ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「ナザレのイエスⅡ:十字架と復活」名誉教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】イエスは民衆が望んだようなメシア、つまり「外からの強制力」によって世の苦しみを取り除くメシアではなかったが、十字架の苦しみによってわたしたちに「内側に宿る愛」を残した。彼はそういうメシアであった。
 西暦70年にエルサレムの神殿は破壊され、それによってユダヤ教徒は聖書を信仰の中心に据えることになった。一方でキリスト教徒はイエスを「新しい神殿」とみなし、彼を信仰の中心に据えた。
 アダムの罪によって、人間と神は対立するものとなったが、「イエスの従順」によって、人間と神のとの和解が成立した。またこれによって世に「悪からの解放」がもたらされた。
 イエスは、人のものと神のものとを明確に分け、世に「政教分離」をもたらした。そして明確に分けた上で「神の優位性」を説いた。
 わたしたちは一人ひとりが神に触れ、浄められなければならないない。その「贖い」の行いは、日々味わうことになる「苦しみ」の中、神に心を開くことである。苦しみは神と触れ合う場所になったのである。

ナザレのイエスⅡ:十字架と復活」名誉教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳 春秋社 2013年6月25日初版

三冊シリーズの二冊目!!

 前回および前々回は、三冊シリーズの一冊目「ナザレのイエス」を取り上げた。
 一冊目の「ナザレのイエス」は、イエスの公生活の前半、イエスの洗礼から山上の説教といった部分に焦点を当てていた。
 そして、当記事としては、それらを参考にして、メシア論や回心、それにユダヤ教のラビ「ヤーコブ・ノイスナー」氏の思想といったあたりをまとめていったのである(リンクを下に貼っておくので、よろしければ見ていってください)。

 そして、今回取り上げるのは、三冊シリーズの二冊目「ナザレのイエスⅡ:十字架と復活」である。
 この二冊目は、エスの公生活の後半、イエスの受難と復活をメインとしている。

 神学者教皇であるベネディクト十六世の書は、非常に刺激されるものがあり極めて興味深いのだが、相手が神学者先生なので難解なところも多く、本書の中でも特に「第4章 イエスの大祭司的な祈り」と「第5章 最後の晩餐」は我がボンクラ脳には荷が重かった。なのでここは面白かったのだけど記事としてまとめることがかなわなかった。

 よって今回の記事は、「メシアとは何か」とか「イエスが神殿の時代を終わらせたこと」、そして「イエスの中でも対立していた神の意思と人間の意思」や「イエスがもたらした政教分離」、はたまた「贖いとは何か」といったあたりをまとめていきたいと思う。


再び、「救世主(メシア)」とは何か

 前々回の記事の中で『「救世主(メシア)」とは何か』という項を書き、わたしたち一般が思い描くメシア像とイエスの示したメシア像の違いを説明してみた。

 それを今ここで簡潔にまとめてみると、わたしたちの思い描くメシアは人々から苦しみを取り除いてくれる「ヒーロー」なのであるが、エスの示したメシアは人と神とを和解させる「贖いのいけにえ」なのであった。

 わたしたちの一般的なメシア像は、政治的なヒーロー、例えば能力にたけた革命家のような人物なのである。
 つまり、わたしたちはわたしたちの「苦しみ」を取り除いてくれる実用的人物をメシアとして捉えているのである。

 一方で、イエスが示したメシア像は、非政治的な人物であり、彼はわたしたちを神と和解させるためにやってきた人にすぎない。
 そんなメシアは、わたしたちの目には非実用的な人物に映り、わたしたちから「苦しみ」を取り除くどころか逆に十字架上で「苦しみ」ながら死んでしまうような無能と呼べる人物に見えるのである。

 そして、この二冊目においても、イエスを取り巻く民衆が、彼に「政治的なヒーロー」を期待していることが描かれているのである。
 それは「メシア」・イエスが、新しい王となって君臨し、ローマの支配を打ち破り、かつての華やかなりしダヴィデの国を再興してくれるという期待である。

