「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その4】「バーナード・ショー氏」
【ザックリとしたまとめ】バーナード・ショー氏は、確固たる信念を持っているが、その信念には「理想(神)」が欠けている。その理由は、彼が「理想(神)」を「抑圧」の原因と看做しているからだ。しかし、そんなショー氏も「超人」という彼独自の「理想」を打ち立てる。そして、この「超人」と庶民とを比較し、見劣りする庶民を見下すのである。こうしたショー氏の姿勢をチェスタトンは批判している。チェスタトンは庶民を擁護し、大切なのは「超人」でなく「人間」であり、そして、キリスト教会の礎になったとは、ペトロという一人の臆病者だったと言うのである。
- 作者:G.K.チェスタトン
- 発売日: 1975/01/01
- メディア: 単行本
「四 バーナード・ショー氏」
バーナード・ショー氏
本章でお題に載せられているバーナード・ショーは、イギリスの社会主義者で左派の論客である。
映画『マイ・フェア・レディ』の原作、『ピグマリオン』の作者としても知られている。
彼はチェスタトンの批評によく出てくる人物である。
このショー氏、敵ばかりにでなく味方にも噛み付くので「気まぐれ」な変人と思われている。
だがしかし、チェスタトンによれば、このショー氏は徹底的に「首尾一貫」した人物なのだという。
ショー氏は、彼の法則に従って、左右の区別なくその違反者に噛み付いているにすぎない。
彼は無法を嫌うとしても、個人主義者の無法と同じく社会主義者の無法も嫌っている。熱狂的な愛国心を嫌うとしても、ボーア人、アイルランド人のみならず英国人のそれも嫌っている。結婚の誓いや絆を嫌うとしても、無法の愛が作り出すそれ以上に強い絆、それ以上に激しい誓いは、それ以上に嫌っている。司祭の権威をわらうとしても、科学者のもったいぶりをそれ以上にわらっている。信仰の無責任を非難するとしても、それとえらぶところのない芸術の無責任を、分別ある一貫性に従って、同じく非難している。女性は男性と平等であると言って、すべてのボヘミアンを喜ばせると同時に、男性は女性と平等であると言って、同じ彼らを憤慨させる。彼は機械的と言えるくらい公正である。なにか機械のように恐ろしいところが彼にはある。
「バーナード・ショー氏」(p.44−45)
つまり、「気まぐれ」であったのは、この「異端者」ショー氏に噛み付かれた人々の方なのである。
「理想(神)」は人を「抑圧」するか「自由」にするか
このように、ショー氏は、時流に左右されない確固たる信念を持っている。
しかしながら、チェスタトンによれば、このショー氏の信念には何かしら大事な部分が「欠けている」のだという。
ショー氏の信念に「欠けている部分」、それは「理想(神)」だと言えよう。
ショー氏は、「理想(神)」が人を「抑圧」すると言って、この「理想(神)」を敵視しているのだ。
一方で、チェスタトンは、「理想(神)」こそが人間を「自由」にするのだ、と言って反論するのである。
果たして「理想(神)」は、人を「抑圧」するものなのか、それとも人を「自由」にするものなのか。
この辺に「正統」思想と「異端」思想の違いが出てくるのだろう(「正統」と「異端」については前々回の記事で取り上げた)。
ワタクシメなどは、この「抑圧」等々について、次のように思っている。
「抑圧」なるものは、本来「天」にあるべき「理想」が、「地」に引きずり下ろされた際に生じる「適応異常」なのだと。
そして、このように天のものを地に〈引きずり下ろす〉ことによって、天と地の間にある「パラドックス」を解決しようとするのが「人間性」の一面なのであると。
つまり、「抑圧」とは、「理想」によってではなく、「人間性」によって生じるものなのだと。
「超人」、異端者の「理想」
このように「理想」を敵視しているショー氏であるが、では彼はそれほどまでに「現実」を愛しているのか、というとそれは別の話。
ショー氏は、代々語り継がれてきた「理想(神)」を否定はしてみたものの、今度は自分好みの「理想」を打ち立てるからだ。
ショー氏は、いわゆる「超人」を夢想し、これと「現実」とを比較して、見劣りする「現実」を蔑むのである。
これに対して、チェスタトンは言う。
最初に目が百あるアルゴスを夢想し、次に二つ目を持っている人間を皆、一つしか目を持たないもののようにあざけるのは、物事をあるがままに見ているのではない。また、この世の終わりに現れるのか現れないのかわからない無限に明晰な精神を持つ半神を想像し、次にすべての人間を馬鹿者扱いするのは、物事をあるがままに見ているのではない。
これこそ、ショー氏がいつもある程度やっていることである。
「バーナード・ショー氏」(p.49)
ショー氏は、「超人」を打ち立てることによって、「理想」という天にあるべきものを地に〈引きずり下ろした〉のだと言えよう。
そして、この「超人」とは、「理想(神)」と「現実(人間)」とが半々に混ぜ合わさったような存在のことである。
この辺のことは、前々回の記事で扱った「正統」と「異端」に通ずるものがある。
