明」(p.424)

 この「十字架からの支配」なるものを私なりにまとめると次のようになる。

 この「十字架からの支配」によって、私たちは「内側」から新しくなるのである。

 「地上的政治的メシア」がもたらす「政治的な支配(強制力)」によっては、私たちを「内側」から新しくすることはできない。
 確かにこうした「強制力」によって、私たちが清潔かつ輝ける「外観」を手に入れることは事実であろう。
 けれども、私たちは輝ける「外観」にばかり心を奪われ、私たちの「内側」の方はおろそかになっているように思われる。

 そして、「メシア」・イエスによる「十字架からの支配」は、このような「政治的な支配(強制力)」とは異なるものである。
 この「新しい支配」は、私たちの心に「信頼」を芽生えさせる力を持っているのだと言えよう。
 この「十字架からの支配」を通して「父なる神」に対する「信頼」が生まれるのである。
 これこそが、「メシア」・イエスが地上にもたらしたかけがえのないもの、「人類と神との和解」であろう。

 この「信頼」によって、私たちは「内側」から新しくなるのであり、これによって私たちの「内側」に真の平和が訪れるのである。
 バラバのような「政治的な支配(強制力)」によって「外観」の平和と繁栄はもたらされるかもしれない。
 けれどもイエスによる「十字架からの支配」によってこそ、真の平和と繁栄、つまり「内側」の平和と繁栄がもたらされるのである。

 私たちは「外観」からではなく「内側」からキレイになるのでなければならない。


「回心」とはどんなものか

 本書は巻末の《用語解説》も充実しており、簡潔かつ丁寧な解説がなされているので、ちょっと「回心」につけられている解説を見てみよう。

回心 ギリシア語の原語メタノイア(metanoia)は、自己中心的に自己にのみ向けられていた心を、自己から引き離し神に向け変えることを意味する。その意味を込めて「改心」ではなく、「回心」とした。
「訳註」(p.457)

 簡単にいうと「回心」とは、自分から神への「心の方向転換」だと言えるだろう。

 本書の「第4章 山上の説教」は「回心」した弟子たちについて語られている章であった。
 本書によれば、イエスの弟子たちの「現実」、それは「貧しい者」であり「虐げられた者」であった。
 けれどもイエスは、彼らを見て「幸いな者」と呼んだのである。
 このことについて、本書には次のような記述がある。

ものごとが正しい視点から、すなわち世の価値判断とは異なった神の判断基準によって見られるや否や、世俗的な尺度はひっくり返されるのです。世間的な意味で貧しい者、失われた者と見られていた者たちが、真に幸福な者、祝福された者であり、そのあらゆる苦しみの中で喜び、歓喜の声を上げることが許されるのです。真福八端は、イエスによって開かれた約束と希望の次元であり、そこにおいて世界と人間の新しい姿が輝きだすのです。それは「価値の転換」なのです。それは終末論的な約束です。
「第4章 山上の説教」(p.106)

 この辺りを読んでいた時、私が思い浮かべたのが、佐藤春夫の詩「水辺月夜の歌」であった。

 その詩には「げにいやしかるわれながら うれひは清し 君ゆゑに」という一節がある。

 現代語に訳せば「本当にみじめな私ですが、私の想いは清いのです。なぜなら、私の想いはあなたでいっぱいですから」くらいな感じだろう。

 そして私は、この一節に「回心」に似た何かを感じたのである。

 それはつまり、「本当にみじめな私」という「現実」は私の心を粉々にするが、そんな私に「あなた」という想い人が出来た時、私にとって意味をなすのは「現実」ではなく「あなた」という存在になった、ということである。

 そして、この「自分」から「あなた(神)」への「心の方向転換」が「回心」に似ていると思ったのである。

 普通、私たちは「げにいやしかるわれ」という「現実」にばかり心を奪われ、そこから脱しようと右往左往し、そしてどうにもならない「現実」に打ちひしがれてしまうものである。

 けれども、「君ゆゑに」というように「心の方向転換」をすると、心の置き場が「現実」から「終末」へと移り、いわゆる「価値の転換」が起こり、「げにいやしかるわれ」であったとしても挫けることなく生きていけるのかもしれない。

 さらに一言付け加えるなら、「あなた」という想い人が出来た時、私たちが恋するようになった時、私たち恋する人は「内側」からキレイになっていくのである。