 けれども、「メシア」・イエスはこのような民衆の期待には応えることはなかった。

彼はローマに対する軍事的な反乱を企てることはありません。彼の力はそれとは別の力です。彼の力は、神の貧さの力であり、神の平和の力です。彼は、そこにのみ救いの力を見ているのです。
「第1章 エルサレム入城と神殿の浄化」(p.12)

 民衆の期待する王国は、外からの強制力によって建てられる王国であった。同時にそれは「政治的な力」によってわたしたちに「苦しみからの解放」をもたらす王国だったと言える。
 しかしながら、「メシア」・イエスの王国は、内からの愛によって建てられる王国であったのである。そしてそれは「十字架の苦しみ」によってわたしたちに「神との和解」をもたらす王国であったのだ。
 このように民衆は、メシアが「政治権力」をふるうことによって、「苦しみ」が取り除かれることを望んだのであるが、それはイエスが示したメシア像ではなかったのである。

 そして、当時から二千年を超えた今現在であっても、エスを政治的な革命家とみなす解釈は止むことない。
 それほどまでに、世界は苦しみ続けているということがいえるであろう。
 けれども本書には、イエスを政治的人物と担ぎ上げる神学について次のような記述がある。

エスのゼロータイ的な解釈によって、暴力をよりよい世界、神の国の建設のための手段として合法化しようとした革命の神学の波は時と共に沈静化してゆきました。宗教的に動機づけられた暴力の残酷な結末は、我々すべての者の眼前に余りにも明らかに横たわっています。暴力は、神の国人間性の支配する社会を立ち上げることはできません。それは、宗教的、また理想主義的な動機づけによるものであったとしても、かえって逆にアンチキリストの常套手段なのです。そのようなものは人間性の向上に資するものではなく、かえって社会の非人間化を推し進めるものなのです。
「第1章 エルサレム入城と神殿の浄化」(p.23)

 前々回の記事でも似たようなことを書いたが、わたしたちは外からの強制力によって、人を、社会を手っ取り早く変えてしまおうと望む習性があるように思われる。

 けれども、「メシア」・イエスがもたらした変革の力は、外からの強制力ではなく、内側に宿る愛であったのだ。
 そしてこの愛が、わたしたちの内側に宿ることによって、わたしたちの「良心の座」には不安ではなく、愛が座ることになるのだと思う。
 これによって、例えば道徳的な行いなども、不安から、誰かに後ろ指をさされるという不安から、オドオドと行うものではなくなるのだ。
 そして、内側に宿る愛によってこそ、人は、社会は内側からゆっくりと変わっていき、この愛によってこそ、人間性はノビノビと向上してゆけるのだと思う。



破壊された神殿と「新しい神殿」

 イエスは神殿を愛し、神殿で教えを説いていた。
 けれども、イエス「神殿の時」が既に過ぎ去り「新しい神殿の時」が彼の死と復活によって到来することを知っていたのである。

 そして実際に、西暦六六年から七三年にかけて行われたユダヤ戦争において、ローマ軍の手によってエルサレムの神殿は破壊し尽くされ、「神殿の時」は終わりを迎えたのである。
 破壊の後に残されたもの、それは神殿の西側の壁、いわゆる「嘆きの壁」だけであった。

 七〇年の神殿の破壊は決定的でした。バル・コクバはハドリアーヌス帝の時に反乱(西暦一三二〜一三五)を起こし、神殿の再興を試みましたが、失敗に終わりました。ハドリアーヌスはかえってユダヤ人に、エルサレムとその周辺に立ち入ることを禁止し、エルサレムに代わってアエリア・カピトリーナという新しい街を建て、ジュピターに犠牲を捧げました。「四世紀に、コンスタンティーヌス皇帝になって初めて、年に一回、エルサレム破壊の記念日にエルサレムを訪れ、神殿の壁(嘆きの壁)で嘆き悲しむことが許されたのです」(Gnilka,Nazarener, S.72)。
「第2章 終末についてのイエスの言葉」(p.42)

