ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「目からウロコ ゆるしの秘跡」来住英俊著 を買った

【ザックリとしたまとめ】今回は、「ゆるしの秘跡」にイキヅマリを感じていたワタクシの私的備忘録的な記事。
〈ナントナク〉で受けていた「ゆるしの秘跡」であったが、本書を読めば、その有効的な受け方がわかってくる。
ポイントは「後悔」と「痛悔」は違うということ。
そして「痛悔」するには、具体的な「個々の行為」を想起することと、「まわりにいる他者」の〈かけがえのなさ〉を思い出さなければならない。

目からウロコ ゆるしの秘跡

目からウロコ ゆるしの秘跡

  • 作者:来住 英俊
  • 発売日: 2003/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
「目からウロコ ゆるしの秘跡」来住英俊著 2003年10月16日初版

はじめに

 本書は、カトリック教会における、いわゆる「懺悔」、いわゆる「告悔」、つまりは「ゆるしの秘跡」についてまとめられた本である。

 今回は、ワタクシのワタクシによるワタクシのための備忘録的な記事だと言って過言ではない。
 なので今回は(今回も?)、読者サマの読書の参考にはならぬと思うので、ご了承いただきとう存じ上げます🙇。

 成年洗礼を受けて早10年。
 ワタクシ自身が、この「ゆるしの秘跡」というものにイキヅマリを感じていたのよね。

 で、どんなイキヅマリかというと、「人を憎んでしまいます😔」などという〈ボンヤリとした抽象的な告白〉を、毎度マイド繰り返し、しかもだいたい〈似たような文言〉でもって繰り返していたので、「ゆるしの秘跡」が〈マンネリ化〉してしまっていたのよね。
 ほんと正直な話、ここ最近は「も〜イヤイヤ、も〜メンドークサ〜イ😫」と言ってこの秘跡から遠ざかっていた次第。

 そんな時に降って湧いたのが今回の「コロナ禍」である。
 教会にもそうそう通うこともできないので、だったらこの機会に「ゆるしの秘跡」をそのはじめから見直してみようと思って本書を手に取ってみたワケ。

 手に取って、読んでみてわかったけど、本書は「看板にイツワリなし」でホントに「目からウロコ」であった。
 本書で述べられている「ゆるしの秘跡」のコツは、今までのワタクシに全く欠けていた視点を十二分に教えてくれていて、なんだか自由になれた気がしたのである。


「ゆるしの秘跡」で何を告白するか

 ワタクシは「人を憎んでしまいます😔」などという告白を繰り返してきたが、本書によれば「ゆるしの秘跡」の場で告白すべきは、具体的な「個々の行為」なのだという。

個々の行為、あるいは不行為(行動しなかった事実)をしっかりとまっすぐに見つめて告白する。そして、ゆるしていただくことによって、根源的な罪の状態から脱出する回心の道をさらに力強く歩んでいけるのです。それがゆるしの秘跡の役割です。
「第一章 ゆるしの秘跡で告白すべき罪とは何か」(p.12)

 しかしながら、実際の「ゆるしの秘跡」の場で散見するのは「よく〇〇します😔」というもの。
 ワタクシのように〈ボンヤリとした抽象的な告白〉なんだそうな。

たとえば、「よく夫婦げんかします」という告白です。しかし、これでは夫婦の仲が悪いという状態を言っているだけです。罪を認めているのではなく、「自分と夫の間はうまくいっていない」と悩んでいるのです。
 いつ、何が理由で、どんな暴言を吐いたのか。一つひとつの出来事とその中にある自分の行動をはっきりと見つめなければ、罪の告白とは言えません。
「第一章 ゆるしの秘跡で告白すべき罪とは何か」(p.14)

 このように、「人を憎んでしまいます😔」とか「よく夫婦げんかします😔」とかいった〈ボンヤリとした抽象的な告白〉が意味しているのは、自分が「うまくやれなかった」ことに対する「後悔」の念である。
 つまり、今までのワタクシは「ゆるしの秘跡」の場において「後悔」の念をトートーと吐露していたに過ぎない。

