ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その6】「ジョージ・ムア氏の移り気」

【ザックリとしたまとめ】今回は「九 ジョージ・ムア氏の移り気」のまとめ。ムア氏はアイルランド出身の作家で、カトリクがメッチャ嫌いらしい。で、本章でチェスタトンはムア氏を俎上にあげ、その「傲慢」を批判しているのであるが、チェスタトンによれば、「傲慢」がよくないとされているのは、それが人から「活力を奪うもの」だからだという。

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 別宮貞徳訳 春秋社 昭和50年2月25日初版

はじめに

 「六 クリスマスと唯美主義者」、「七 オマールと聖なる葡萄」、「八 赤新聞のおとなしさ」はちこっとばかり割愛させていただき、今回は「九 ジョージ・ムア氏の移り気」の一本にしぼってみた。

 ちなみに、「六 クリスマスと唯美主義者」では救世軍オーギュスト・コントが、「七 オマールと聖なる葡萄」では『ルバイヤート』の作者オマル・ハイヤームのことが、「八 赤新聞のおとなしさ」ではイギリスの新聞王アルフレッド・ハームズワースのことが述べられている。
 

「九 ジョージ・ムア氏の移り気」

 本章のお題、ジョージ・ムア氏
 私は未読の作家である。
 ネット情報によると、彼はアイルランド出身の作家であるらしい。
 さらに付け加えれば、彼はカトリック教国出身なのだが、猛烈なカトリック嫌いであるらしい。

 さてさて本章で語られているのは「傲慢」について
 まぁ単純に「傲慢はあかんでよ」ってなことですな。

さて、キリスト教伝統にあるこういった実際的、基礎的な神秘の一つで、ローマ・カトリック教会が最高の努力を払って特にそれを重点的に取り上げているのは、傲慢の罪という観念である。傲慢は性格的な弱点で、笑いを涸らせ、驚異の念を涸渇させ、騎士道精神、活動力を喪失させる。
「ジョージ・ムア氏の移り気」(p.109)

 チェスタトンは、この「傲慢」に比べれば「虚栄」の方がまだマシだとも述べている。
 なぜなら「虚栄」がどこかしら陽気で社交的であるのに対し、「傲慢」は孤独で打ち解けないからである。

 私はいま、ドストエフスキーの『罪と罰を読み直しているのだが、その主人公ラスコーリニコフも、この「傲慢」の人と言ってよいだろう。
 彼は、スコブル頭が良くて家族の期待の星なのだが、金欠で大学に通えなくなり、自分の殻に閉じこもってしまうのである。
 そして陰に籠った彼は、日ましに孤独で打ち解けない「傲慢」な人になっていくのである。

 そんなラスコーリニコフの「孤独で打ち解けない」部分が現れているエピソードがあるので覗いてみよう!

ある新しい、逆らいようもない感覚が、しだいに、ほとんど一分ごとに、強く彼をとらえていった。それは、行きあうもの、目にふれるものいっさいにたいする、ほとんど際限のない、肉体的とさえいえる嫌悪感、かたくなな、憎悪と敵意に満たされた嫌悪感であった。すれちがう人すべてが彼にはいとわしかった。彼らの顔が、歩きつきが、動作がいとわしかった。もしだれかが話しかけでもしたら、彼はその相手にぺっと唾を吐きかけ、噛みついていたにちがいない……。
ドストエフスキー罪と罰(上)』江川卓訳(岩波)(p.223)

 この部分をわざわざ抜書きしたのには理由がある。

 この部分、ワタクシ的にメッチャクッチャ「「「共感」」」するのっ!

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
しょーもない理由でスミマセン(泣)

 いや〜(ポリポリ←頭をかく音)、今はだらしないおじさんになっている私も、若い頃はラスコーリニコフのようにトンがっていたのよね。
 おじさんにも「すれちがう人すべてが彼にはいとわしかった」ってな感じのニヒルな時分があったのよ〜♪
 今じゃ、目にふれる薄着の女性を片っぱしからガン見する、ほとんど際限のないエロオヤジになってしまっているけど、さ。

 ……閑話休題
 話を元に戻して考えてみると、このラスコーリニコフの「傲慢」ジョージ・ムア氏の「傲慢」
 この二つの「傲慢」はチト性質が違っていると思うのだが、いかが?

 ムア氏の「傲慢」は、ギリシア神話に出てくるナルキッソスのような「傲慢」、自意識に基づいたものだと思われる(私もムア氏の作品は読んだことないので、正確なことは言えないが、本章を読んで感じた印象で言わせてもらえば、ムア氏はナルシストよりの人だと感じた)。
 一方でラスコーリニコフの「傲慢」は、先にも述べた通り、思い通りに行かない人生にふてくされ、自分の殻に閉じこもってしまうような「傲慢」、嫌悪感に基づくものだと思う。

 まぁ、どっちの「傲慢」もタチが悪いのは同じ。
 そのタチの悪い「傲慢」について、チェスタトンは先に「傲慢は性格的な弱点で、笑いを涸らせ、驚異の念を涸渇させ、騎士道精神、活動力を喪失させる」と述べていた。
 つまり、「傲慢」は人から「活動力」を奪うのである。

 人から「活動力」がなくなってしまうのは、「傲慢」になることによって「本来の自分」を見失うからである。

 「傲慢」に陥った人は、自分を「大きく」見せようとする。
 けれども、そんな人間は「大きく」なることもできず(そう〈見せかける〉ことはできようが)、さらに「本来の自分」(そしてそれは「小さな」ものであろう)を見失うことになる。

 チェスタトンは次のように言っている。

傲慢の罪をよくないとする何千という理由の一つは、自意識は必然的に自己発現をだめにするということ、まさにそこにある。自分のことをいろいろ考える人間は、多面的になろうとする。あらゆる点で大向こうをあっと言わせようと思い、文化の生き字引を目ざして、結局自分の本然の姿はその偽の普遍主義の中に埋没してしまう。
「ジョージ・ムア氏の移り気」(p.111)

 本章のまとめで何が言いたいかというと、まぁつまり、「自分を大きく見せよう」という勝負、それはチ○コだけにしとけって話さね。

以上、おしまい。

■■■■■【関連する記事】■■■■■
uselessasusual.hatenablog.com
uselessasusual.hatenablog.com
uselessasusual.hatenablog.com
uselessasusual.hatenablog.com
uselessasusual.hatenablog.com