ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その3】「ラドヤード・キプリング氏と世界の矮小化について」

【ザックリとしたまとめ】キプリング氏が「軍国主義」にひきつけられたのは、軍人の「勇気」にではなく、軍隊の「規律」のため。騎士道が好きなチェスタトンはそこを批判する。また、キプリング氏の「愛国心」も、ただイギリスの「強さ」にホルホルしているにすぎない。彼は素のイギリスを愛しているのではない。このように「強さ」しか評価しようとしないキプリング氏は「世界を矮小化」させている。逆に世界を広げるのは「小児の誠実と詩人の忍耐」である。

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 別宮貞徳訳 春秋社 昭和50年2月25日初版

「三 ラドヤード・キプリング氏と世界の矮小化について」

はじめに

 本章で批判されているキプリングは、Wikipedia情報によるとイギリスの詩人および作家らしい。ジャングル・ブックなどを書いた有名な人らしい。
 ワタクシにとっては未読のなじみのない作家である。

 で、本章では彼の「軍国主義」および「愛国心」が批判されている。
 その批判の着眼点が面白かったので、今回取り上げてみた次第。

軍国主義」と「技術」

 チェスタトンは、騎士道精神を好む人であり、それ故に「軍人」にも好意的な人物のようである。
 けれども、そのチェスタトンが、同じく「軍人」を賞賛するキプリング氏を批判しているのである。
 なぜか?

 それは、キプリング氏が賞賛しているのが、軍人の「勇気」ではなく、「規律」だからだ。
 チェスタトンは言う。

ありていに言えば、キプリング氏が軍国主義にひきつけられたのは、勇気の理念ではなく、規律の理念のためなのだ。
ラドヤード・キプリング氏と世界の矮小化について」(p.33)

 つまり、キプリング氏は、「軍人」のなかに「騎士」ではなく、高度な技量を持つ「技術者」を見出し、それを褒め称えている、ということだ。
 で、騎士道を重んずるチェスタトンには、それが我慢がならない。

 一方で、そんなキプリング氏に敵対している人びとに対しても、チェスタトンは批判を述べている。
 なぜか?

 それは、敵対者が、「軍国主義」は人々を「野蛮」にするものだ、と見做しているからだ。
 けれど、「軍国主義」の危険はそこにあるのではない、とチェスタトンは述べている。

 さて、キプリング氏の軍国主義はたしかに間違っているが、その敵対者も一般的に言って彼と同じく間違っている。軍国主義の害は、一部の人に荒々しく居丈高で過度に好戦的になるよう教えるところにあるのではない。多くの人におとなしく臆病で過度に平和的になるように教えるところにある。一般社会の勇気が減ずるにつれて、職業軍人はますます力をつける。たとえば、ローマが贅沢で惰弱になるにつれて、親衛隊はローマでますます重きをなして行った。市民が軍人的美質を失うのに比例して、軍人は市民の間に力を得る。
ラドヤード・キプリング氏と世界の矮小化について」(p.32−33)

 「軍国主義」の危険は、人々を「野蛮」にするところにあるのではなく、逆に人々を「お上品」にするところにあるのだという。

 それは、「軍国主義」が、軍人に「騎士」ではなく、高度な「技術者」を求めるものだからであろう。
 それによって、戦いが一般人とは無関係なものになり、人々は「勇気」からも切り離されることになる。

 チェスタトンは言う。

諸国家が今日ほど軍国主義的だった時代はなかった。人びとが今日ほど勇気に欠けていた時代はなかった。
ラドヤード・キプリング氏と世界の矮小化について」(p.33)

 であるから、戦いを恐れて、人々の「勇気」までをも危険視することは、逆に「軍国主義」に有利に働くことになるのではないか。

 PTAなどから問題視されることの多い日本の「ロボットアニメ」や「戦隊モノ」も、高度な「技術」を描いている反面、その重きは人々の「勇気」にあるように思われる。
 であればこそ、これらの作品がボイコットされることになれば、ますます「軍国主義」に拍車をかけることになるのではないか。
 

キプリング氏の「愛国心

 また、チェスタトンは、キプリング氏の「愛国心」をも批判している。

 チェスタトンに言わせれば、キプリング氏の「愛国心」は本当の「愛国心」ではないのだ。

彼はイギリスを賞賛するが愛してはいない。物事を賞賛するのには理由があるが、愛するのには理由などない。キプリングがイギリスを賞賛するのはイギリスが強いからで、イギリスがイギリスだからではない。
ラドヤード・キプリング氏と世界の矮小化について」(p.35)

 つまり、キプリング氏は、「ありのまま」のイギリスを愛しているのではなく、「強い」イギリスを愛しているのである。
 それは、「故国」を愛しているのではなく「強さ」を愛しているに過ぎない。
 そして、そんな愛は愛ではない、とチェスタトンは言いたいのだろう。

弱点としての「コスモポリタン

 キプリング氏が、「強さ」しか愛せないのは、彼が「故国」に根を下ろそうとしない「コスモポリタン」だからである。
 チェスタトンは言う。

キプリング氏は、いろいろな長所があるにせよ、所詮この観光客である。何かの一部になりきる辛抱がない。これほど誠実な人を皮肉なコスモポリタンだと非難するわけにはいかないが、それでもやはり、コスモポリタニズムが彼の弱点であるにはちがいない。その弱点が一番傑作の詩の一つ「乞食の王様」に実にみごとに現れていて、そこで彼は、飢えや恐怖なら何だって我慢するが一つところにいつまでもいるのはごめんだ、とある男に言わせている。これはたしかに危ない。
ラドヤード・キプリング氏と世界の矮小化について」(p.38)

 キプリング氏のように、世界中を飛び回り、一つどころに留まらないことは、世界を「矮小化」させることである。
 それによって、「強さ」や「よさ」しか評価できなくなるのだ。

 というのも、根を下ろさない人々は、世界の「よいところ」を評価する「知識」は豊富だが、「ダメなところ」を受け入れる「忍耐」は持たないからだ。 

その文明を理解したければ、旅行者や探求者のようにやってはだめで、すべからく小児の誠実と詩人の忍耐をもってしなければならない。こういう土地を征服するのは、失うのにひとしい。わが家の裏庭に立って、門の外にひらけるおとぎの国を望む人、それは大きな思想を持った人である。彼の精神は距離をつくり出す。自動車は愚かにも距離を破壊してしまう。
ラドヤード・キプリング氏と世界の矮小化について」(p.39)

 「よいところ」も「ダメなところ」もあわせ持つ「故国」にしっかりと根を下ろし、その中で「忍耐」強く愛することによって、私たちの世界は広がり、生きたものになっていくのだろう。


以上、おしまい