ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「目からウロコ キリスト者同士の人間関係」来住英俊著 を買った

【ザックリとしたマトメ】キリスト者同士の〈人間関係〉において、重要になってくるのは「識別と選択」である。そして、その際に役立つのが〈聖イグナチオ〉が考案した「霊動識別」だ。これは「悪霊」の働きかけを察知しようとするものである。悪霊がそこで働いていそうだから、その選択はすべきではない、というのが「霊動識別」。そして、悪霊が働いているときは「すさみ」という感情の味わいがあるという。

目からウロコ キリスト者同士の人間関係 

目からウロコ キリスト者同士の人間関係 

  • 作者:来住 英俊
  • 発売日: 2006/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
「目からウロコ キリスト者同士の人間関係」来住英俊著 女子パウロ会 2006年2月10日初版

はじめに

 『キリスト教は役に立つか』、『目からウロコ ゆるしの秘跡』に続いて、またまた〈来住英俊(きしひでとし)〉氏の著書を取り上げる。

 でもって、別に教会の「人間関係」に困っているから、この本を選んだわけではない。
 ワタクシは、いわゆる〈隠キャ〉の〈コミュ障〉であり、それ故に人づきあいが得意な方ではないのだが、少なくとも今現在は問題を感じていない。

 今回、本書を取り上げたわけは、本書に「霊動識別(霊動弁別)」に関する項があったからだ。
 これはイグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』という本に書かれているものである。
 一応ワタクシも『霊操』の本は持っているのだが、嬉々として読み始めて早々に挫折してしまったので、今回これに近いこと(来住氏なりにアレンジしたもの)を扱っている本書が「『霊操』の〈入門編〉として参考になるかな?」と思ったので取り上げてみた次第。


識別と選択

 カトリックの教会には、色々なグループがあって様々な事業を行っている。
 で、そのグループ内の「人間関係」において重要となるのが「識別と選択」だという。

 けれども真面目なキリスト者ほど、「識別と選択」のことを忘れ、「愛」だけで事業を押し進めようとする。
 しかしながら、「愛」なるものは自分の思い通りに増やせるものでもなく、個人でも共同体でも限界があるのが現実。
 結局、「愛」のゴリ押しで進められた事業は、その場しのぎ的なものとなり、大した成長もなく、またちゃんとした反省も得られないまま、しりすぼみ的に終息していくことになる。

 であればこそ、やはり「識別と選択」が重要となってくるのだ。

 このように言うと、皆さんはいぶかしく思われるかもしれません。では、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22・42)というあの言葉はどういう意味なのか。
 まず、「わたしの願いではなく」というのは、「自分は選択しない」という意味ではありません。識別し、これが神の御心に沿うと自分が選択するのです。イエスゲッセマネの園で、汗が血の滴り落ちるように地面に落ちるほどの祈り(ルカ22・44)の結果、甘んじて逮捕される道を選択されたのです。逮捕と死を、避けがたい運命として受け入れられたのではありません。ご自分の信奉者とともに戦う道も、エルサレムを離れて別の地で宣教する道もありました。しかし、それをあえて選択されなかったのです。「わたしの願いではなく、神の御心が行われますように」という祈りは、識別を助けてくださいという祈りであって、「私は選択しません」という意味ではないのです。
「第二章 自分が選択する」(p.22−23)

 ここで、「御心のままに」という言葉について、ワタクシのむかし話を一つ。

 ワタクシは求道期のゴク初期、この「御心のままに」という言葉を〈丸呑み〉にして、乗りたくもない電車に乗って、用もない地まで行ってしまったことがある(私は各駅停車に乗りたかったのに、先にやってきた快速電車の方に「御心のままに」と思って乗り込んじゃったのね)。
 まぁ、「レレレ、これはおかしくないか???」と思い直すことができたので、こうした奇行が常態化することはなかったが、信仰の名の下に異様な行動をしたという記憶は色濃く残っている。

