ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その7】「サンダルと単純性について」

【ザックリとしたまとめ】ちまたに流行るのは「なにを食べたらいいか」とか「なにを着たらいいか」とか言ったことで人生をシンプルにしようとしている人たち。それにチェスタトンは反発する。キリスト教のシンプルさは「ただ神の国を求めること」の一点にあるからである。チェスタトンは「心の単純さ」を守っていれば、それで十分なのだとも述べている。氏曰く「心のおもむくままにキャヴィアを食べる人のほうが、主義の命ずるままに木の実を食べる人よりも、よほど単純だ。」(p.115)

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 別宮貞徳訳 春秋社 昭和50年2月25日初版

「十 サンダルと単純性について」

「身の回り」のシンプルさ

 昨今の一部ちまたでは、ミニマリスト」や「断捨離」といったシンプルライフがもてはやされておりますな。
 で、本章で批判されているのは、そういった「身の回り」のシンプルさに夢中になっている人たちである。

 どうやら、人間が人生のわずわらしさにうみ疲れて「簡素な生活」なるものに憧れるのは、チェスタトンが生きた百年の昔から変わらないもののようですな。

 で、そのチェスタトン
 そんな〈うわっつら〉なシンプルさが大嫌いなの。

私の思うに、今日簡素な生活を唱導する人に対して一つの大きな苦情がどうしても出てこざるをえない。ここで簡素な生活とは、菜食主義からまことに節操の高いドゥーコボル派に至るまで、各種各様のものを含む。
彼らに対するその苦情とは、重要でないことについてはわれわれを簡素にしてくれるが、重要なことについては複雑にするということである。
大して問題にならないことはたしかに簡素にしてくれるーー食事とか、服装とか、エチケットとか、経済機構とか。しかし、問題になることは複雑にするーー哲学とか、忠誠心とか、精神的な受容とか、精神的な反撥とか。
「サンダルと単純性について」(p.114−115)

 ちまたでもてはやされているのは、「なにを食べるか」とか「なにを着るか」とか言ったようなことをアレコレいじくり回し、それらを単純、簡素、シンプルにすることであろう。

 けれども、キリスト教はシンプルさについていささか違った意見を持っている。

 キリスト教の教えはコレ。

あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
「ルカ」(12:29−31)

 このように、キリスト教のシンプルさとは、ただシンプルに「神の国を求め」ることを意味している。

「心」のシンプルさ

 このキリスト教のシンプルさは、「心」のシンプルさだと言えよう。

残しておくだけの価値のある単純さは、ただ心の単純さ、受け入れ楽しむ単純さしかない。
どういう制度がこの単純さを残しておけるかについては、もっともな議論がありうるだろうが、単純の制度がそれを台無しにすることについてはまったく疑問の余地がない。心のおもむくままにキャヴィアを食べる人のほうが、主義の命ずるままに木の実を食べる人よりも、よほど単純だ。
「サンダルと単純性について」(p.114−115)

 まぁ、確かに「身の回り」のシンプルさを求める人たちは、『断捨離の方法 ヒミツのスゴ技』とか『シンプルライフ入門 成功者のシンプル術』とかいった本を読みあさり、さまざまな知識で頭デッカチになっていそうですな(偏見)。

 彼らのシンプルライフは、「意識」、それも高い「自意識」の上に成り立っているもののようだ。
 彼らは「意識的」にシンプルになろうとして、「身の回り」を掃いたり捨てたりしているのだが、それによって「身の回り」がシンプルになればなるほど、彼らの「自意識」はどんどん「大きく」なっていくように思われる。

 一方で、「心」のシンプルさ、である。
 このシンプルさは「素朴」なシンプルさであると言えよう。ただ「素朴」に「神の国を求め」るのである。
 そして、このシンプルさは「自意識」とは相いれないものであろう。
 なぜなら、「素朴さ」とは本来「無意識」的なものであり、「自意識」から「素朴」になろうとしても、ブリッコみたいに不自然なものになってしまうからだ。

子供はシンプル

 で、チェスタトンによれば、「子供」こそが、この「素朴」なシンプルさを持つ存在なのだという。

子供が健全な単純性をもっとも正確に現しているのは、何事も、たとえ複雑な物事でも単純な喜びをもって眺めるという事実である。
偽の自然さは、始終自然と人工の違いをうたいあげるが、高級な自然さは、そんな違いには目もくれない。
子供にとっては、木も街灯柱も互いに同じように自然であり人工である。いやむしろ、いずれも自然でなく、超自然なのだ。いずれもすばらしいもの、口では説明のできないものだから。
「サンダルと単純性について」(p.117)

 先に述べたような「自意識」的な人のシンプルさは、「主義」としてのシンプルさであり、頭デッカチなシンプルさなのだ。
 そんな「自意識」的な人は、人工と自然を分別し、自然の方のみをありがたがってしまう。

 けれども、子供はそうではない。
 彼らの「素朴」なシンプルさは、人工と自然の二つを分け隔てることなく、そのどちらにも「驚嘆」するのである。
 「子供」にとっては、人工も自然も、どちらもカッチョイイものなのだ。

 こうして見てみると、「身の回り」のシンプルさを求める人、つまり「自意識」的な人は、絶えず「自意識」を「大きく」していくことによって、世界をシンプルにしていこうとしているように思える。
 彼らのシンプルさは、自分を世界の中心に据えた、自己中心的なシンプルさだと言えよう。

 一方で、「心」のシンプルさを求める人、つまり「素朴」な人は、自分を「小さく」していくことによって、世界をシンプルにしていこうとしているのである。
 彼らのシンプルさは、創造主を世界の中心に据えた、神中心的なシンプルさだと言えよう。
 だから、彼らは、人工と自然、そのどちらにも「驚嘆」できるのだ。

 自分というものを「大きく」していくのか、それとも「小さく」していくのか・・・。

 本章のまとめで何が言いたいかというと、まぁつまり、「大きく」しようとするのは、チ○コだけにしとけって話さね。

 以上、おしまい。


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