ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「ドストエフスキー 二重性から単一性へ」ルネ・ジラール著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】ドストエフスキーは「自尊心」を克服していった作家である。そんな彼は《偶像崇拝》ともたたかった。「人間のつくりだしたもの」に《絶対性》を付与し、それを崇めるとき、それは《偶像崇拝》となる。そして、デカルト以来、私たちは《偶像崇拝》の世界に舞い戻ってきたのだという。私たちは「自尊心」を克服し、同時に《偶像崇拝》からも脱してゆかなければならない。

ドストエフスキー 二重性から単一性へ」ルネ・ジラール著 鈴木晶訳 法政大学出版 1983年6月25日初版

ロマンティークな「自尊心」

 今回、本書をもとにして、テーマとして取り上げるのは、「自尊心」、そして《偶像崇拝》である。

 その前に、ちょっと用語解説をしておこう。

 ジラールは、その批評において、《ロマンティーク》(本書では《ロマン主義的な》と訳されている)と《ロマネスク》という用語を用いている。

 この二つの用語について、訳者の鈴木晶氏が、次のようにまとめている。

さらにジラールは、ロマンティークとロマネスクという一対の概念を提示するーー《今後はロマンティークという言葉を、媒体の存在を映し出しはするがわれわれにときあかすことのない作品に用い、ロマネスクという言葉を、そうした存在をときあかす作品にとっておくことにしよう》(邦訳十八頁)。
(略)
ロマンティークとロマネスクは単に並立しているのではなく、ロマンティークなものを克服することによってロマネスクな作品が生まれるのである。このロマンティーク→ロマネスクという図式が本書『ドストエフスキー』の根底にあることは、あらためていうまでもない。
「訳者あとがき」(p.191)

 では、この《ロマンティーク》と《ロマネスク》を分け隔てているものは何であろうか?

 それが、「自尊心」の有無、なのである。

 つまり、《ロマンティーク》な作品は、その作者が「自尊心」に囚われながら創り上げた作品だということである。
 一方で、《ロマネスク》と分類された作品においては、作者は自身の「自尊心」を克服しており(もしくは克服しつつあり)、その結果としてその作品も「自尊心」から解放されたものとなっているのだ。

 このように、「自尊心」の有無が、《ロマンティーク》→《ロマネスク》のカラクリなのである。

 こうした関係は「エロース」と「アガペー」の関係に似ていると思う。
 「エロース」と「アガペー」、この二つは同じく「愛」と訳される用語だが、これらもまた「自尊心」の克服に深く関わってくるものだからだ。


地下室の手記』と「自尊心」

 ドストエフスキーの『地下室の手記』において、地下室の男は、次のようなセリフを残している。

ぼく個人について言うなら、ぼくは、諸君が半分までも押しつめていく勇気のなかったことを、ぼくの人生においてぎりぎりのところまでつきつめてみただけの話なのだ。ところが諸君ときたら、自分の臆病さを良識と取違えて、自分で自分をあざむきながら、それを気休めにしている。だとしたら、あるいは、ぼくのほうが諸君よりもずっと《生き生き》していることになるかもしれない。
地下室の手記新潮文庫版)』(p.245)

 そして、ジラールは、この地下室の男が「ぎりぎりのところまでつきつめてみた」と自認しているものこそが「自尊心」なのだ、と述べている。

 また、ジラールによれば、この『地下室の手記』という作品は、ドストエフスキーが《ロマンティーク》な作風から《ロマネスク》な作風へと移った「分岐点」の作品なのだという。