 ユダヤ人にとって、神殿とそこで行う犠牲祭儀こそが信仰の中心であったので、この神殿の喪失は彼らにとって壊滅的な痛手となった。
 現に、この神殿なしの時代に、ユダヤ教の多くの宗派は消滅してゆき、生き残ったのはファリサイ派だけであったという。

この時から初めて、わたしたちは本来の意味での「ユダヤ教」について語ることができるのです。それは、具体的な神殿祭儀の実施なしに、聖書の正典を神の啓示として読み理解する道です。神殿祭儀はもはや存在しないのです。その限りにおいて、イスラエルの信仰は七〇年以降新しい形を獲得したのです。
「第2章 終末についてのイエスの言葉」(p.43)

 このように、わたしたちが知っているユダヤ教は、聖書を信仰の中心にすえた新しい形のユダヤ教なのである。

 一方で、キリスト教もまた神殿なしの時代に、独自に適応していっていた。
 この時代、ユダヤ教徒は聖書に向かっていったが、キリスト教徒はイエスという「新しい神殿」に向かっていったのである。
 事実、使徒パウロの中心思想は、この「新しい神殿」イエスを信仰の中心にすえることにあった。

パウロにとっては、犠牲祭儀と神殿はキリストの十字架において撤去されたのです。その代わりに今そこに置かれているのは、十字架につけられ復活したキリストいう、生きた契約の櫃です。
「第2章 終末についてのイエスの言葉」(p.51)

 そしてキリスト教徒にとって、復活したイエスから「新しい時代」いわゆる「異教徒の時」が始まるのである。
 この「異教徒の時」とは福音宣教の時代、つまりすべての人と全世界に「イエスによって人と神とが和解が成立した」という福音が宣べ伝えられる時を意味している。

異教徒の時、それは同時に「教会の時」ということですが、それは上に見たように、すべての福音書に伝承されたことであり、終末についてのイエスの言葉の本質的な要素なのです。
「第2章 終末についてのイエスの言葉」(p.56)

 このように、イエスによって「新しい時代」は始まったのだが、繰り返し述べているように、イエスは人々が望んだようなメシアではなかった。
 エスがもたらしたのは「神との和解」というものであり、人々が望んでいたような「苦しみからの解放」はもたらさなかったのである。
 そしてこの事実は、わたしたちの生きる「異教徒の時」において、教会に対する、ひいては神に対するわたしたちの失望の原因ともなっていると言えるだろう。

 では、何故イエスはこの世から「苦しみ」を取り除かなかったのであろうか。
 この件に関する詳細は、以前取り上げた『サルヴィフィチ・ドローリス 苦しみのキリスト教的意味』(リンクを下に貼っておきます)に詳しいのだが、本書でも触れられているので、当記事を最期までお読みいただければニュアンスくらいは伝わると思いますです。

「神の意思」と「人間の意思」の対立

 イエスは、自らの死を前にしてオリーブ山の山腹ゲツセマネの園において一人祈る。

マルコはまず、イエスの祈りの内容をまとめて、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」(マコ14・35)と祈ったと言っています。しかし、イエスの祈りの本質的な部分は、言葉通りに表現されます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り去ってください。しかしわたしが欲することではなく、あなたが欲することが行われますように」(マコ14・36)。
「第6章 ゲツセマネ」(p.185−186)

 イエスは、その死を前にして、人間の本性としての恐れを体験していた。

 この恐れは「人間の意思」「神の意思」の間にある「対立」から生じるものだという。
 というのも、アダムの罪によって、「人間の意思」は「神の意思」との協調状態から外れたからであり、人間にとって神は自分と交わることのない存在、わたしたちを脅かす存在になってしまったからである。

