ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「ナザレのイエス プロローグ:降誕」名誉教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】天使ガブリエルは、マリアに「喜びなさい(ヒャイレ)」と挨拶した。この「喜び(ヒャイレ)」は旧約聖書から来た言葉だという。このように、旧約聖書新約聖書の二冊は、合わせて読むとより深く理解することができる。
 イエスは、この地上に「罪からの救い」を与えるためにやってきたのだが、人々が求めていた救いは「物質的」なものであった。それでもイエスは「罪の赦し」の優先性を最後まで示し続けた。
 イエスは人々からの「反対」を受けた。そしてこれは現代に至るまで続いている。それというのも、神なるものは、人間の自由と自主性を阻害するもののように捉えられているからである。

ナザレのイエス プロローグ:降誕」名誉教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳 春秋社 2013年12月25日初版

三冊シリーズの最終巻、三冊目!!!

 全三冊からなる「ナザレのイエス」シリーズも、ついに最終巻である。

 この最終巻にあたる第Ⅲ巻は「ナザレのイエス プロローグ:降誕」と題されており、その名の通りに、エスの誕生とその幼年時代にスポット当てた作品である。

 ちなみに、第Ⅰ巻である「ナザレのイエス」は、イエスの公生活の前半、イエスの洗礼や山上での説教などを扱っており、また第Ⅱ巻である「ナザレのイエスⅡ:十字架と復活」は、イエスの公生活の後半、イエスの受難と復活に焦点を当てた作品である。

 この最終巻は、他の二冊と比べて薄いこともあり、読み進めるのが比較的楽である。
 なので、「プロローグ」ということもあり、(今は第Ⅰ巻が新刊書店で手に入らないことも鑑みると)この最終巻から読み始めるというのも「アリ」だと思う。


天使ガブリエルの告知

 天使ガブリエルは、マリアのもとを訪れ、彼女に「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1・28 新共同訳)と挨拶をする。

 この天使の言った「おめでとう」。
 元になった言葉は、ヘブライ語の挨拶「シャローム(平和がありますように!)」ではなく、ギリシア語の挨拶「ヒャイレ(喜びなさい!)」なのだという。
 つまり、天使は「喜びなさい、恵まれた方!」と挨拶したのネ。

 それでもって、この「喜びなさい!」の言葉は、旧約聖書」から取られた言葉なのだという。

ガブリエルのマリアへの挨拶においては、ゼファニヤ書三章十四〜十七節の預言が取り上げられ、具現化されています。そこには次のように書かれているのです。「娘シオンよ、喜び叫べイスラエルよ、歓呼の声を挙げよ。……イスラエルの王、主はお前たちのただ中におられる」。
「第2章 洗礼者ヨハネの誕生とイエスの誕生の告知」(p.38−39)

 「旧約聖書」において、娘シオンが「喜べる」のは、「主はお前たちのただ中におられる」からである。

 そして、この「主はお前たちのただ中におられる」という言葉も、本来の訳は「主はお前の胎のうちに(en gastri)おられる」となるのだという。

 そして、この言葉は天使ガブリエルの次の言葉、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい」(ルカ1・30−31 新共同訳)に繋がるものなのだという。

まさにこの言葉が、マリアへのガブリエルの挨拶において繰り返されます。「あなたはあなたの胎のうちに(en gastri)子を身ごもる」(ルカ1・31)
「第2章 洗礼者ヨハネの誕生とイエスの誕生の告知」(p.39)

 このように、旧約聖書」の娘シオンに約束されたものは、「新約聖書」の聖母マリアによって実現されるのである。

 「旧約聖書」と「新約聖書」という二つの書物は本来的に繋がったものであり、それ故に「旧約聖書」と「新約聖書」は合わせたものとして理解されなければならない、というのが本シリーズを通じての主張である。

 さらに、天使ガブリエルは言葉を続け、「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1・32−33 新共同訳)と告げるのであった。

 ここにも「旧約聖書」との繋がりが見出せる、という。
 天使ガブリエルは、ダビデとの約束のことをマリアに告げるのである。

天使は、神がその約束を忘れることなく、その約束は、マリアが聖霊によって身ごもる子において、今や現実となるであろうことを告げます。「その支配は終わることがない」(ルカ1・33)と、ガブリエルはマリアに言います。
「第2章 洗礼者ヨハネの誕生とイエスの誕生の告知」(p.43)

 このように、旧約聖書」のダビデに約束された王国は、「新約聖書」のイエスによって実現されるのであった。

 だが、しかし……である。

 「旧約聖書」と「新約聖書」を通じて「約束の王国」は繋がっているだが、「新約聖書」において実現した王国は、「旧約聖書」を信じていた当時の人々にとっては受け入れ難い王国であったのである。

 つまり、エスによってもたらされた王国は、当時の人々が思い描いていたような「地上的な王国」ではなかったのである。
 人々が期待していたのは、約束された王様が「地上的な権力」をふるって世界を統治し、この地上に「繁栄」と「栄華」をもたらすことであったのだ。