 けれども、「後悔」の告白を繰り返していては〈マンネリ化〉してしまうのだ。

 次の引用は本書の中で特に印象に残った部分である。

 殺人や窃盗のように国の法律で定められているものだけでなく、キリスト信者はいろいろな規範を持っています。「ミサにはあずかるべきだ」、「キリスト信者はいつでも柔和親切であるべきだ」というようなものです。「ある人に冷たい態度を取った」とすると、それを罪と感じるのは、その規範を守れなかったと思うからなのです。しかし、その視点しかないと罪の意識は非常に浅いものに終わってしまいます。「痛悔」ではなく、自分がうまくやれなかったという意味で「後悔」と呼んだほうがふさわしいでしょう。教会が「個々の行為の根となっている自分のあり方そのものを見よ」と常に勧めるのはそのためです。
「第一章 ゆるしの秘跡で告白すべき罪とは何か」(p.18)

 つまり、「後悔」と「痛悔」はまったく違う、ということ。
 そして、「ゆるしの秘跡」の場でカギとなるのは「痛悔」の方、ということ。

 「後悔」の方は、自分の「内」へと向けられた「自意識」であり、それは私たちの心に色濃く残りやすい。
 なので「罪」と聞くと真っ先に思い浮かぶものである。
 だから「後悔」の告白は、手っ取り早くて、言い方は悪いがその場しのぎの告白におあつらえ向きと言えよう。

 けれども、「痛悔」においては、もっと「他者」がクローズアップされなければならない。
 「痛悔」とは大きな「後悔」ではないのである。
 それは「視点」がまったく異なるものなのだ。
 視点を、自分の「内」から「外」へと切り替えなければならない。

 そして、「痛悔」のためには、まず「他者」を、そして具体的な「個々の行為」を意識することが有効なのだ。

つまり、「おれはだめな奴だ」という嘆きではなく、「周囲の個々の人にこういう損害を与えてきた」という明晰な自覚が回復のために必要なのです。
「第一章 ゆるしの秘跡で告白すべき罪とは何か」(p.22)

 そして、こうした明晰な自覚は、「まわりにいる他者」の〈かけがえのなさ〉を思い出さない限り起こらない。

 イギリスのカトリック作家チェスタトンの言葉に『街に見る顔の一つ一つがおとぎ話の信じ難いほどの意外性を持つ(「異端者の群れ」より)』というのがある。

 「まわりにいる他者」は、笑い、泣き、悩み、怒り、そして歓喜するという、私たちの想像をはるかに超えた〈かけがいのない〉存在なのだ。 
 彼は、あの時の私にそう見えた〈つまらない存在〉や〈劣った存在〉なのではない。

 それは、まわりの世界に対する私の「無関心、冷淡、あきらめ」が見せた幻影なのだ。
 そしてそれは、積み重なった罪が見せた幻影なのである。

 具体的には、人間関係における無関心、冷淡、あきらめとして表れてきます。誤解しないでください。無関心、冷淡、あきらめが罪だと言っているのではありません。さまざまな罪がゆるしを受けないままに積み重なった「結果」として、無関心、冷淡、あきらめが心の中をしだいに支配するようになると言っているのです。無関心、冷淡、あきらめは、次の罪の温床です。そして、次の罪が、また、無関心、冷淡、あきらめを深くする。こうしてらせん状に状態は悪くなっていきます。
「第三章 ゆるしの秘跡は何を与えてくれるのか」(p.65−66)

 私たちは、日々のあわただしい生活の中で、「まわりにいる他者」の〈かけがえのなさ〉を忘れ、彼を〈冷淡〉な目で眺めやるようになってしまうのだ。

 そして、この「まわりにいる他者」の〈かけがえのなさ〉を再発見するために行うのが、そして「痛悔」するために行うのが、いわゆる「罪の糾明」だ。

きちんと見つめようとすれば、今でもわかる罪もあります。そのように見つめること、それが罪の糾明です。わかった罪ははっきりと神さまに申し上げて、ゆるしを受けましょう。それがゆるしの秘跡です。そして、ゆるしを受けることによって、心の目がしだいに開かれて、自分が誰にどういう損害を与えているのかが、さらにはっきりと見えてくるようになるでしょう。
「第一章 ゆるしの秘跡で告白すべき罪とは何か」(p.36)

 では、この「罪の糾明」をするにはどうすれば良いのだろうか。


「罪の糾明」のやり方

 本書には、「罪の糾明」のやり方として、五つの方法が載せられている。

 1:自分の罪の意識から出発する
 2:苦しんでいる人々から出発する
 3:教会共同体の弱さから出発する
 4:チェックリストを使う
 5:心の中の思いを告白すべきか
 以上の五つである。