 つまり、この作品からドストエフスキーは、自身の「自尊心」とがっぷり四つで向き合い、それを克服していくことになるのである。

「自尊心」と《偶像崇拝

 以前、当ブログにおいて、エーリッヒ・フロムの『ユダヤ教の人間観』という書を取り上げたことがある。
 その中には、今回のテーマを関わってくるのような記述がある。

人間は不確かな存在であり、人間の知識は断片的である。不確かさの中に人間は確かさを約束する絶対的なものを求め、それに従いそれと一つになろうとする。人間は、そうした絶対的なものなしですますことができないのか。それとも問題はより良い絶対とより悪い絶対のどちらかをえらぶかということ、つまり、人間の発達を助長する絶対と、それをはばむ絶対とのどちらをえらぶかということなのか。それは、神を選ぶか偶像をえらぶかという問題ではないのか。
E・フロム著『ユダヤ教の人間観』(p.102)

 フロムによれば、人間は、その存在の不確かさの故に、《絶対的》なものと一つになろうとする傾向があるという。
 そして、この《絶対的》なものには、《神》と《偶像》の二種があって、今回のテーマである「自尊心」が選び取るのは《偶像》の方なのである。

 ではなぜ、「自尊心」は《偶像崇拝》してしまうのだろうか。

《偶像》とは何か

  私たち人間は、生きている限り、その叡智を尽くし、そして努力を尽くして、ものを作りだしたり、あるいは描きだしたりしている。
 そして、それは文化文明の礎となる行為であると言えよう。(図1)
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 けれども、この「人間のつくりだしたもの」が、《偶像》に化ける可能性と秘めているのだ。

 例えば、石像や木彫りの像だけではなく、国家であれ、社会制度であれ、理想であれ、現実であれ、それは《偶像》となりうる。
 そのほか、知性や肉体的な力、哲学やイデオロギーも同様に《偶像》となりうる。
 あるいは、こうであってほしい「自分」とか、こうであってほしい「他者」とか、こうであってほしい「世界」とかも《偶像》でありえる。

 ではいつ《偶像》に化けるのか。
 それは、この「人間のつくりだしたもの」に《絶対性》を付与した時である。(図2)

 そして、「自尊心」こそが、自分の作品に《絶対性》を付与するものなのだ。
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 この辺りのことに関して、先の『ユダヤ教の人間観』には、次のような記述がある。

そもそも今日にいたるまでの人類の歴史は、何よりも偶像崇拝の歴史である木や土で作られた原始的な偶像から、国家、指導者、生産、消費といった現代の偶像にいたるまで、そのすべてが偶像化した神の祝福によって勿体づけられている。
 人間は自らの熱情と性質を偶像に移入する。だから人間が自らを貧困化すればするほど、偶像の方はより偉大になり強力になる。偶像は、疎外されたかたちにおける人間の自己経験である。偶像を拝することにおいて人間は自己を拝する。けれどもこの自己は、知性、肉体的力、権力、名声といった人間の部分的限定的側面にすぎない。自分自身を自己の一部と同視することによって、人間は自己をその面だけに限定する。人間は人間としての全体性を失い、成長することをやめる。人間は偶像に対して依存的となる。というのは、偶像に隷属することによってのみ、人間は自己自身のかげーー実態ではないーーを見出すからである。
E・フロム著『ユダヤ教の人間観』(p.57−58)

 こうして見てくると、なぜ「自尊心」が《偶像崇拝》してしまうのかが見えてくる。

 つまり、「自尊心」は、《神》から《絶対性》を剥奪したのだ。
 その代わりに、「自尊心」が《絶対性》を付与したのは、「自らの熱情を性質」を注ぎ込んだ「人間のつくりだしたもの」なのだ。
 そして、「自尊心」は、その自分の作品と一つになることによって、自らの不確かさを補おうとする。(図3)
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 本書によれば、こうした傾向はデカルト以降のことだという。

 中世の哲学においては、特権といえば神の特権のことと決まっていたが、個人主義はその全歴史を通じて、その特権を少しずつ自分のものにしていった。これは、たんに哲学のはやりすたりの問題ではない。主観的なものへの一時的な熱狂ではない。
デカルト以降、もはや「われ思う、ゆえにわれあり」以外のところに出発点はあり得ない。
「第三章 地下の形而上学」(p.91)