 そのことについて、本書には次のように書かれている。

 しかし、「その支配は終わることがない」。この、もう一つの国は、地上的な力によっているのではありません。それは、信仰と愛にのみその根拠を置いているのです。それは、神からしばしば見離されたかに思われるこの世界のただ中において、大いなる希望の力です。ダビデの子、イエスの国は、終わりを知りません。そこでは神ご自身が支配され、神の支配はこの世界の中にまで浸透して行くのです。ガブリエルがおとめマリアに伝えた約束は真実であり、常に新たに実現されてゆくのです。
「第2章 洗礼者ヨハネの誕生とイエスの誕生の告知」(p.44)

 このように、「約束の王国」は、「繁栄」と「栄華」の王国ではなく、「信仰」と「愛」に根拠をおいた王国であったのである。

 ダビデとイエス、そして「旧約聖書」と「新約聖書」。
 二つは繋がったものであり、イエスが現れたとき、「イエス」から「ダビデ」を改めて理解しなければならなかったのだが、「繁栄」と「栄華」の王国を待ち望んでいた人々は、イエスを拒否したのである。

 このように、天使ガブリエルによって告げられた「イエスの支配」とは、十字架の苦しみによって、この地上に、神との和解と神の愛をもたらすものであった。
 けれども、こうした形の救いは、当時の人々だけでなく、「繁栄」と「栄華」を望む私たちをも失望させるものであり、同時にイエスを拒否する理由にもなっているのである。

「イエス」という名

 イエスの養父、ヨセフの夢に天使が現れ、ヨセフに一つの使命が与えられる。
 「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民をその罪から救うからである」(マタ1・21)という使命である。

 エス(Jeshua)という名は「ヤハウェ(JHWH)は救いである」という意味であり、そしてこの「救い」の意味するところは「罪からの救い」のことを表している。
 事実、「罪を赦すこと」こそは、神の特権なのであり、そしてこのことは、イエスが神と直接結ばれていることのしるしともなるのだ。

 けれども、繰り返しになるが、こうした形の「救い」は人々の望んでいたものではなかった。

他方では、メシアの使命のこの定義は、人々を失望させるものであるように思われます。一般的な救いの期待は、特にイスラエルの現実の困窮に向けられていました。ダビデの王家の復興、イスラエルの自由と独立、そしてそれと同時に、勿論のことながら、広範囲にわたって貧困にあえぐ民の物質的な繁栄に向けられていたのです。
罪の赦しの約束は、多すぎると同時に少なすぎると思われたのです。それは、神に保留された、神固有の領域に介入することになるので、多すぎ、イスラエルの日々の具体的な苦しみと、その現実的な救いの必要には関わらないと思われたので、少なすぎたのです。
(略)
確かに、彼の派遣の使命は、メシアの救いに対する人々の直接の期待に沿うものではありませんでした。人々は、罪によるよりも、むしろ現実の苦難、困窮、彼らの自由のなさ、彼らの存在の惨めさによって押し潰されていると感じていたのです。
「第2章 洗礼者ヨハネの誕生とイエスの誕生の告知」(p.56)

 このように、人々が神に求め続けてきた「救い」とは、「世俗的な救い」、例えば「物質的な繁栄」であったのである。

 そして、人々の「救いの優先順位」は、まず第一に「世俗的な救い」であり、「罪の赦し」のような「宗教的な救い」などは二の次三の次であったのだ。

 本書は、この「救いの優先順位」を現した典型的な例として、中風の人を屋根から吊り下ろしイエスのもとに運んだという逸話を挙げている。

 そして、この逸話について次のように解説している。

苦しんでいる人がそこにいるということは、それ自身、救いへの願い、救いへの叫びです。それに対しイエスは、病人を担いできた人、また病人自身の期待にまったく反して、「子よ、あなたの罪は赦される」(マコ2・5)と答えます。人々はそのようなことは期待していなかったのです。そのようなことは問題ではなかったのです。中風の人は罪から解放されるのではなく、行くことができるようにされなければならなかったのです。
律法学者はイエスの言葉の神学的な僭越さを批判します。病気の人と、周りにいる人たちは、イエスがこの人間の本来の苦難をまともに見ようとしないと思い、失望します。
「第2章 洗礼者ヨハネの誕生とイエスの誕生の告知」(p.56−57)

 イエスは、人々の期待にまったく反して、まず第一に「宗教的な救い」の方を実行するのであるが、それは人々を失望させる行為であった。

 そして、この場面では、まず「罪の赦し」を行った後、今度はイエスは人々の期待を受け入れ、「世俗的な救い」を行って、自分が権能を持っていることをわかりやすい形で示したのである。