ショー氏のような「異端者」は、「パラドックス」を合理的に解決しようとし、「理想」と「現実」、そのどちらか一方を否定するか、それらを半々に混ぜ合わせてしまうか、なのだ。
一方で、「正統」思想を持つ信仰者は、「理想」と「現実」という「パラドックス」の狭間で〈葛藤〉しながら生きていくことを選ぶのである。
「理想」と「現実」の狭間で
「理想」を地に引きずり下ろしてしまったショー氏は、彼の「理想(超人)」と同一化してしまい、それに見劣りする「現実(人間)」を見下す。
こうしたショー氏の傲慢に対して、チェスタトンは次のように言う。
われわれは、ほんとうに人間をあるがままに見る時、人間を批判することなく、崇拝する。それも当然そうあっておかしくないのだ。神秘の目と奇跡の親指を備え、頭の中には不思議な夢をたたえ、この場所、あの赤ん坊に奇態な優しさを注ぐ人間という怪物は、まことに驚くべきもの、手ごわいものであるにちがいない。
これを何かほかのものと比べてやろうという、まったく勝手気ままな、きざな性癖を持っているからこそ、この者の前に出ながら気楽な気分でいられるのだ。
優越感がわれわれを冷淡にし、実利的にする。純然たる事実そのものは、われわれの膝を、宗教的な恐れを抱いたかのごとくに屈せしめるに足りる。
「バーナード・ショー氏」(p.49−50)
チェスタトンは、「現実(人間)」は、いとおしいものものだという。
たとえそれが、小さく弱々しい花のようなものであったにしても。
「理想」を引きずり下ろして、自らを「理想」としてしまうから、この「現実」が色褪せて見えるのだ。
チェスタトンはさらに言葉を続けている。
ショー氏にはよくわかっていないらしい、われわれの目に価値があり愛するべきものと見えるのは人間ーーつまり、昔ながらのビールを飲み、信仰箇条をつくり、けんかをし、へまをし、みだらでもあれば品行方正でもあるこの人間だということが。
(略)
キリストが象徴的なその偉大な社会建設の時にあたって隅の親石として選んだのは、頭のすぐれたパウロでもなければ神秘的なヨハネでもなく、一人の俗物、臆病者ーー一言で言えば人間だった。この岩の上にキリストは自分の教会を建てた。そして地獄の門はそれに決して勝つことがない。すべての帝国、すべての王国は、強き者が強き者の上に建てたという内在的な、絶えざる弱点のために滅んだ。
「バーナード・ショー氏」(p.52)
小さく弱々しい花のような「現実(人間)」こそが、光を求め、光に向かって育ってゆけるのである。
自らを太陽としてしまった「超人」は、光に向かうことはあるまい。
だから、「理想」とは、あくまで〈向かうところ〉なのであり、ショー氏のように〈引きずり下ろすもの〉ではないのだと思う。
そして、〈向かうこと〉と〈引きずり下ろすこと〉、「理想」に対するこの二つの態度は、まったく違う結果をもたらすことになろう。
「理想」は〈向かうところ〉か〈引きずり下ろすもの〉か
ショー氏は、「理想」を〈引きずり下ろすもの〉だと思っている。
だから、代々語り継がれてきた「理想(神)」では「適応異常」をきたし、「理想(神)」が人を「抑圧」するものののように感じられたのだろう。
それ故、引きずり下ろす際に「適応異常」が起こらないようにと、「理想」そのものを自分好みのものに仕立て上げたのであろう。
けれども、ショー氏のように「理想」を引きずり下ろし、「理想」と同一化してしまっては、「現実」を見下し「傲慢」になるものだ。
引きずり下ろす時、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言って、自分が小さな弱々しい花であることを失念するのである。
ラオデキヤに在る教会の使いに書きおくれ。アーメンたる者、忠実なる真なる証人、神の造り給うものの本源たる者かく言う。われ汝の行為(おこない)を知る、汝は冷やかにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷やかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷やかにもあらず、ただ微温(ぬる)きが故に、我なんじを我が口より吐き出さん。汝、我は富めり、豊かなり、乏しきところなしと言いて、己(おの)が悩める者、憐れむべき者、貧しき者、盲目(めしい)なる者、裸なる者たるを知らざれば、我なんじに勧む。なんじ我より火にて煉(ね)りたる金を買いて富め、白き衣を買いて身に纏(まと)い、汝の裸体(はだか)の恥を露(あらわ)さざれ、眼薬を買いて汝の目に塗り、見ることを得よ。
『ヨハネ黙示録』(3:14−18)
だから、「理想」と「現実」を混ぜ合わせて「なまぬるい」ものになってしまってはいけないのである。
そのためにも、やはり「理想」なるものを「天」に返却し、われわれはそれに向かって成長していかねばならないのだ。
そして、天にある「理想」を仰ぐ時、その崇高さを実感し、また自分たち「現実」の小ささ弱々しさも実感するのだろう。
けれど、そうやって人は「謙虚」というものを知っていくのだと思う。
以上、おしまい。
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