ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その8】「異教とロウズ・ディキンソン氏」

【ザックリとしたまとめ】「異教」は合理的で理性的な宗教である。そんな異教における徳は「正義」と「節制」。この二つの徳は己の「理性」と「誇り」を拠り所とする徳である。「異教」と「キリスト教」の違いはココにあって、「キリスト教」は己を拠り所とはせず、己を超えた存在、つまりは「神」を拠り所とするものである。そして、「神」の前に自分を「小さく」すること、これがキリスト教の「謙遜」なのであり、これこそが人間性の充足に役立つと言うのである。

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 別宮貞徳訳 春秋社 昭和50年2月25日初版

はじめに

 またまたまたまた、あいもかわらずの「異端者の群れ」(byチェスタトン)の感想である。

 今回は「十一 科学と未開人」は割愛。
 「十二 異教とロウズ・ディキンソン氏」の一本に絞ってみた。

 ちなみに「十一 科学と未開人」では、科学の限界を語っており、科学がいかにすばらしいからといって、歴史をまで科学することはできない、と述べている。「つまり、天文学や植物学の研究なら成功する冷静な客観的な精神が、神話や人間起源の研究では、とんでもない失敗をもたらすということである。」(p.122)

「十二 異教とロウズ・ディキンソン氏」

異教の復興

 お題に出てくるロウズ・ディキンソン氏(Goldsworthy Lowes Dickinson)
 彼はイギリスの政治学者兼哲学者らしい。
 そして彼は、「異教」(それもギリシアの?)を研究してたみたいだ。

 そんなロウズ・ディキンソン氏は、「異教」に魅せられ、そこに「人間性の全き充足(p.133)」を見出していたみたい。

 その一方で、氏は「キリスト教」についてはネガティブだ。
 「氏によれば、キリスト教の理想は禁欲主義のそれ(p.133)」だという。
 まあ、何でもかでも禁じられていては、人間性の充足なんて望むべくもないからネ。

 そう思えばこそ、ロウズ・ディキンソン氏は次のようなことを説いたのである。
 キリスト教」が広がる前に各地に根付いていた土着の宗教、つまりは「異教」を復興させることこそが、人間性の充足には必要なことなのだ、と。

 けれども、チェスタトンは、このような「異教」の復興には懐疑的である。
 というか、「異教」によって「人間性の全き充足」が得られるということに懐疑的なのである。

 チェスタトンによれば、人間性を充足させていくことに「異教」が行き詰まったからこそ、その隙をついて「キリスト教」が広まったのだ、と言うのですな。

異教とキリスト教の違い

 「キリスト教」以前に世にあった「異教」。
 それは、我々一般人が思い描くように、「非合理的」で「非理性的」なもの、乱脈でデタラメなものではなかった。

 チェスタトンは、その「異教」の特質について次のように述べている。

この考えによると、異教徒はいつも頭に花を飾り、奔放に踊り回っていたことになっているが、最上の異教文明が真剣に信奉していたものが二つあったとすれば、それはいささか厳しすぎるくらいの品位と、あまりにも厳しすぎるほどの責任感だった。
異教徒は、何よりもまず、酔っぱらった法に縛られないものに描かれているが、実は、何よりもまず、道理をわきまえた品行の正しい人間だった。
彼らは不服従を賞賛されているが、たった一つの大きな徳ーー市民的服従が彼らにはあった。
あたりかまわぬ幸福を賞賛され羨望されてはいるが、たった一つの大きな罪ーー絶望が彼らにはあった。
「異教とロウズ・ディキンソン氏」(p.132)

 チェスタトンが描き出した「異教徒」は、まるで日本の「武士」みたいですな。

 チェスタトンもディキンソン氏も、「異教」が「合理的」で「理性的」な宗教であったと見ている点では一致している。
 つまりは、日本の「武士」も「合理的」で「理性的」な人であったということですな。

 そして、この「異教」における徳、それは「正義」そして「節制」であった。
 この徳は、己の「理性」と「誇り」を拠り所にした徳であるといえようか。

 それに対し、キリスト教」の徳は、「信仰」「希望」「愛」というものだ。
 そして、これらの徳は、己の「理性」も「誇り」も拠り所とはしていない。
 これらの徳は、己を超え、ただひたすらに「神」へと向かっていくことを徳としている。

 そして、ここにチェスタトンは「異教」と「キリスト教」の違いを見出している。

正義とは、あるものがある人に帰属することを認めてそれをその人に与えるところに存する。節制とは、ある楽しみの適当な限界を見出してそれを守るところに存する。
しかし、愛とは許し難いものを許すところに意味があり、そうでなければぜんぜん徳とは言えない。望とは物事に希望がなくなった時に希望を持つことに意味があり、そうでなければぜんぜん徳とは言えない。そして、信とは信じ難いものを信ずるところに意味があり、そうでなければぜんぜん徳とは言えない。
「異教とロウズ・ディキンソン氏」(p.136)

 チェスタトンが指摘する「異教」と「キリスト教」の違い。
 それは、己を拠り所とするか、己を超えるものを拠り所とするか、の違いだと言えよう。

 「異教」の徳、それは己ひとりを頼りとする徳である。
 だから、彼らは重荷を一身に背負えるように「自分を大きくする」必要がある。
 それゆえに「傲慢」という過ちに陥りやすく、人間性の充足はその時に止まってしまうのである。

 一方で、「キリスト教」の徳、それは「神」を頼りとする徳である。
 彼らは、重荷を「神」と分け合って運ぼうとする。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
「マタイによる福音」(11:28−30)

 この徳は、「自分を大きくする」必要がないので、自分をどんどん「小さく」していくことができる。

 そして、この「自分を小さくする」ことこそが、人間性の充足に役立つのである。

謙遜について

 チェスタトンは次のようなに述べている。

つまり、十分に心ゆくまで楽しむには自我を無限に拡大すればよかろうと想像していたのに、実は、自我をゼロに縮小することによってそれができるとわかったのである。
 謙遜は永久に地球と星を新たにしていくものである。義務ではなく謙遜こそ星を悪から守る、気まぐれなあきらめという許し難い悪から守る。
「異教とロウズ・ディキンソン氏」(p.140)

 この「自我をゼロに縮小すること」こそが、キリスト教の「謙遜」なのである。
 そして、この「謙遜」によって、人間性の充足は促進していくのだ。

 「自分を大きくする」ことによっては、人はやがて「傲慢」になり、人間性の充足は行き詰まってしまう。
 だからこそ、「理性と健全さの理想に戻ることはできない」とチェスタトンは言うのである。

われわれは理性と健全さの理想に戻ることはできない。人類は理性が健全さにつながらないことを発見したからである。
誇りと楽しみの理想に戻ることはできない。人類は誇りが楽しみにつながらないことを発見したからである。
「異教とロウズ・ディキンソン氏」(p.144)

 人間性の充足には、「自分を小さくする」こと、つまり「謙遜」が必要、そして、それを可能にするのがキリスト教である、ってなことがチェスタトンが言いたかったことであろう。

 最後に何が言いたいかというと、まぁつまり、「大きくする」のは、チ○コだけにしとけって話さね。

以上、おしまい。


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