エスは病人に床を担いで行くようにと命令し、それにより彼が罪を赦す権限を持っていることが示されます。しかし、罪の赦しの優先性が人間のすべての真の救いの基盤であることは、明らかな真理として示されるのです。
 人間は関係のうちに生きる存在です。そして、人間の第一の、基本的な関係、すなわち神への関係が損なわれているとき、現実的には何ものも正常であり得ることはありません。エスの使信と働きにおいては、まさにこの優先性が問題とされています。彼は、災いの根源に人々の目をまず向けさせます。そして、そのことにおいて関係が正されていないならば、どのような良いものを探し出したとしても、真に救われることにはならないのです。
「第2章 洗礼者ヨハネの誕生とイエスの誕生の告知」(p.57)

 ここで語られているように、この逸話の眼目は、イエスが「宗教的な救い」の方を何よりも優先したという事実であろう。
 まず、「罪の赦し」という「宗教的な救い」が行われなければ、そしてそれによって人と神との関係が修復されなければ、「世俗的な救い」など束の間のものに過ぎない、ということである。

 そして、こうしたイエスの行いによって、「イエス(Jeshua)」という名の本当の意味、つまり「救いの本質」とは何かが示されているのだという。


預言された神への「反抗」

 ルカの福音書には、イエスが生まれてから四十日目に、マリアがイエスの奉献のために神殿に赴いたことが描かれている。

 マリアはそこで、預言者シメオンと女預言者ハンナの二人に出会うのであった。

 シメオン爺さんは、幼子イエスを抱きながら神を賛美した後、さらに言葉を続けるのである。

幼児に対する喜びの言葉に続いて、マリアに対しては、十字架の預言をするのです(ルカ2・34−35)。イエスは、「イスラエルの多くの人が彼によって倒され、また彼によって立ちあがらされるように定められ」、反対を受けるしるしとして定められているのです。遂には、母親に対してまったく個人的な預言がなされます。「あなたの心は剣で刺し貫かれます」。栄光の神学は、十字架の神学と引き離しがたく結ばれているのです。
「第3章 べトレヘムにおけるイエスの誕生」(p.106)

 シメオン爺さんによって、イエスは人々からの「反対」を受けること、そしてさらにその母マリアが「心を剣で刺し貫かれる」ことが預言されたのである。

 神に対する人々からの「反抗」について、本書は次のようにまとめている。

 これは過去のことについて語られているのではありません。今日、キリストが、究極的には神ご自身に向けられている反抗のしるしとしてあることは、すべての人の知るところです。今日において、神はますます人間の自由を制限するものとして認識され、人間が自主性を取り戻すためには、取り除かれなければならない制限として考えられています。人間の偽り、人間の利己主義、人間の高慢のさまざまの偽りに対抗して、神はその真理において厳として立っているのです。
 神は愛です。しかし、愛の名によって自分自身からの脱却が要求されるとき、愛は憎悪の対象となり得ます。愛はロマンティックな快感ではありません。救いは幸福、無事息災ではありません。自己満足のぬるま湯につかることではありません。それはまさに、自己への囚われからの解放です。この解放は十字架の痛みを要求します。
「第3章 べトレヘムにおけるイエスの誕生」(p.107)

 「愛はロマンティックな快感ではありません」などと、なかなかに厳しいお言葉に思われるが、けれどもここで述べられているような「自分自身からの脱却」や「自己への囚われからの解放」といったものこそが、私たちを「本来的な私」にするのではなかろうか。

 ちょっとばかし昔に、当ブログでフロムの『自由からの逃走』を取り上げた回があり、その中で私はフロムの思想を次のようにまとめていた。

フロムは言う。近代人の自我とは、「社会的な自我」にすぎない、と。他人の是認を求める近代人は、社会的に認められている「社会的自我」を貪欲に追求していくのである。
 このことから、近代人は、「自分以外の何ものか」になることによって自己実現を果たそうとしているように思われる。
「ハキダメ記:『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム著 前編より」

 こうしたフロムの思想と本書を併せて考えてみると、次のようなことが言えると思う。

 近代人は、神に「反抗」し、この世から神を取り除くのに成功したのだが、その結果、近代人は「社会的自我」を貪欲に追求していくことになり、それによって社会における「自己実現」は果たせたが、同時に「本来的な私」を失うという「自己喪失」に陥った、と。

 そして、この「社会的自我」の貪欲な追求こそが、本書で批判されているような「自己への囚われ」のように思えるのである。

 テレフィン人生相談でお馴染みの加藤諦三氏の著書に、次のような言葉がある。

つまり、自己中心の人というのは、自分の内面に自分の拠り所がない人である。自己中心とは、
自己不在なのである。
もっとも、自己中心という言葉自体に問題がある。自己中心という時の「自己」とは、依存心
のことであろう。つまり本来は自己中心といわないで、依存心中心というべきなのかもしれな
い。
加藤諦三著『人生の悲劇は「よい子」に始まる』PHP文庫(p.160)

 「自己中心」と「自己への囚われ」は同義であると言えるだろう。

 そして、自分の内面に拠り所を持たない近代人は、社会の中に拠り所を求め、社会的に認められることを貪欲に追求していくのである。

 こうしたことを鑑みると、私たち近代人が、自分の内面に拠り所を持つには、神への「従順」、神の前に立つことが必要なのかもしれない。


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