 この記事では、1と2、ついでに5について考察してみたい。
 3と4は、〈上級者向け〉だと思うのよね。

第1の方法:自分の罪の意識から出発する

 これはごくごく一般的な方法であろう。ワタクシも今まではこの手法を採用していた。
 これは、心の中にある「もやもや」から罪を認識しようとするものである。

 しかしながら、来住氏はこの方法には注意点があるという。
 読んでいて、ここの指摘も重要だなと思ったので、ちょっと長いが引用してみる。

 心の「ひっかかり」あるいは「もやもや」が、罪の意識なのか、それとも挫折感なのかを見分ける必要があります。たとえば、「人の心を傷つけました」という告白がありますが、この表現は要注意です。本来は大きな損害を意味していたはずですが、近ごろは安くなってしまいました。気を悪くさせてしまった、相手に悪い印象を与えてしまった、という自己中心的な後悔を言っていることも多いようです。
 不用意なことを言って人の気分を害するということはよくあります。しかし、多くの場合、損をしたのは相手からの評価が暴落した自分だけです。それを悔やんでいるのは罪意識ではありません。「わたしは彼を苦しめたのか」という言葉で糾明したほうがいいでしょう。たしかに、発した言葉が人間の心の深部に達して苦しめる場合があります。
「第二章 自分の罪を糾明する方法」(p.38−39)

 このように第1の方法は、「後悔」の告白になりやすいのだ。
 そして先に述べたように、「後悔」をどんなにいぢくりまわしてみたところで、「痛悔」には到らない。
 「痛悔」するには、「自意識」の檻から脱する必要があるのだ。

 ちなみに、先のチェスタトンは「自意識」について次のような言葉を残している。

傲慢の罪をよくないとする何千という理由の一つは、自意識は必然的に自己発現をだめにするということ、まさにそこにある。自分のことをいろいろ考える人間は、多面的になろうとする。あらゆる点で大向うをあっと言わせようと思い、文化の生き字引を目ざして、結局自分の本然の姿の偽の普遍主義の中に埋没してしまう。
「異端者の群れ:ジョージ・ムアの移り気」チェスタトン著(p.111)

 このように「自意識」の檻に閉じ込められていると、「まわりにいる他者」が見えなくなるだけでなく、「自分の本然の姿」も失われていくのである。
 「自己中心性」は、「他者」だけでなく「自分」をも見えなくするものなのだ。

 以上のことからワタクシなりに結論づけると、「自意識」を刺激しやすいこの第1の方法は、手っ取り早いので〈初心者向け〉のように見えるが、その実〈上級者向け〉の方法であると言えるだろう。

第2の方法:苦しんでいる人々から出発する

 これは来住氏オススメの方法である。
 ワタクシも読んでいて新たな視点が開けたような気がした。

 この方法は、自分の「外」の世界に目を向けることから始まる(第1の方法は、自分の「内」の世界に向かっていた)。

 では、どのようにやるのだろうか。
 本書から、ちょっと引用してみよう。

 1 自分の生活圏内をよく見つめる。(家庭、職場、教会など)
 2 そこに苦しんでいる人が見えるか?
 3 誰が、どんな苦しみを負っているかを具体的に考える。
 4 その苦しみと自分はどうかかわっているか? 自分の行動も彼の苦しみの原因になっているのではないか?
 5 それを自分の罪と認めるか?(これは決断である)

 この手順で大事なことは、2や3の段階で誰が悪いのかを考えないということです。ここでそれを考えると、自分のせいではないという思いが強くなって、事態が見えなくなります。
「第二章 自分の罪を糾明する方法」(p.40−41)

 でもって、本書ではこの方法の「具体的な進め方」が載せられている。

 例えば、1と2の段階を実行し、生活圏内に〈機嫌の悪い老人〉を見つけたとする。
 けれど、3や4の段階において、この老人の苦しみは「自分のせいなのか🤔」と考えてしまうと、「自分のせいではない😠」という結論に至り、考えが深まらないという。
 ここでヘタに考えようとすると、またしても「自意識」の罠にハマってしまうのだ。