神の意思との一致のうちに自らの意思の完成を見出すことのできない人間のみが、自分の自由が神の意思によって損なわれると感じるのです。そのような人間は、神の意思への「然り」のうちにまったく自分自身であり得る可能性を見出すことができず、かえって自らの自由に対する脅威を感じ、それに対し防御反応に出るのです。
「第6章 ゲツセマネ」(p.193)

 そして、自らの死を前にしたイエスにとっても、神は、「神の意思」は、脅威そのものであったという。
 けれども、イエスは人間の本性としての恐れを感じながらも、「神の意思」への「然り」を貫いたのであった。

 オリーブ山での出来事の意味は、イエスが人間としての本性的な意思を神への対立からシュネルギーへと、神との協調へと取り戻し、それにより人間をその本来の偉大さへと取り戻したことの内にあります。エスの人間としての本性的意思における人間本性の神に対する反抗は、いわばイエス自身においても現存していたのです。わたしたちすべての者のうちにある強情さというもの、神への反抗心の総体はそこに現存していたのであり、エスは、苦闘を通して、この反抗的な本性をその本来の本質へと高めたのです。
「第6章 ゲツセマネ」(p.193)

 このように、イエスは「神の意思」に「然り」で応え、人間を神に従わせた。
 このエスが示した「神への従順」によって、イエスはサタンの支配権を打ち破り、わたしたち人間に「悪からの解放」という「神との和解」をもたらしたのである。

 確かにイエスは、わたしたちに「苦しみからの解放」はもたらさなかった。けれども、イエスはこの「苦しみ」を通して「悪からの解放」をわたしたちにもたらしたであった。

 

エスのもたらした「政教分離

 また、イエスは「政教分離」をもわたしたちにもたらした。

そして事実、エスは彼の福音によって、宗教的なものを政治的なものから分離することを遂行したのであり、このことは実際に彼の新しい道の本質に属することであり、世界を変えることとなったのです。
「第7章 イエスの裁判」(p.204)

 今から二千年以上も前の当時の世界においては、「政治的なもの」と「宗教的なもの」という二つのものは渾然一体となって混じり合った政教一致の状態にあり、分離不可能な状態であったという。
 政治の問題は宗教の問題であり、宗教の問題は政治の問題であったのだ。

 この混じり合っていた二つのものをイエスは分離させたのである。

エスは、彼の福音と彼の働きにおいて、非政治的なメシアの国を開き、それまで離すことのできなかった二つの現実を離す仕事を始めたと、わたしたちは言いました。しかし、彼の福音の本質に属することである、政治と信仰の分離、神の民と政治の分離は、窮極的には十字架によってのみ可能なのです。あらゆる外的な権力の現実的で完全な放棄によってのみ、十字架の極限的な自己放棄によってのみ、新しいものは現実となるのです。十字架につけられた者への信仰において初めて、すべての地上的な力を奪われ、神のもとへと高められた者への信仰において初めて、新しい共同体、この世における神の支配の新しい形は現れるのです。
「第7章 イエスの裁判」(p.205−206)

 では、イエスのもたらした「政教分離」は、いったい何を意味しているというのだろうか。

 まずはじめに、政治は「人間」の範疇のものであり、宗教は「神」の範疇のものであると言えよう。
 そしてイエスは、渾然一体となって混じり合っていた「神の範疇」と「人間の範疇」とをハッキリキッパリと分離させたのである。
 いわば「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返し」たのである。

 このように、ハッキリキッパリ分けた上で、エスは「神の意思」に「然り」で応え、人間を神に従わせた。つまりイエスは、人間の持つ「能力」を放棄し、その身を神の「愛」にゆだねたのだと言えよう。
 そしてイエスが示した、この「神の優位性」、この「上下の秩序」こそが、イエスがわたしたちにもたらした「政教分離」の本懐であると言えるだろう。