 そして、確かに「御心のままに」という言葉は「私は選択しません」という意味、つまり「識別と選択」の放棄のことを指しているように思える。
 けれども、実際の「心のままに」とは、「自己中心」から「神中心」への移行のことを指しているのではなかろうか。

 でもって、乗りたくもない電車にバカみたいに乗っていた当時のワタクシは、自身の「識別と選択」を放棄していたのであり、それは一見「神中心」のように思えるが、実際は「神」に向かうこともなく、ただ「偶然」にすべてを丸投げしていただけだったと言えよう。

 であるからして、「自己」を放棄して「神」に向かうためにこそ「識別と選択」が必要となるのだ。
 また、その際には「祈り」も欠かせない。

 ただし、間違いがわかるためには、もう一つ必要なことがあります。それは、選択し、実行した後、その結果を神の前に置いて祈るということです。そして、神からの示しを待つのです。決断する前に祈ろうとする人は多いが、決めた後で祈る人は少ないようです。
「第二章 自分が選択する」(p.33)

 己の下した決断に対する「開き直り」も「自虐」もすることなく、ただ虚心に神に向かい続けること。それが決断〈後〉の祈り。

 また、神の国」という広い視野に立つことも有効である。
 この広い視野は、私たちに自分の決断が〈全て〉ではなく〈一部分〉であることを教えてくれる。

 この視野は、識別を直接助けてくれるものではありません。しかし、自分の小さな人生をこの大きな視野の中に置くことによって、「周囲に波風を立てる」、「人にいやな思いをさせる」、「人に悪く言われる」ことを過度に恐れずにすむでしょう。恐れが小さくなれば、選択(決断)しやすくなります。
「第三章 識別のために考えておくべきこと」(p.41)

 自分の決断が〈一部分〉であるのは、私たちが、キリストを頭とした神秘体に結ばれている〈一部分〉だからであろう。


霊動識別【理論篇】

 一般的に、行動を決定する際には「どちらが正しいか」で決めることだろう。
 しかしながら、イエズス会創立者として有名な〈聖イグナチオ〉は、それに新しい方法を付け加えた。
 それが「霊の動きの識別(霊動識別)」である。

 霊動識別の根本的な知恵は、「こうしよう」という考えが自分の中に起こったとき、その「源」を識別するということです。例えば、「このグループを退会しよう」という考えが起こったとしましょう。この考えは悪い源から来たのか、善い源から来たのか? 悪い源から来たものなら、それに従いません。善い源から来たのなら、従います。
「第四章 霊の動きの識別(理論)」(p.61)

 これは、「風」がどこから吹いてくるのかを感じる、ということだろうか。

 そして、次の点が〈ポイント〉だろう。

「彼には苦情があるが、ここは言わないでおこう」という気持ちがあるとします。それは相手を寛大に見守ろうという善意から発しているのか、それとも自分が嫌な思いをしたくないという臆病から来ているのか。子供時代の何かのトラウマがあるのか。それをあれこれ反省するのが霊動識別ではありません。
「第四章 霊の動きの識別(理論)」(p.63−64)

 このように、自分の「深層心理」を探ってみせるのが「霊動識別」なのではない。

 では、「霊動識別」とは、いったい何を探るというのだろうか。

 霊動識別とは、自分自身の霊のひそかな動きだけではなく、さらにその奥に働いている「他者」である霊の動きをも識別することです。
「第四章 霊の動きの識別(理論)」(p.64)

 心の「奥底」を探るのではなく、心に吹く「風」を感じるのが、「霊動識別」だと言えようか。

 そして「悪霊」とは、「神の国」に害をなそうとする存在のことだという。

 悪霊は暴風雨のような物理的な力ではなく、持続的な意図と巧妙な策略をもっている「者」です。神に反対する者ですが、神を滅ぼすことはできませんから、その活動は「神の国」の進展を妨害することを目的にするでしょう。
「第四章 霊の動きの識別(理論)」(p.66)

