ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その2】「否定的精神について」

【ザックリとしたまとめ】今回は第二章「否定的精神について」を取り上げる。現代社会の雰囲気は「悪の確かさ」と「善の曖昧さ」である。そんな現代の「道徳」とは「悪」の除去を意味しているのだが、チェスタトンはこれに反抗する。チェスタトンの「道徳」とは「善」に向かうことだからだ。チェスタトンは言う「若者はたえず病いを思い描くことで悪徳に染まらないでいることができる。しかしまた、たえずおとめマリアを思い描くことで悪徳に染まらないでいることもできる」と。

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 別宮貞徳訳 春秋社 昭和50年2月25日初版

二 否定的精神について

 今回は、チェスタトンの『異端者の群れ』の続きで、第二章「二 否定的精神について」を取り上げる。

 本章で俎上にのせられているのはイプセンだ。
 彼はノルウェーの劇作家でメランコリックな作風で知られている。

 チェスタトンが、イプセンを批判するのは、イプセンこの世の「病弊」ばかりを描き出し、この世の「清らかさ」に対してはほとんど興味を示さない点に対してである。

この人生でほんとうに叡智、美徳と称すべきものに対する疑わしげな姿勢、曖昧な不安定な姿勢を、イプセンが一貫して持っており、それを隠そうともしないということなのだ。この曖昧さは、彼が悪の根源と見るもの、因襲とか、欺瞞とか、無智とかを攻撃する断固たる態度ときわだった対照を示している。
「否定的精神について」(p.20)

 このイプセンに代表されるようなメランコリックな雰囲気、言い換えれば「悪の確かさ」と「善の曖昧さ」こそ、現代社会を支配している雰囲気なのだ。

 そして、現代社会における「道徳」とは、「悪」の除去を意味している。
 つまり、〈因襲〉に代表されるような社会のあるいは個人の「病弊」を見つけ出し、それを切除していくことこそが「道徳」の向上であり、人類の「進歩」であるのだ。

 一方で、チェスタトンの言う「道徳」とは、「善」に向かっていくことである。
 つまり、「清らかさ」という目標に向かって進む、という「方向性」のある歩みこそが「道徳」の向上であり、人類の「進歩」だと言うのだ。

 こうした「方向性」を欠いていて、それでいながら平気の平左でいられる現代人に対して、チェスタトンは批判の矢を向ける。
 そして、そんな現代人が推し進めようとする「進歩」とはこんなものですよ、と論ずるのだ。

進歩、進歩と言っている連中は、ヨーイ・ドンのピストルが鳴ったとたん八方に散って行くに違いない。私は何も「進歩」という言葉が無意味だと言うわけではない。あらかじめ道徳律を規定しておかなければ進歩という言葉は無意味だし、またその道徳律を共通に奉じている人間集団にしかその言葉は適用できない、と言っているのである。
「否定的精神について」(p.25)

 「方向性」を持たないと、打ち上げ花火のようにパーンと八方に散って行くだけだという。
 であればこそ、やはり「方向性」が、目指すべき「清らかさ」が必要となってくるのであろう(この「清らかさ」も、単に「病弊」がないといったような状態を指すのではなく、例えば「隣人を自分のように愛しなさい」といったような教義のことを指している)。

 また、現代の「道徳」は、人々の「不安」の上に建てられたものであると言える。

それにひきかえ現代の道徳は、法を破ればどれほど恐ろしいことになるか、それを絶対の確信をもってさし示すばかりで、確かさといえば悪の確かさしかない。ただ不完全さを指向するのみ。指向すべき完全さを持たない。しかし、仏陀やキリストを瞑想する僧侶、修道士は、申し分のない健全さのイメージ、色鮮やかに気澄みわたるものを心に抱いている。
「否定的精神について」(p.16)

 このように、現代の「道徳」は、「病弊」を放っておいたらどんなにひどいことになるかと、人々の「不安」をあおるものなのだ。
 けれど、そうすることによって、人々の「良心」、つまり人々の「道徳原理」は、「不安」に基礎づけられることになる。

 そして、チェスタトンは、こうしたこと(病的な良心のようなもの)が嫌いなのだと思う。

 チェスタトンは次のように述べている。

若者はたえず病いを思い描くことで悪徳に染まらないでいることができる。しかしまた、たえずおとめマリアを思い描くことで悪徳に染まらないでいることもできる。
「否定的精神について」(p.17)

 「病いを思い描くこと」で得られる健全さは、心が「不安」で満たされている。
 それは、表向きは「病弊」が切除された健康体であるのだが、心の奥底には「不安」という癒されがたい「病弊」がある状態なのだ。

 一方で、チェスタトンが激推しするのは、「おとめマリアを思い描くこと」で得られる健全さである。
 それは、心が落ち着いた「よろこび」で満たされている状態である。
 そして、この「よろこび」が共にあればこそ、私たちを苦しめている「病弊」も次第に癒やされていくのではないだろうか。

 確かに、一刻も早く私たちを苦しめる「病弊」を切除したいという気持ちもわかるのだが、そうであったとしても、「清らかさ」に向かうことを、二の次にしたり、忘れてしまったりしてはいけないと思うのである。

 けれど、「善の曖昧さ」が顕著な現代では、それは難しいことになってしまったのかもしれない。

以上、おしまい。

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