 デカルト以来、多くの西洋人は、自分が《神》の被造物であるという意識が希薄になった。
 そして同時に自分こそが「世界の創造主」であるという意識が強くなった。

 けれども、近代社会の礎となったこの偉大な一歩は、「人間のつくりだしたもの」に《絶対性》を付与するという、《偶像崇拝》の危うさも秘めていたのである。

 このような《偶像崇拝》は、結構私たちの身近にあるものだと思う。
 例えば、私たちは、「自分」や「現実」に絶望することがある。
 こうした絶望は、自分が描きだしてみた「自分」や「現実」を《絶対視》してしまったが故に起こることだと思う。(図4)
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 「他者」についても同様である。
 「あの人はこういう人に違いない」と勝手に「他者」を描き上げて、「他者」を過大評価したり、或いは軽蔑したりする。
 これもまた、自分の創造物を《絶対視》しているが故に起こることだと思われる。(図5)
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 つまりは、こうであってほしい「自分」や、こうであってほしい「他者」とかいったような、自分が「熱情と性質」を注ぎ込んで描きだしたものに、私たちは《絶対性》を付与してしまいやすい、ということだ。

 私たちは、ものを創り出すことを生業としてるので、おそらく生きている限り《偶像》作りの危険からは逃れられないのだろう。
 けれども、「人間のつくりだしたもの」に《絶対性》を付与するか否かは、私たちが選んでゆけることなのである。

 そして、この《絶対性》の放棄こそが、「自尊心」克服のカギとなってくるのだ。

『永遠の夫』と《偶像崇拝

 『永遠の夫』に出てくるトルソーツキー。彼もまた「自尊心」の強い人物である。

 トルソーツキーは、妻の死後、残された手紙から、妻が浮気していたことを知る。

 どうして彼は屈辱に向かって突進するのだろう? それは、彼がおそろしく強い虚栄心と自尊心の持ち主だからである。この答えは一見逆説的だが、けっしてそうではない。妻が自分以外の男に惹かれていると知ったとき、トルソーツキーが受けたショックたるや凄まじいものだった。彼は、世界の中心にいることを自分の義務と心得ていたからだ。トルソーツキーはたくさんの農奴を所有する古くからの地主で、大金持ちである。
「第二章 地下の心理学」(p.31)

 浮気が発覚する以前、トルソーツキーは、自分の「熱情と性質」を、地主で大金持ちという「自分」に注ぎ込んでいた。

 けれど、妻の浮気を知ってからは、妻の愛人という「他者」が、寝取られた「自分」にとって代わって、トルソーツキーの「熱情と性質」の対象となる。(図6)
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 つまり、「自分」という《偶像》を圧倒した、「他者」という新しい《偶像》の前に、トルソーツキーの「自尊心」はひれ伏すのである。

トルソーツキーには、ふつうの意味での被虐願望はない。反対に、屈辱はあまりに恐ろしい経験なので、マゾヒストは、彼を虐げた者に、あるいは彼と似ている者たちに、縛りつけられる。マゾヒストは、彼を侮辱した人物にたいする輝かしい勝利によってしか、自己評価を見出すことができない。ところが彼の目から見ると、彼を侮辱した人物は大きく、すばらしく見えるので、自分にこの勝利をもたらしてくれるのはこの人物を措いて他にないのではないか、とも思われてくる
「第二章 地下の心理学」(p.29−30)

 トルソーツキーにとって、寝とった「他者」を憎めば憎むほど、この「他者」の存在は大きなものになってゆく。
 それ故、トルソーツキーの「自尊心」は、この「他者」から離れられなくなるのである。