 でもって、この「悪霊」は、カヨワイ私たちの「弱点」をついてくるイヤーな奴である。
 であるからして、カヨワイ私たちが、「悪霊」と戦うには、「自分の弱点」と「悪霊の力」をしっかり見分ける必要があるという。

 私たちは自分の弱点に対しては柔和でなくてはなりません。つまり、性急に力ずくで改善しようとせず、気長に構えるのです。弱点のある隣人に柔和でなくてはならないのなら、自分に対してもそうあるべきです。人にしてあげたいことは、自分にもすべきだからです。しかし、自分の弱点を利用して神の国に害をなそうとする邪悪な力に対しては断固戦い、排除しなければなりません。つまり、悪霊から来た(あるいは後押ししている)と思われる考えはキッパリと退けるのです。
「第四章 霊の動きの識別(理論)」(p.72)

 つまり、排除すべきは、「自分の弱点」ではなく、「悪霊」の方ということ。
 そのためにも、この二つをシッカリキッパリ区別しなければならないのである。

 そして、「神の国」に害をなそうとする「悪霊」の働きかけは、実際の「行動」がともなうものなのだという。
 どうやら「悪霊」とは、「自分の弱点」に働きかけ、暗黒に向けてさらに一歩踏み込ませる「風」のようである。

 例えば、教会に行った時、「この教会の典礼はダサいよね〜😧」と感じたとする。
 そう感じてしまうのは、〈ミーハー〉という「自分の弱点」である。
 そしてこうした傾向は、特に「行動」をともなっていないので、性急に排除すべきものではない。
 けれど、「こんな典礼には価値がないから、どっかに行ってしまおう♪」というのが、実際の「行動」がともなっている「悪霊」の働きかけである。
 これが排除すべきものなのだ。


霊の動きの識別【実践篇】

 繰り返しになるが、「深層心理」を探るのが「霊動識別」なのではなく、心に働きかけてくる「霊」を感じようとするのが「霊動識別」。

 もう一度確認しますが、霊動識別とは、頭で考えて「悪い」と判断したことに「悪霊の働き」というラベルを貼るのではありません。例えば、「陰口はいけない」というような一般的な道徳で判断するのではなく、今の「これを言いたい」衝動の奥にどちらの霊の働きがあるかどうか、を識別するのです。つまり、その考えが間違っているから悪霊の働きだ、正しい考えだから善い霊の働きであるはずだ、と判断するのではありません。悪霊がそこで働いていそうだから、その選択をすべきではない、というのが霊動識別です。
「第五章 霊の動きの識別(実践)」(p.80)

 そして、「悪霊」の働きかけには、必ず「行動」がともなうもの。
 であるからして、「霊動識別」を行うタイミングとしては、「行動に移す時」がふさわしい。
 心の中でコギシュンジュンと思い悩んでいる間は、まだ「霊動識別」のタイミングではない。

 でもって本書によれば、「味わい」によって「霊動識別」をするのだという。
 では、「霊」は一体どんな「味」がするというのだろうか?

悪霊の味

 悪霊が心に働きかける時の「味」。
 それは「すさみ」という味わいだという。

 そして、それは「暗い、孤独な、行き詰まった」ような感じであるらしい。
 来住氏なりの表現では「窓が閉められていて、空気が通らない、こもったような」感覚だともいう。

もう少し具体的な兆候を挙げてみましょう。
 ①自分の行動に対して、周囲の人の同情や理解を求めたい気持ちが強い
 ②思わせぶりや気取りがある。自分の行動に実際以上の深い背景や理由があるかのように人に思われたい。
 ③物事を秘密にしようとしている。人に知られることを望まない。
 ④自分のしようとしていることは理屈に合っているという感じが強い
 ⑤他人について、勝手に悪い想像をして暗くなってしまう。つまり、相手が実際に言ってもいないことを想像の中で言わせて、それでさらに腹を立て反撃する、というようなこと。