 先にイエスが示した「神への従順」によって「人間の意思」と「神の意思」は協調状態に戻ったと述べたが、それは二つの違いを明らかにしたから可能となったのであろう。
 このようにイエスが示した「協調状態」とは、すべての相違をアイマイにした渾然一体となった状態ではないのである。


「贖い」の行いの必要性について

 かつての神殿においては、「贖いのいけにえ」を神に捧げる儀式が執り行われ、それによって自分たちを「浄め」ようとしていた。
 それは「神との和解」を望んでの行いであった。
 けれども、この犠牲祭儀による「神との和解」は不完全なものにすぎなかった。
 そして人々は、完全な「贖い」、完全な「神との和解」を望むようになる。

動物の犠牲によって手に入れようとしても、手に入れることのできなかった贖いは、キリストの十字架によって現実となったのです。世界の罪は贖われたのです。「神の小羊」は世の罪を自らの上に担い、取り除いたのです。人間の罪によって妨げられていた、神と世界との関係は新たにされ、和解が実現したのです。
「第8章 イエスの十字架と埋葬」(p.273)

 このようにイエスこそが、人々の望んだ完全な「贖いのいけにえ」であり、完全な「神との和解」をこの世にもたらすメシアであったのである。

 そして、わたしたちは日々「贖い」の行いを通して、「浄め」られていき、神との結びつきを強めていくことができるのである。

 しかしながら、この点に関して、繰り返し提出されてきた批判がある。
 それは、神が愛であるならば「贖い」の行いも免除されるべきだ、神が愛であるならば人間を一方的に「浄め」てくれるべきだ、といった批判である。

 わたしたちはこの批判をどう考えたらよいのだろうか。
 でもそれでも、本書は「贖い」の行いはわたしたち一人ひとりが実行していかなければならないものだ、としている。つまり、「浄め」は一方的に行われるものではないと、しているのである。
 「贖い」の行いをわたしたち一人ひとりが実行していかなければならないのは、わたしたち一人ひとりがイエスに「触れ」なければならないからである。

 そして、このイエスに「触れ」ることを通して、わたしたちは「浄め」られていくのである。

それは一つひとつ丁寧に手を加えて作り変えられなければなりません。残酷な神によって法外なことが要求されているのではありません。現実は、まったくその反対です。神ご自身が、自らを和解の座として立てられ、その子において人間の嘆き苦しみを自らのうちに受け入れられたのです。神ご自身がその無限の清浄さをこの世に与えられたのです。
「第8章 イエスの十字架と埋葬」(p.276)

 では、イエスに「触れ」ることのできる「贖い」の行いとは、いったい何であろうか。
 かつてのように神殿で犠牲祭儀を行えばよいのだろうか、それとも苦行でも行えばよいのだろうか。
 もちろんそういうことではないと本書は述べている

 本書によれば、神の望む「贖い」の行いとは、イエスの示した「神への従順」に倣うことなのだという。

詩編において既に、犠牲の代わりに従順の重要性が強調されています。神の言葉によって生き、神の言葉のうちに生きることが、神に対する崇敬の真の道として認められたのでした。この点において、詩編は、キリスト誕生以前のギリシア精神の潮流とし共通したものを持っています。
(略)
人間の心を神に向けて開く行為としての祈りが、真の祭儀であるのです。
「第8章 イエスの十字架と埋葬」(p.277)

 そして、イエスの示した「神への従順」は、十字架に至る道であり、それは「苦しみ」をともなう道であった。
 であるから、わたしたちにとって、日常生活において多分に味わうことになる「苦しみ」に耐えつつ、心を神に向けることこそが、「イエスの従順」に倣うことなのだと言えよう。
 そして、日々味わう「苦しみ」を通して、イエスに「触れ」、そして「浄め」られていくのだと言えよう。

 犠牲祭儀の時代においては、「苦しみ」は罰であり、善の欠如でしかなかったが、イエスによって「苦しみ」は神と触れ合う場所、「悪からの解放」の場となったのである。


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