 では、自らすすんで「他者」に平身低頭するトルソーツキーは、「謙遜」であると言えるのだろうか。

 本書は「そうではない」と述べている。

どんなに気違いじみた自尊心も、ほんの些細な失敗で、他者に平身低頭するよう運命づけられているのだ。すなわち、外見には、自尊心は謙遜と似ているのである。
どんなに極端なエゴイズムの持ち主でも、ほんの些細な失敗で、自らすすんで奴隷になる。すなわち、外見には、エゴイズムは犠牲的精神と似ているのである。
「第二章 地下の心理学」(p.33)

 つまり、トルソーツキーが見せたような「謙遜」は、本来の「謙遜」ではなく、それとは似て非なるもの、《偶像崇拝》の「謙遜」なのだと言えよう。

 トルソーツキーが、「他者」にひれ伏すといっても、それは《偶像崇拝》なのであり、つまりは自分が描きだした「他者」に夢中になっているにすぎない。(図7)
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 トルソーツキーが崇める「他者」は、「他者」本人ではなく、トルソーツキーの目にそう映った「うわっつら」の画像にすぎないのである。

『悪霊』と《偶像崇拝

 『悪霊』に出てくるニコライ・スタヴローギン。
 彼もまた、周りの人びとからの崇拝の対象である。

 憑かれた人びとは全員、スタヴローギンという裏返しの救世主の言葉に、熱心に聞きいる。だれもがスタヴローギンのことを宗教的な言葉で語る。スタヴローギンは、憑かれた人々の《光》であり《星》である。
「第三章 地下の形而上学」(p.82)

 彼の崇拝者たちも、おそらく昔は、かつてのトルソーツキーのように「自分」を《絶対視》できていたはずである。

 けれど、その「自分」を圧倒する、スタヴローギンという「他者」が現れた。
 それによって、この「他者」が、新しい《絶対的》なものとなり、彼らの《星》となるのである。

 ジラールは次のように述べている。

 神に反抗し、自分自身を崇める者は、結局かならず、「他者」すなわちスタヴローギンを崇めることになる。
「第三章 地下の形而上学」(p.87)

 「自尊心」に憑かれた人びとは、「自分」という《偶像》が傷つけば、「他者」という《偶像》へ、その「他者」という《偶像》が傷つけば、「理想」という《偶像》へといったように、その崇拝対象をつぎつぎと代えていく。
 《偶像》から《偶像》へ。
 このように「自尊心」は、《偶像崇拝》から逃れることはできない。(図8)
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 このようにまとめてみると、「自尊心」に憑かれた人びとにとっての幸福とは、自分の作品と一つになることなのであろう。

《神》崇拝の形

 先に、《絶対的》なものには、《神》と《偶像》の二種があると述べた。

 では、《神崇拝》の方はどうなのか。

 《神》を崇拝する者にとっては、《神》こそが《絶対的》なものとなる。
 彼は、この《神》という創造主が、「自分」や「他者」、あるいは「現実」や「理想」をつくりだしたのだと考えている。

 そして、この《神》の崇拝者は、「神がつくりだしたもの」たちと関係していくことになる。
 この《神》の創造物、例えば「自分」や「他者」、あるいは「現実」や「理想」などと関係していくには、それが《神》が創りたもうた《未知》のものなのだという自覚が必要なのである。
 それはつまり、《神》の前に「謙虚」になるということである。
 それは《絶対性》を放棄することでもある。

 そして、それによって、彼は「全体性」を持つことになる。(図9)
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 ちなみに、彼もまた、生きている限り、ものをつくりだすが、自分の作品に《絶対性》を付与することはない。

「自尊心」と《偶像崇拝》の克服

 と、この記事をここまで読んでくると、「じゃあ、けっきょく信仰がなければダメなのね」ってなことに話が傾きそうだが、そうではない。

 その証拠に、フロムは次のようなことを述べている。

必要なのは、神を瀆さないことと、偶像崇拝をしないことである。
E・フロム著『ユダヤ教の人間観』(p.68)