 であるから、「自分のせいなのか🤔」と考える〈前〉に、まず「相手に心を寄せてみる❤️」こと。
 これこそが、この方法の〈コツ〉である。
 はじめの段階で、相手に心を寄り添わせてみると、相手に向けられていた〈冷淡〉な目が和らいでいく、という効能が期待できるのよ。

そうすると、老齢ゆえの苦しさとか、持って生まれた性格のために生きにくい人生になっている苦しみがわかってくるかもしれないのです。すると、ある程度の共感が生まれます。

 次に、第四段階です。その人の苦しみにある程度共感できると、自分の行動が原因の一つになっているかもしれないということを考えるのが容易になります。あるいは、「彼の苦しみを自分は少し軽くしてやれたかもしれないのに、そうはしなかったな」と考えることができます。原因の一つであって、原因のすべてではない。
「第二章 自分の罪を糾明する方法」(p.42)

 〈冷淡〉な目が和らいで、相手にちょっとでも「共感」ができれば、それが「自意識」の檻から抜け出すチャンス。
 意識が、「自分」から「まわりにいる他者」へと移るからだ。

 そして次の第四段階へと進むわけであるが、ここもやり方を間違えると「自意識」の檻に引き戻される危険がある。

 この段階では「自分と相手との関連性」について考えるわけだが、ここでは「自分の過失」から考えるよりも、まず「人と共に生きよう」とする姿勢から考えたほうが良いのではないかと思う。
 ここでいう「関連性」というのは、自分と相手の「利害関係」のことではなくて、自分と相手を含めた「共同体」としての「関連性」のことを指していると思うのだ。
 つまりは「キリストの共同体」としての「関連性」。私たち一人ひとりが、キリストを頭とした〈体の一部分〉であるとした、そういった「関連性」?
 日々の生活によって衰えてしまったのは、快活さ云々といった「能力」の方ではなくて、「人と共に生きてく姿勢」の方だと思う。
 この辺、まだうまく表現できないのだが、読んでいてそんなことを思ってしまったし、「自意識」の檻に引き戻されないためにも大事なことだと思った。

 そして、最後の段階、第五段階である。
 この最終段階で必要されるのが「決断」だ。
 上の例で言えば、老人の不機嫌を「自分の罪」とするのかしないのかの「決断」。
 
 もちろん、この老人の苦しみの全てが自分のせいではないのは事実。
 けれども、自分が〈何かしら出来るかもしれなかったこと〉を「自分の罪」として認めるかどうか。
 必要とされるのはその「決断」。

 そして、この「決断」は、先の述べたように「まわりにいる他者」と「共に生きよう」とするかどうかの「決断」であるとも言えると思う。
 彼と私は、お互いに「キリストの共同体」という〈体の一部分〉なのであり、彼の痛みは私の痛みでもあるとするかどうか。
 ここで問われているのはそういった「決断」だ。

 この「決断」の際の注意点として、本書には次のようにある。

最後は、今の自分の存在をかけて、自分の罪であると認めるかどうかです。
 すると、冗談半分に、「じゃあ、刑務所に入れられるわけじゃないんだから、多めに認めておけば間違いないだろう」と言う人がいるかもしれません。しかし、こういう人はそもそも問題にならないのです。ゆるしの秘跡は回心の道を歩みたいと望み、助けを求めている人のためのものです。神とのトラブルを少なくしようとする人のためのではありません。掛け金は言葉だけで安いから一応保険に入っておこう、という態度の人にはこの秘跡はわかりません。
「第二章 自分の罪を糾明する方法」(p.44−45)

 ワタクシは「神とのトラブルを少なくしよう」と思って「ゆるしの秘跡」にあずかっていた一人である。けれども、それじゃダメなのね。

第5の方法:「心の中の思い」を告白する

 第1の方法は、自分の「行ない」に関する「もやもや」から罪を認識しようとするものであった。
 この第5の方法は、もっと深いもの?で、まだ「行ない」を伴っていない、「心の中の思い」に関する「もやもや」から罪を認識しようとするものである。

 そして、〈憎悪〉や〈欲情〉などといった「心の中の思い」をネタにするこの告白も、ごく一般的な方法だと思う。
 けれども、やはりこのやり方も細心の注意を必要とするのだ。