 悪霊は想像力を悪用することが多いように思われます。自分がグループを辞めた後、他のメンバーが驚いたり困ったりしている様子を想像して意地の悪い喜びを感じる場合には、悪霊がいそうです。
「第五章 霊の動きの識別(実践)」(p.84−85)

 ちなみに、①にある「周囲の人」というのには「信頼している人」は含まれない。
 そうではなく「ふだん信頼していない人」の同情をまで、縋りつくように求める場合が「悪霊」が働きかけている兆候なのだという。

善い霊の味

 逆に、「善い霊」が自分を動かしている時の味わいは、「慰め、喜び、穏やか」、一言で言えば「平和」という感じ。
 具体的な兆候は以下の通り。

 ①一人で穏やかに立っていることができる。
 ②率直になれる。
 ③人に知られてもかまわない(知らせたい、とは違います)。
 ④「これでいいんだ、これが正しいんだ」と自分に言い聞かせる必要を強くは感じない。
 ⑤現実の上に立っている。悪いほうへ想像が勝手に走らない。
 ⑥「窓が開いて、風が吹き抜けている」ような感覚。
「第五章 霊の動きの識別(実践)」(p.86)

 なんとなくニュアンスはわかるが、この「味」を感じるのは難しそうである。

味覚の磨き方

過去の経験から

過去の選択の中で、今、回顧して「あれは確かに善い霊の促しだった」と確信できる出来事を思い起こしてください。その時の感覚を呼び起こすことができれば、今の識別の助けになります。逆に、「あれは確かに悪い霊の促しだったのだ」と確信できる経験を思い起こし、その時の感情を味わってみると、今働いているのは悪霊かどうかを識別する助けになります。
「第五章 霊の動きの識別(実践)」(p.91)

 ワタクシは何か〈過去の経験〉から学べることがあるだろうか。

 ワタクシの「あれは悪霊の仕業だったのかしら?」と思い当たるような出来事……。
 それには、ワタクシの弱点である「妄想癖」が関わることが多いようだ。

 ワタクシは、空しき日常を過ごすうちに、「皆に讃えられる自分」といった妄想がどんどん膨らんでいったのだ。
 でもって、この膨れ上がった妄想にドンドンドンドン巻き込まれていった結果、現実の生活が荒れ果てていったのである。
 そして、この時の感情の「味わい」はと言えば、「尻が座らない感じ」であり、もしくは「トキメキ」であった。

 妄想に巻き込まれている時、心は「トキメキ」、人生は充実しているように感じるのだが、実際は「現実の自分」に絶望していたのだ。だから現実の生活が荒れ果てていったのであろう。

 そして、あの時のワタクシの「トキメキ」には、「喜び」はあったかもしれないが、「慰め」はなかったように思える。マリア様の前にいるような「慰め」は……。
 また、「穏やかさ」もなかった。
 あったのは「尻の座らない感じ」、「焦り」の方である。
 こう考えると、「すさみ」には「焦燥感」も含めていいかもしれない……。

寝る前に

 寝る前に、その日の気になる行動を一つ(厳しく苦情を言った、あるいは言わなかった)取り上げてください。しかし、「感情的に怒ってしまったから良くなかった」というように理論で反論しないでください。熟慮した冷静な行動だけが善いのではありません。瞬発的な勢いでしたことがよい選択であることもあります。
 ただ、それに伴っていた感情を呼び起こして、味わってください。それから、それは善い霊の促しだったのか、悪い霊の促しだったのか、感情の味わいで判定してみてください。同じ「怒り」という言葉で表現しても、味わいが違うことがわかるでしょう。
「第五章 霊の動きの識別(実践)」(p.92)

 ムムム、〈寝る前〉かぁ……。これはワタクシには難しそう😭。
 ワタクシ、晩酌するから寝る前にそんな余裕はないのよねん🙄。
 仕事帰りの電車の中とかでやってみようかしら??
 時間さえヤリクリできたら、この方法は〈有効〉なものになると思うのよね。


以上。おしまい。

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