 さらに、《神》を崇拝する者であっても、ある種の危険をはらんでいるのである。
 その危険とは《神》を《偶像》のように崇める危険である。

 信仰者は、《神》なる神秘の存在を、もっとよく知るために、自分が捉えた《神》を描き出し、そのスケッチを「他者」と共に眺めたりして、《神》への理解を深めようとすることがある。
 けれど、その自分が描いたスケッチに《絶対性》を付与し、それと一つになること、それが《神》の《偶像》化なのだ。(図10)
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 つまりは、信仰者であっても、自分がつくりだした《神》に《絶対性》を付与し、それと一つになる危険性をはらんでいる、ということなのだ。

 このような信仰形態は、よく見受けられる現象だと思うが、本来的な《神信仰》からはかけ離れたものだと言えよう。

 であるからして、信仰者であっても無信仰者であっても、私たちは《偶像崇拝》的な態度とたたかっていかなければならないのである。

 そのためには、「人間のつくりだしたもの」に《絶対性》を付与しないこと。
 さらに、それと一つになろうとしないこと、である。

「エロース」と「アガペー

 また、冒頭でも述べたように、ドストエフスキーは《ロマンティーク》から《ロマネスク》へと作風を変えていった人である。
 それは、彼が自身の「自尊心」を克服し、それと同時に《偶像崇拝》的な態度から脱していった、ということでもある。

ドストエフスキーは、神の民がふたたび偶像の前にひれ伏すことを、倦むことなく告発し続ける。彼は、その偶像崇拝から生じる追放、分裂、苦悩を暴く。
神への愛と隣人愛が合致している世界では、真の試金石は、他人との関係である。地下室の奥で「他者」を偶像のように崇拝し憎みたくなかったら、「他者」を自分のように愛さなくてはならない。良きにつけ悪しきにつけ、悪魔の手から逃れられない世界では、人間を誘惑する恐れのあるのは、もはや黄金の仔牛ではなく、この「他者」である。
「第四章 復活」(p.140)

 「他者」を《偶像》のように崇拝することは、「他者」を真の意味で愛することではない。それは単なる執着、あるいは「エロース」的な愛なのだと言えよう。(図11)
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 上図のように、自分が描きだした作品に《絶対性》を付与していては、「他者」本人を真に愛することは不可能なのだ。

 フロムの『ユダヤ教の人間観』には次のような記述がある。

神観念を受け入れることのできない人々は、ユダヤ教を構成する観念体系の外に身をおくことになるが、しかし、「正しい生き方」を人生の第一目標として追求しようとするかぎり、彼らは、ユダヤ教の伝統的精神にきわめて近いといえよう。この「正しい生き方」とは、儀式をとり行うとか、多くのユダヤ教特有の戒律を守るとかいうことではなくて、現代生活という枠の中で正義と愛の精神をもって行動することにほかならない。この人々は仏教徒にも近く、また、ピール神父のように「今日大切なのは信仰者と不信仰者との区別ではなくて、思いやりあるものとないものとの区別である」というキリスト教徒にも近い。
E・フロム著『ユダヤ教の人間観』(p.70−71)

 この、ピール神父の言葉は、いつまでも覚えておきたいホントいい言葉だと思う。
 やっぱ「思いやり」よね。大事なのは。「思いやり」ある生き方が「正しい生き方」なのよ。きっと。

 なぜかオカマ口調になってしまったが、「正しい生き方」とは要はこういうことだろう。
 《絶対性》を放棄して、かつ自分の作品から離れ、「他者」本人と向き合う。此れ。
 このような態度を心がけることによって、「他者」を思いやりつつ、「自尊心」を克服していくことが可能になるのではないか。(図12)
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 そして、このような態度は、「自分」自身を愛する際にも有効であろう。(図13)
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 で、このような愛こそが、真の愛、いわゆる「アガペー」と呼べるものなのではなかろうか。

おしまい。


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