 ここでも「まわりにいる他者」のことをまず始めに考えねばならない。
 〈憎悪〉や〈欲情〉などといった「心の中の思い」があるために、周囲(個人、共同体)にどういう〈損害〉が発生しているかを考えてみる必要があるのだ。

 どう考えても自分の心の中だけの問題であって、周囲には損害を与えていないと思われる場合はどうか。この場合でも罪でないとは言い切れません。告白することに何らさしつかえはありません。ただ、次のことを考えてください。それを罪として告白してゆるしの秘跡を受けることが、はたして自分の回心の旅路の助けになっているのか。告白とゆるしという形で解決しようとすることで、問題と本当に取り組むことを避けているのではないか。本当に必要なのは、ゆるしではなく、霊的指導のプロセスではないか。
「第二章 自分の罪を糾明する方法」(p.54)

 「心の中の思い」を告白するのはさしつかえないが、その際に留意すべきは、それを告白することによって、衰えていた「人と共に生きる力」が回復するかどうか。そこをちゃんと見極めなければならない。

 そうでなければ、このやり方も第1の方法と同様、「自意識」を肥大化させていくという悪しき結果しか招かないであろう。


「ゆるしの秘跡」は何のためにあるのか

 最後に、「も〜メンドークサ〜イ😩」と思ってしまうような厄介ものの「ゆるしの秘跡」は、イッタイゼンタイ何のためにあるのか、ということについてまとめておこう。

 世間一般的には、この「ゆるしの秘跡」は疑いのマナコで見られている。

彼らはこう言います。「そりゃあ、人間だから悪いことだってするさ。人を傷つけることだってある。でも、それを一生背負って生きていくのがまっとうな人間じゃないのかい。神父とかいう人のところでちょっと話して、ゆるしてもらって、それで終わりなんておかしいよ。
「第三章 ゆるしの秘跡は何を与えてくれるのか」(p.74)

 確かに、もし「ゆるしの秘跡」があるのが「罪をチャラにする」ためだったとしたら、こうした言い分は一理ありそうである。

 けれども、「ゆるしの秘跡」があるのは、「罪をチャラにする」ためでもなく、「死後、天国に行く」ためでもない。
 「ゆるしの秘跡」は、「人と共に生きていく」ためにあるのである。

この地上の人生で人(夫、妻、子ども、生徒、教会の信者、仲間……)とともに生きることを真剣に願うならば、ゆるしの秘跡を受けることを大事にするでしょう。神のゆるしは、必ずしも、私たちを仲よくさせてくれるものではありません。争いはあっても、一緒に生きることをやめない力を与えてくれるのです。その人の顔をはっきりと見て、向かい合って一緒に生きる力を与えてくれるのです。なすべきことをなす力を与えてくれるのです。
「第三章 ゆるしの秘跡は何を与えてくれるのか」(p.71)

 「後悔」のらせんを堂々巡りし、「自意識」の檻に閉じ込められていると、やがて人間関係において〈無関心、冷淡、あきらめ〉が支配するようになり、「人と共に生きる力」が衰えていく。

 この「人と共に生きる力」を回復させるために「ゆるしの秘跡」はあるのである。

 そして、「まわりにいる他者」の〈かけがえのなさ〉を再発見するために「ゆるしの秘跡」はあるのである。

 でもって、「後悔」ではなく「痛悔」をするために、「自己中心」から「神中心」に立ち返るために「ゆるしの秘跡」はあるのである。

 「神」に立ち返り、「神」に触れてもらい、「神」に癒してもらうために「ゆるしの秘跡」はあるのである。

 つまりは、これまでのワタクシの「ゆるしの秘跡」のやり方はまったく間違っていたのだ。
 それはイタズラに「自意識」に拍車をかけるものであった。そして、どんどん自分の意識を「内」へと潜り込ませ、「まわりにいる他者」を忘却させるものであった。
 このやり方はもうやめよう😫。

 ダメもとでこの本を買ってホントによかったと思う。
 この本に書かれてあることを参考にすると、これまでのやり方を一新することになるが、もしワタクシがうまく切り替えることができれば、〈マンネリ化〉していたワタクシの「ゆるしの秘跡」に、必ずや新境地を見出すことができるだろう。
 そしてそれは、ワタクシの信仰生活にとって、かけがえのない出来事になるだろうと思う。



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